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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

台風一過秋晴れの10月スタート/稔りある月にしなければ・・・/小石川を見て小石川に行きたい、夢を戯言する精神の弱さ

2018.10.02

 おはようございます。久々の秋晴れで、いつものことながら台風の去ったあとの清々しさは格別で一気に秋をもたらします。このところの気温低下で子どもたちはたちまち体調を崩し、体の不調を訴えるものがちらほらと出つつあります。この時期は、移動教室も盛んで、それとのからみで体調を崩す子もよくかつてはありましたが、子どもに体力のないのはしかたない。わたしなどもそれほどタフというわけでもないので、かなり用心はしています。この時期はとにかく体温を落とさないことだと思っています。うっすらと汗を浮かべるほどの服装がちょうどいい、とにかく体を冷やさないことです。

 10月になって、いよいよ受験指導も佳境に入らんとしております。これまでにわたしの想定するノルマをきちんとこなした子と、未だに積み残して終わりの見えない子との明暗の差は歴然とし、積み残した子たちの間の較差も多様です。また一応は終わったことになっているが、自分の力で解いてきた問題はほとんどないという子たちには、思考を培う意味を持つことのない、虚しさも漂っております。そういえば去年の小6も入会当初の期待虚しく、大量の積み残しが結局失速へとつながり、落ちるべくして落ちていった子たちが目立ちました。

 わたしの指導ノルマについてこなければ合格はないと思います。特に、課題の重要性は今更です。小5のみなさんは課題は絶対にサボってはなりません。課題を出さないできたことの知的損失は計り知れないものです。

◎バカ親のバイアスに満ちた見識がもたらす悲劇についての考察

  何の変哲もない、普通の子ばかり、そういう子を放って置く親の無自覚な生活姿勢のもたらすバカ息子、バカ娘の量産が、社会の底辺にあたりまえのように、若くして人生に躓いた、敗北感に満ちあふれた若者を排出する構造こそが、現在のバカ量産構造にほかならない。あたりまえの問題ができない、ちょっと難しいかなと思う問題はやはり解けない、そういう子が、桜修館を受けたい、という、これも普通の事態です。親の無定見はそれを可能と考える。子の能力は内申をみれば明白なのに、我が子だとそれは真実の姿ではないと勝手に決めつける。 正直、入会試験で、仮合格ということの本音は、入会しても見通しは暗く、気は進まない。私の本心は、子の現実を見てガックリしている親への、同情であり、「やるだけのことはやってあげよう、それでだめなら、諦めてもらうしかない」という、譲歩であると思う。それは、「どうしても竹の会に入りたい」という気持ちに対する、私のささやかな感謝の気持ちからである。無名の竹の会に遠くから来ていただいたという感謝の気持ちである。ところが、竹の会の指導の思わぬ効果に驚きを隠せないのは、私自身なのかもしれない。小4早期に仮合格した子たちの伸びていく、蓋然性が高い、のである。だから仮合格でも、小4早期まで、遅くとも7月までなら、やる価値はある。仮合格でも、やる価値はある、と考えるようになった。もちろん小4早期に、普通に合格するほどの子がいい、欲しいに決まっているが、そういう子に巡り会うことは、なかなかない。小4でも、9月、10月と遅くなるほど、成功の見込みはなくなっていく。だから小5というのは、もう完全に遅い。小5で成功しないとは云っていない。ただ小5で成功するには、かなり知能が高くなければ無理である。 わたしが云っているのは、世の中の「普通の子」の話しである。

 親の無定見なのか、塾など無縁という、普通の子たちが、たくさんいる。(もちろん経済的な理由というものはある。だから経済的に可能な場合の話である)。そういう子たちの学力の低さは、言語に絶する。親たちの、認識もかなり低い。かつて公立小の4年、5年、6年という子たちの多くを竹の会で見る機会があった。平成17年前後のことであったかもしれない。その時に、通分をなかなか理解できない小6、割合がまるでわからない小6など、公立小の子たちの学力のあまりにもの低さに驚いた。割合をいくら説明しても、理解しない子たちばかりであった。こういう子たちが、公立小のほとんどだとすると、小学校の先生は、大変な、思いをして、教えているのだなと、痛く同情した。 私が、小学生に、割合をどうしたら、すんなりと理解させられるか、いやそれに止まらない、計算の効率的なマスターを考えたのも、公立小の優等生と云われる子たちでさえも、まるでできないではないか、という現実に直面したからだった。そこに平成18年頃に、公立中高一貫校制度がスタートし、誰も彼もが九段をと志望したものであった。そういうことから、私の、普通の子たちを指導する方法の研究が始まったといえる。 公立小の大多数を占める普通の子は、塾に行かなければ、ただのバカである。いや塾に行けばバカから抜けられるか、と言えば、そんなことはない。大手進学塾に行けば、落ちこぼれたバカが多数出るし、公立中高一貫校対策の大手塾に行けば、これはこれでまたバカが固定される。 だから、バカには、3通りのバカがあることになる。 そこで、この3バカ大将について少しくその実態を考察してみることにする。 便宜的に、3バカ大将を、I型、II型、Ⅲ型に分けてみる。

