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合格する子のスタイル 

2021.12.01

 

合格する子のスタイル
 合格する子のスタイルというのがある。一言で言えば一定のリズムがある。問題を与えられる→考える、ここで長くても30分以内→合格ハンコないし準合格ハンコをとる→解説と次の問題をもらう、この過程をリズムよく進められる子である。
 問題をもらって出すのは速いがほとんど不合格という子もダメだが、1時間、2時間と時間をかけて結局「できない」という子は、受検は無理である。
 わたしには、こういう子が、なぜに受検にそこまでこだわるのかわからない。それよりも区立中学に行った時のことを考えるとゾッとする。
 親は子の才能の有無を見極めなければならない。受検には不向き、つまり才能がないとしても、もしかしたら高校受験には向いているかもしれない。そういう才能はあるかもしれない。
 一般論を言えば、受検が無理な子が区立中学で成功する蓋然性はかなり低い。
 もし成功するとしたら、それはやはり才能があったということなのではないか、と思う。つまり、受検では才能を発揮できなかったが、高校受験では発揮した、ということである。
 そういう例として、平成28年都立戸山合格の男子をあげることができる。彼は桜修館志望であったが、模試で結果を出せなかった。算数には光るものがあったが、適性問題はなかなか解けなかった。とにかく時間がかかりできなかった。
 高校入試で成功したのは、本来才能があったからである。算数はよくできたのだから。
 つまり、高校入試で成功する子は才能がもともとあったのである。
 言われたことができない子が、高校入試で成功することはほぼないのである。
 適性能力とは、「普通の読み取り能力のことである。端的には、「問いに答える」能力である。本文を読み、問いに答える、それだけである。問いの細かい指示をきちんと踏まえて「答える」ことができるかが試されている。見落とし、勘違い、読み違いをする子は篩い落とされる。問いそのものは、本当に簡単なことを質問している。ここで、素直に考える、普通の、つまり、十人いたら八人が考えるであろう内容を訊いている。これを常識的な答えと言っても、ことはそれほど簡単ではない。現代は価値観の多様化が進み何が常識か曖昧ないことが多い。親の価値観、家庭環境それぞれに偏見があり、子どもはその影響を直截に受ける。
 普通ならこうなる。だからそうなるはずだ、という論理がなかなか通用しないのだ。
 司法試験なんかも、素直に考える人の方が早く受かるのは、勉強というものに対する心のありかたが大きく成否を左右することの証左と思える。
 とにかく素直さが伸びる秘訣である。穿った見方をすること、捻くれた見方をする子というのは、他人の意見に耳を傾けることもなく、ましてや先人の言うことなど素直に聞くはずもない。なにもかも自分の判断で処理しようとすることは、先人の知恵を活用しない分、かなりに非効率と言わざるを得ない。また自分が偶然に手に入れた情報を自分が信じたから自分が判断したから絶対正しいと信じてやるのは、失敗する蓋然性99%と思う。なにしろ先人の声というのは、そうした数々の失敗の上に形成された究極の真理であるのがむしろ普通であると思えるからである。
 こうして成功の要諦は、まず素直であること、そして先人の言うことに従うこと、となる。
 勉強には才能が要る。これは争えない真理である。
 しかし、神は才能があっても努力しないもの、怠惰な人間には、才能が宝の持ち腐れとなることを配剤した。さらにしかし、努力を惜しまない者が、才能があり努力する者に勝てないという自然の摂理ともいえる裁定をしたのである。
 地球では、人間が他の生物の生命をも支配する横暴が続いている。人間は生まれた瞬間から死の宣告を受けると同時に死ぬまで生存競争を運命づけられる。それはすべての人間が平等に富を享受できないという生存の公理に規定される。生まれたときから社会があり、社会の富が集中する層と貧困層に社会は分断されている。上の層には通常学歴ルートが用意されている。このルートから外れた者は、芸人になるか、職人になるか、プロ選手になるか、YouTuberになるか、とにかく多様な生き残る道があるのであり、学歴ルートだけが生き残る道ではない。
 だが、多くの凡人には、普通の学歴ルートを歩むしかない。才能は、知的才能だけではない。野球の才能、芸人の才能、職人の才能、いろいろある。学歴ルートとは別のルートを選ぶ場合、努力が成功に資する度合いは大きいのではないか。例えば、宮大工、刀鍛冶、漆器職人などは、才能もあるがそれ以上に努力のもつ重みが大きいような気がする。さらに、大切なことがある。どんな仕事も最初から面白いものはない。好きこそもののじょうずなれ!というからまずその道が好きでなければどうにもならない。その上でどんな道も最初から面白いなどということはないということである。助け働きというか、最初は小間使いのような仕事もやらなければならない。とにかく何の変哲もない日常に耐えなければならない。というかそういう日常をあたりまえとする感覚こそが大成するには必要なのである。
 さてそうは言ってもほとんどの人間にはそういうルートを選ぶ勇気もない。学歴ルートを進むしかない。しかし、このルートは才能ある者が勝つ、最初からハンディを背負った道となる恐れがある。
