2018.10.10
🔴合格する勉強とは~これからの勉強について 竹の会の小6のみなさんへ
とうとう10月になってしまいました。 あなたたちが、やってきたこれまでの努力には、敬意を表したいと思います。特に、わたしの想定する、合格のためのノルマをこなしてきた皆さんには、心より、敬愛致しております。 思えば、小4の4月に竹の会に来ました皆さんは、まだ小数の割り算、特に、余りのある割り算も知らない、本当に、幼い女の子、男の子でした。それが、2か月、3か月もすれば、あなたたちは、難しい分数の計算をこなせるようになりました。それからあなたたちは、割合ドリルを一生懸命にやりました。やがて「算数の魁」に入り、割合の基礎概念に苦しみながら、取り組んで参りました。この辺で、算数の得意な子と不得意な子の差が広がりましたね。算数が得意とは、つまり知能が高いという徴憑なんですが、それでも算数で苦しむ子の中には、素晴らしく高い国語能力を見せたりする子もいたりして、算数を評価の基準においていた、わたしを慌てさせました。算数の得意な子は、もう「思考の鍵」、「小学思考の素〜割合問題編」とすごい速さで進めていく。ところが、「算数の魁」をいつまでも抜けられない子たちもいました。わたしの喜びと落胆は塾の先生には通常のことかもしれませんが、失望しながらも思い直して、また救いの手を差し伸べる、そういう日課でした。そうこうするうちに7月、夏期講習が始まりました。この頃、また新しい小4が来てくれました。知能の高い子たちも集まりました。まだ皆さんは、小4でしたから、わたしは、先が楽しみで、期待に胸がワクワクしたのを覚えております。まだいろいろやる、やれる余裕があるのがうれしくてしかたありませんでした。月が進むと、次第に課題も増えていきました。しかし、この課題をきちんとやる子とやらない子でまた分かれました。竹の会の課題は、あなたたちの、未成熟な精神を鍛える、それがわたしの思いです。わたしの願いです。あなたたちを様々な社会の問題に触れさせて、脳を刺激したい、悩んでもらいたい、そういう思いから、わたしはそれはそれはいろいろな問題を課題レジュメに託しました。
夏が終わると、また小4が一人、二人と来てくれました。小4で夏の指導を受けていない子たちでした。わたしは、また例によって小数の割り算から始めましたね。竹の会は、入会した時から割り算からですから、早く来た方がいい。いつもそう思っています。冬が来て、あなたたちは、もう随分成長しました。割合の理解も進み、わたしはいい気分でした。年が明けて、2月になって、また小4がきました。もうすぐ小5の小4です。やはりこの時期だとかなり遅い、これから1年かけて計算から割合へとやれる余裕はない。竹の会は、いつ来ても始まりは小数の計算からです。だって、小数の計算も満足にできない、いや知らない子たちばかりですから。これは、小6から来ても変わらない。大手にいた、しかも1年も2年もいた、そういう子たちでも、小数の計算がまともにできた試しがありません。況してや割合などをまともに理解している子など皆無でした。世の母親、父親の皆さんが、地元の便利のいい大手へと通わせた子たちは皆、見事にスポイルされ、見事な、つかいものにならないバカに仕上がっていました。あなたたちの選択とは、その程度のものだったということです。やたら大手、大手と進んで、この体たらくです。中には、竹の会が、遠いと言う人もいました。中には小4から知っていたけど、子どもが小さくて地元の大手などの塾に入れたという親もよくいました。しかし、その選択は、結局失敗だった。小5、小6になった子どもたちの、取り返しのつかない現実に直面することになる。そうやって、最後に、竹の会にやって来た子たちがたくさんいました。もはやわたしにはどうにもならない。小5前後では、たいてい失速する。特に、大手にいた子というのは虚しいほどに使いものにならなくなっている。大手で、訓練されてこなかった子というのは、さらに悪い癖をつけてしまって始末におえないこともあり、素直な指導の受け入れができなくなっている。これが指導を妨げる。わたしはまだ他塾で捻じ曲げられていない小4が欲しい、いつもそう願って来ました。小4でも2月ではもう遅いと思っています。過去の指導経験からうまくいく可能性が低いのです。せめて小4の9月まで、正直9月でも遅いと思っていますが、譲歩してです。 だから、わたしは小4から来てくれた皆さんにどれほど喜んだことか。これでわたしの指導ができると、喜びました。仮合格はそういうあなたたちのために作りました。小4から竹の会を目指して来てくれたあなたたちをわたしは仮合格でもとにかく欲しかったのです。