 Ⅰ型  塾に行かない子

 Ⅱ型  大手進学塾に行く子

 Ⅲ型 公立中高一貫校型大手に行く子

 なお、中小、個人塾に通う子らについては、ここでは、一応置いておく。こういう子たちのほとんどが、何年通っても、何も変わっていない、そういう 実態については、また後述するとして。

 Ⅰ型の塾に行かない子が、普通の子なら、絶望的な見通ししかない。高校入試で、成功することもない。割合もわからない子にいったい何を期待できようか。 思考のスタイルも形成されることもなく、勉強のスタンスもないままに、漠然と、ぼんやりと、それとなく、成り行きから、中学生になる、そういう子たちに何かを期待できるはずがない。 この型の子たち、家庭は、塾に免疫がないために、いざ塾に行く段になって、塾で失敗するのがほとんどである。この点、Ⅱの進学塾に行って失敗を経験した親というのは、よく塾というものを知っていて、塾を見る目もそれなりにできている。Ⅰ型の子、家庭は、塾に免疫がない。そして勉強するということに免疫がない。だから結局失敗するしかない。塾とは無関係に、長閑な学校ライフを恙無く送ってきた、のんびりとした田舎暮らしの人間が、突如として、東京に出てきたようなもので、こういうのが、一番、大手の客慣れした、商法に騙されやすい。今ではほとんどの大手が地元に支店を出して、勧誘しているから、便利、安心というのでたいていの親は地元の大手に飛び込む。とにかく一度失敗して見なければ、わからない、なかなか厄介な人たちなのである。いずれ失敗して、自分の未来という高い代償を払って、塾のなんたるかを知るしかない、人たちなのである。哀れというほかない。 かつて、どこやらの父親が、わざわざメールしてきたことがあった。曰く、「うちの子は塾に行かないで受かりましたよ、塾に行かなければ受からないというのは、危険な思想ですね」と。まずこの父親の勘違いをわたしは当時のブログで糺しておきました。わたしが、「塾に行かなければ受からない」と言った覚えはないけれど、一般論として、塾に行かない子の学力低下、不振、絶望的な将来について、度々持論を展開してきたことは、間違いありません。この父親は、自分の子が、塾なしで受かったことを一般化して、塾はいらないとしていますが、もともと頭のいい子についての手柄話を世の中の通例としてしまう、頭の粗さは、もはやわたしの議論の相手ではなく、とにかくこういう輩には、近寄らない、無視していくのが一番であると心得ております。こういうバイアスのかかった父親というのは、学歴の高い父親に多い。小3の我が子を「うちの子は日比谷に受かると思います」などと言ってきた父親がいたけれど、トップ都立というのは、ただ頭がいいだけではだめで、好き嫌いのない、9科目にすべて5がとれるほどのバランス感覚のいい優等生でなければならない。それは生来勉強に迷いがなく、真面目に努力をする秀才以上であり、タフな精神が備わった子でもある。そういうことが、小3の子を捉えて、「うちの子は日比谷に受かる」などと公言する父親に、なにを戯言を言っているのか、とわたしに言わしめた由縁である。あまりにものバイアスのかかった哀れな人間に見えて、関わりたくない人間であると思う。こういう人種には近寄るとろくなことにはならないと心得ている。

 Ⅱの型の普通の子たちの末路は、落ちこぼれが、典型である。能力がないから理解できない。なのに偏差値の高いところばかり受けたがる。一流志向は高いけれど頭が伴わない。そもそも進学塾などというところは、一部の天才のみに開かれたところなのに、裕福な家庭の頭の伴わない子が、大手の経営を支える形で、取り込まれる構造になっている。 結局、頭の悪い子は、覚える、ことで、乗り切ろうとするから、うまくいくわけがない。落ちこぼれということの中身は、そういうことである。

 Ⅲの型、こちらは、進学塾のような落ちこぼれの問題はない。そもそもが、進学塾のやるような、高度な内容はやらないから、落ちこぼれるわけがない。落ちこぼれが出ないようにギリギリまで本人たちが「できない」「バカだ」ということを気付かないような配慮が仕組まれている。問題はそこにある。易しい内容では、頭は、訓練されることはないから、思考というものが育たない。進学塾のように、割合をそれとして習うこともない。こういうところでうまくいくのは、例によって、もともと頭のいい子だけということになる。だから、本質的には、塾というのは、もともと頭のいい子たちに居心地のいいところなのである。