 学歴ルートには、通常、中学受験、高校受験、そして大学受験という試練がある。それなりの大学に行くには通常それなりの高校に行かなければなるまい。中学受験もそれなりの大学に行くための布石であった。
 試験とは、才能ある者の中から選抜する仕組みである。才能の劣る者が戦いに参入するには、あまりにも酷な戦いである。勝ち目はほぼない。それでも親は子可愛さのあまりなんとかしたい、と藁にも縋る思いで、塾を探す。塾というのは、こういう親こそ真のお客様なのである。大手進学塾は、宣伝用の天才を集める。この少数の天才たちが大手の宣伝用実績を作ってくれる。その他大勢は宣伝に煽られて、騙されて、我が子も受かると誤信し、多額のお金を納める人たちである。
 いいですか。大手ははっきりと言っている。才能がなければ受からないと。中学受験で第一志望に合格するのは、全体の30%と言われている。つまり、才能のある子は全体の30%前後ということだ。中学受験はそれなりに志しの高い子たちが集合するわけだから、その中の30%である。公立小には、中学受験をしない子たちが多数いた。それが今は、「都立中高一貫校なら」と受検する子たちがそれこそ一斉に増えた。都立中高一貫校制度も10年以上経つとその実績から私立難関校受験の子たちの選択肢の一つとなり、難易度は上がり、もはや学校の優等生では受からない。才能のある者が受かるという試験本来の姿になってきた。
 ましてや小学校の普通の子がそれ用の塾、例えば、エナ、栄光、大原、Z会などに行っても受かる道理はないのだ。いまや、都立中高一貫校は、進学塾の子たちの選択肢の一つになった。サピックス、日能研、早稲アカ、四谷大塚といった私立中学受験の塾に通う子たちが、小石川や桜修館、武蔵などを併願するのが常態となった。何年か前の小石川の併願率は75%ほどだったから、今では90%を超えているのではないか。
 つまり小石川を受検するということは、進学塾大手の天才たちと競うということであり、ますます才能勝負となってきた。小学校でトップにいても、学校の優等生と目されても、ダメである。わたしの経験は、学校の優等生がどの程度の才能であるのか、値踏み済みである。
 竹の会は、才能ある者には、その才能を最大限に引き出す、類稀な塾であると思う。
 現在竹の会に通われている子たちが才能に恵まれている子ばかりではないのは承知している。しかし、そういう子たちの潜在する才能を引き出すということでは竹の会は遺憾なくその能力を発揮していると自負している。
 このことは一度竹の会に入れば、とにかく学力が急進するか、徐々にではあるが確実に力をつけていくことが、親御さんにもわかる、だから竹の会では退塾相当と竹の会から告知しないと親御さんから退塾を申し出ることがあまりない。あまりないというのは「ある」こともあるという意味である。特に、中学では才能がなければ早晩成績は落ちるから、さらには部活にはまれば成績はまず望めないから、さらには勉強しないなら、成績に歴然と出るから、辞めざるを得ない。その意味での親御さんからの退塾申し出はある。それはわたしが暗に退塾を促していることもあるからではあるが。
 勉強するとして、勉強時間は何時間が理想なのか。
 中学なら毎日最低5時間である。3時間だと長期的には成績は下降していくであろう。つまり、足りない。
 理想は7時間。可能なのか。わたしは中3のとき一日7時間を実践した。
 小学生はどうか。
 理想は5時間。この前聞いてみたら、2時間ほどしかやっていないと返ってきた。これでは受検は無理でした。記憶に残るのは、平成22年に桜修館に合格した、かの杉山太一君です。小6の十月でしたか、土曜日7時間、日曜日17時間やったそうです。これが偽りでないのは、彼は金曜日に過去問コピー100ページほど持ち帰り、月曜日に完全にやり上げて提出してきたことからわかります。見事なまでの「美字」でした。書道七段だそうです。また見事な答案でした。竹の会にそのコピーが今もあります。彼は6年後京都大学法学部に合格しました。
 23年小石川に合格した小6は、小4の夏入会ですが、朝勉1時間、やはり竹の会定番の一日10時間を実行した一人でした。彼は6年後東京工大に合格しております。
 ここ何年か小6の勉強時間を、見てきましたが、平日2時間そこそこ、日曜日も4時間もやってない、模試で結果を出せないのも仕方ないのかと思います。
 字を乱雑に書く小6、漢検はやらないというのはいいがそれは漢字の勉強をしないということらしく答案は誤字だらけの小6、せっかくの課題をきちんと出さないために作文の練習、理科、社会、読解のチャンスを無にした小6など、久々に寒々とした思いをしています。
 勉強しない小学生は、受検など志してはいけないのだ、と思います。「漢検をやりなさい」と言ってもやらない、「課題を出しなさい」と言っても出さない、勉強時間を尋ねると「1、2時間」と答えて勉強できない理由を言い訳する、そういう子に受検は無理だと思うのです。わたしの指示が実行できないなら合格などない。そらはそこまでの能力ということなのです。わたしがいくら無理だと説いても受検をやる意志は固く、その無謀さを教えてくれるのは、模試の結果だけということになりました。模試は少なくとも「できない」という結果だけは嘘をつかない。真実です。「できる」という結果はよく嘘であることは本番不合格が証明してきましたから。模試とはそういうものです

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