あなたたちをわたしはそれは気にかけて指導してきました。なんとか大人の判断ができる子たちになって欲しいとわたしはあなたたちに竹の会の未来をかけました。小4の4月から、わたしはあなたたちの成長に合わせて生きてまいりました。あなたたちが、課題を出さないときは、わたしは悲しみました。わたしの思いが通じないことをそれは悲しみました。 小5になったあなたたちは、割合に相変わらず悩みながら頑張りましたね。小4からいたから、わたしは、とても楽でした。小5からだともう間に合わなくなるという思いでいつもヤキモキしていなければならない。小4の2月だって同じです。かつては竹の会は小4の2月を募集時期としていました。それはギリギリの譲歩でして、竹の会には、小4から来てくれる子なんていない、小5からだって来てくれる人は少ない、皆大手ち行ってしまう、からです。しかし、わたしの思いは、いつも小4から来てください、お願いです、でした。今年の小6の皆さんが、小4から来てくれたことは、わたしにはこれほどの喜びはなかったのです。だからわたしはあなたたちにわたしの思いを捧げて来ました。わたしはあなたたちに心血を注いできました。あなたたちが成長していくのが楽しみでした。時には、「この問題を解けたの」とどれだけ感動を与えてくれたことでしょう。わたしはあなたたちに幸せを分けていただいてきました。小6になって、もう10月になりました。わたしはあなたたちにわたしの力の限りを尽くしてこれからの、最期の3か月を捧げたい、と決意しています。小4の時に竹の会に来てくれたこと、わたしの指導を信じてついてきてくれたことを、とても感謝しています。
わたしは受検のたびに思います。もうこの子たちのためにわたしの命を捧げてもいい、わたしはもしかしたら死ぬかもしれない。でもわたしはあなたたちのためにわたしの全生活を捧げても受からせてあげたい、わたしはずっと願ってきました。皆さんに合格をもたらせてあげたい、わたしの心の叫びでした。
「先生、今週はなぜ休みなんですか」 ある小5の女子がわたしに尋ねました。 わたしは答えられませんでした。 今、わたしは、朝暗いうちから家を出て、新幹線のぞみ号のガランとしたグリーン車の席にひとり座り、このブログを書いています。 もうすぐこの世を去る、父さんに会いに行くためです。今年の2月にあと1年と言われて、何度も手術をして、とうとう脳梗塞を併発してしまいました。もう話すこともできません。夏前には、まだ元気で話をすることができました。十年ぶりに帰った私の子どもたちのことを自慢にしてくれました。弟は難関国家試験に合格したこと、兄は研究者として晴れがましい場所で論文を発表したことなどを父さんに、つまりおじいちゃんに報告しました。わたしも、もう随分故郷には帰っていなかった。 今日は、父さんに最期の別れです。もう会えないと思っています。塾の先生とはそういう仕事です。母さんが白血病になったとき、余命一週間と言われたとき、塾の先生になったことをどんなに嘆いたことか。あの時も母さんに詫びました。心の中で「お母さん、ごめんなさい」と詫びました。これから父さんにお詫びに行くのです。 もうこの世では会えなだろう。そう思っています。母の葬儀には妻が行きました。わたしは、子どもたちの、指導に追われました。12月のことでした。今日の新幹線は、一人ぽつんと寂しいですね。女の子の質問の答えになったでしょうか。
申し訳ありません。これからの勉強について書くはずでした。 わたしは皆さんを、これから、渾身のレジュメを作り、皆さんに届けたい。わたしのレジュメが合格をもたらす、そう信じています。確信しています。 これから3か月、わたしは眠るのも惜しんで皆さんに合格するための、わたしの知恵と経験を結集して最高のレジュメを作っていきたい。特に、小4から、わたしの指導とともに成長してきた皆さんには、合格させずにはおかない、そういう決意です。 これからの私は、毎日あなたたちのことを考え、どうしたら、皆さんに合格をもたらせてあげられるか、そういうことを思い、過去問をめくり、そのための啓示を求めて、閃いたら、それは竹の会の神さまの教えと信じて、とびきりのレジュメに創り上げて皆さんに届けたい、そう思っています。 あと3か月、どうか私と、竹の会とお付き合いください。小6の子たちが、泣くのを見るのは、辛いです。毎年、わたしはそういう子どもたちの涙を見てきました。 その度に、もうこんな思いはさせたくはない。だから、いつも厳しいことばかり言ってきました。ごめんなさい、心では厳しくしてごめんなさいと詫びています。