 Ⅰ型の塾に行かない子、これももともと頭のいい子は、本来塾に行っていればもっと良かっただろうけれど、それでも能力の高い子は、できる。 だから、私が、云っているのは、飽くまでも、普通の子である。ここで、学校の優等生と云われる子のレベルでも、大したことはない、ということは、云っておかなければなるまい。私がいう頭のいい子というのは、学校の優等生の中でも抜きん出ている子を言う。 わたしは、一年も二年も、地元の個人塾、中小塾に通いながら、なにも変わっていない、学力が低いままに固定されている子たちを多勢見てきました。この人たち、家庭、親たちは、子どもの未来を確実に捨てたことの自覚は当然ですがないようです。この親たちが、共通して、口にするのが、「子どもの負担にならないように」とか、「無理をしないように」とか、です。子どもというものが、訓練してなんぼ、訓練するべき時期に訓練しないことの悲劇的結末を悟らないのです。壊滅的、つまりその子の未来を壊滅させるほどの、怠慢、不作為、無作為、つまり愚かな親の甘い、緩い愚行がもたらす、子の未来の位置についての思考というものははたらかない、思い至ることはない。 小4というのは、訓練するべき時なのです。こういう年齢の子を、授業型の塾に通わせるのは、誤りであり、愚行でなくてなんであろうか。 小学生は、訓練に適した、素材であることは疑いない。小学生は、計算を訓練し、計算の達人に仕上げるべきなのに、授業で計算のやり方を、教えて、あとは任せる、という巷の塾のやり方を信頼するバカ親は放っておけばいい。割合を授業で教えて、子どもたちがみなわかるようになると信じているバカ親の皆さんは勝手に好きなように我が子を始末すればいい。

 割合を子どもたちが、簡単には理解できないのは、それが、思考そのものの未熟を示すからであり、このとき割合は、思考未熟か否かのリトマス紙の働きをする。割合を理解できないのは、思考未熟のゆえである。なぜ、割合を、理解できないのか、それは思考未熟だからに他ならない。だからわたしは、割合概念を使って、思考を鍛える、訓練することを、必須と考えてきた。 私が、竹の会を、思考を育てる塾と唱えるのは、都合以上述べたような根拠からである。 わたしの指導は、徹底して、訓練することである。それは、計算概念、割合概念の訓練を通して、思考形成という目的を達成すること、これに他ならない。計算を訓練する名目で実は抽象思考、形式思考、数概念の習得を訓練している。割合を訓練する目的で、実は、思考形成を訓練している。そういうことです。 考える力を育てるなどと、巷の塾が、また、喧伝していますが、なにを云っているのか、抽象的なスローガンをあげて叫んでるだけではないか。具体的になにをやっているかと言えば、算数なら算数の問題を自分で時間をかけて考えさせる、そういうお粗末な内容です。 バカでねーの。看板に書けばそれでそういう塾ということになるのか。巷の塾は、看板塾です。ですから看板にかいたらそういう塾ということにして、世のバカ親の皆さんはその看板を実体あるものとして信じるわけです。大手の看板は、合格実績、それは一部の天才たちが、作り出したものなのだけれど、大手は、まるで何から何まで自分の手柄か何かのように看板にかく。大手は、テキストだって看板にしてしまう。大手のテキスト、講師、みな看板になる。富士山合宿という奇抜な看板で高価な商品も売りつけられる。 大手は、インターネット、駅の看板、新聞の折り込みチラシ、ありとあらゆる媒体、方法で看板商法を展開する。 薬なんかも効能を看板にして売り捌くわけですが、看板どおりに効かない薬、酷い副作用をもたらす薬、のんでも呑まなくても変わらない薬、プラシボ効果しかない薬、そういう薬ばかりです。薬の場合、 国の規制もあるし、患者の悲痛な叫びもあるから無茶はできない。薬でこれですから、塾などは規制もなく、バカ親が騙されても後からその責任を問うなどのこともない。受験の性質からは、子の能力が足りなかったとか、努力が足りなかったとか、時間がたりなかったとか、そういう不確定要素をいつでも言い訳として持ち出せる。親たちは、決して大手を責めることはない。それをいいことに、大手は、平気で、実現することもない、口当たりのいい看板を親たちに、もうこれで受かるみたいな調子で誑かし、親の弱み、つまりバカ息子、バカ娘に育てた罪悪感を突いて、過保護、甘やかしのツケがチャラになるかのような看板を信じ込ませる。大手に入った親たちは看板背負って誇らしげである。昔から大看板に弱いのが、世の人である。当たり前に考えたら、そんなうまい話はないのに、大手の看板をただ信じて、大手なら間違いないと大手に行く。 あと地元の大手、地元の中小塾に、行くというのが、親の、安易な選択であるが、これで子どもをだめにした例なら夥しい数ある。竹の会には、遠くの区から通って来る子が多いが、「なぜ地元に腐るほどある塾に行かないのか」、一度尋ねたこともあったが、愚問だった。地元の塾がダメだからわざわざ竹の会まで来ている、よくわかっていらっしゃる。塾というものをよく知っている親御さんというのは、もともとの高い見識のある方もいますが、場数を踏んで学んだ方もおられるのかと思います。 小3、小4の親だと、たいていは、看板に騙されるか、便宜性、至便性、安心感などをとりあえず優先させる。まだ小4だからとか、体力がないからとか、が、これが取り返しのつかない選択であったということは、いずれ、近い将来に、わかることなのであるけれど、その時は、後の祭りであるのはもちろんである。

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