竹の会の子どもたちは、私の編んだパラコード を腕につけて、嬉しそうです。私の心が、思いが、子どもたちに届いたようで、わたしは皆さんのパラコード をつけてくれている姿を見るととても嬉しいです。パラコード は、戦場のお守りです。わたしは心を込めて、編んでいます。最初は失敗を重ねながら、少しずつだけど編む技術は上達していきました。確実に腕を上げたとると思います。パラコード を編み始めてもう3年以上になりました。わたしもいつもパラコード をしています。
わたしの心が通じたとき、その時、あなたたちは、受かるのだと、わたしは、そう信じています。この子は受からせなければとわたしが思うとき、何かすべてが、そのように動くような、いつもそう感じてまいりました。わたしがそう思うのは、その子の真面目な態度、謙虚さ、正直さ、直向きに勉強する姿勢に心打たれたとき、そう思います。受かって欲しいと願っても、家庭学習が私の期待とあまりにも乖離のある子たちには、失望と落胆が、わたしを覆います。習い事、稽古事やら何やらでいつも失望と落胆を感じてきた、そういう子には、神が手を差し伸べることはなかった、そう確信しています。 どうかこれからの3か月一つ一つ確実にこなしながら、充実した日々をお過ごし下さい。
まだ父も母も元気で、若かった頃、多感な中学、高校時代を過ごしました。母は元気で、毎日私たち3人、姉と私と弟を育てるために、生活をやりくりしていました。あの頃、私は父に反抗して母をどれだけ泣かせてきたことでしょうか。母はこの世を去る前の日、「父ちゃんとたけちゃんが、仲が悪くて大変だった」と呟いたそうです。父は、尋常小学校を出て、裕福な家に生まれながら、放蕩して勘当された祖父に、旧制中学を退学させられ、妹と共に寺に預けられました。16歳の時に国鉄に入り、それは苦労して、今は亡き祖母と父の妹の生活を支えてきたのです。コツコツと働き、大きな駅の駅長で退職し、国から勲章をもらって、天皇陛下に母と拝謁しました。勤続四十年表彰を受け、別府の地に土地を買い家を建て、私たち3人姉弟を育ててくれました。わたしは、父と相性が悪く、考え方が合わずに、親不孝ばかりしてきました。母の死後十年、実家には帰りませんでした。今から三十有余年前に、一人で東京に出て、すぐに今の妻と出会い、すぐ結婚して、渋谷の片隅で、塾を始めました。あの時は、父も母も喜んで、東京に出てきて、日枝神社で、親戚が集まり、細やかな結婚式を挙げてくれました。父さん、母さん、ありがとうございます。わたしが、父と母に喜んでもらったのは、九州大学に合格したときだったと思います。学歴のないことで苦労した父には、私が旧帝大に合格したことは、ほんとうに大きな喜びだったのだと思います。入学式の日、二人は、博多の旅館に一泊して、晴れがましい姿をして、キャンパスを歩き、九大記念講堂で催された、入学式に出てくれました。ほんとうに嬉しそうでした。 渋谷で、竹の会を始めたとき、母は、いつも生徒がなかなか来てくれないことを心配してくれました。毎年、合格の状況を知らせると、母は本当に喜んでくれました。最近の父は、毎年送る竹の会のカレンダーを楽しみにしていました。さようなら、父さん、母さん、わたしは、あと少しだけ、この世で頑張ります。子どもたちが、待っている東京に帰ります。さようなら、父さん、母さん、もう涙で書けません。この世に生きるということは、泣くこと、溢れる涙を流して、締め付けられるような心の痛みを和らげること、そのことだけは確かに知っています。母が死んだ時、それを学習しました。人は、悲しみを涙で和らげる。涙は、人間に内蔵された、魔法の薬、目には目薬、心には心薬、それが涙。 秋から冬は短い。すぐに厳しい冬がやってくる。また寒くなる。母さんも父さんも寒くて辛い冬をよく耐えてきたと思います。毎年毎年風邪を引いたという知らせを聞いては心を痛めてまいりましたが、もうそういうこともなくなるのか、寂しくなります。 もうすぐ紅葉の季節がやってまいります。季節が巡るたびに、あと何度こういう景色を見られるのだろうか、とふと思います。遠く父と母と離れて暮らしてきましたが、もう父も母はいなくなる、そうなるのですね。 渋谷教室に移転してから、秋には紅葉を愛でて、奈良、京都、特に、京都に惹かれて、出かけてまいりました。子どもたちの指導の合間を縫っての一泊旅行でした。わたしには本当に一年に一度だけのわがままでした。初秋、秋酣と過ぎてゆき晩秋から初冬にかけて心騒ぐのは、高校の頃からもの寂しい秋にはいつか出会うと思い続けた、赤い糸のひとに漠と出会うと信じていたのに違いない。秋はなぜか心が騒ぐ、紅葉が騒ぐ心を優しく包み込んでくれたことだと思う、秋は哀愁漂う、わたしの寂しい心には波長が合う、きっとそうに違いない。