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合格請負人(6)/新たなる旅立ち

2020.02.04

合格請負人(6)
〜思考力から作る指導
 「先生、わかりません」と言ってくる子たちに、わからないという問題を「教える」、これではダメなのは、わかりきったことだ。わからないという子は、わからないという問題を解いて見せても、原理を踏まえて教えて見ても、それで「わかった」と言っても、新たな問題を解く段になれば必ずまた「わかりません」という。考えて解いてない子は教えてもダメなのである。教えるということは、意味がないのだ。「わかる」というのは、説明がわかるということであって、しかし実はその説明もわかったつもりに過ぎないのだが、本来のわかるではない。
 「わかる」というのは、自分で解けるということである。説明がわかるは、本来のわかるではない。子どもが、自分で考えて、解ける、これを「わかる」という。合格請負人の仕事は、本人が自分で考えて、解ける、ということを仕掛けるのである。だから、自分で解けるという事実の積み重ねを重視する。
 解けるとは、どういうことか。例えば、割合の問題を解くとしても、段階を踏んだ手順というものがある。そもそも割合とは何か、そういうところから子どもの頭の中に構築していかなければならない。いきなり高度な理解を求めるのは無理である。最初はそれこそ身近な、とっつき易い具体例でイメージを作り上げていく。わたしの場合は、この段階で躓く子には、手を替え品を替え工夫に工夫を重ねた具体例を練習させる。割合の考え方というか、割合世界の住人となるまで、繰り返し、慣れさせる。割合の問題を考えるというのは、いきなり定義を説明して、「ならば」と持っていくものではない。特に、割合というのは、考えれば考えるほど奥の深いものであることがわかる。長い間、割合とつきあってくればそのことがわかる。わたしは子どもたちにできるだけ長い期間、できれば2年、3年でも割合の訓練をしてもらいたい、と思っています。となると、どうしても、小2ということになる。小2から小4の三年間、割合思考にどっぷりと浸かった生活を送ることができれば、理想的な思考の仕上がりを必ず見せる。いいですか。小4が終わった段階でまだ小5、小6と2年もある。小5の夏には、さまざまな対策をとれることになる。
 小3からくれば、2年間である。割合を仕込めるのが2年間である。
 小4では、実は遅い。一般論として遅い。例外はもちろんあるけれど、一般的には遅い。
 小5は、入会を推奨していない。それでもという人もいるけれど一般には勧められない。
 小6? 考えていません。
 わたしの指導は、神だと思っています。
 信じられないかもしれませんが、私が指導したら、小2でも、3〜6か月で、中学受験の難関私立で出されるレベルの計算問題が解けるようになります。いいですか。小2ですよ。普通ならまだ小数はまだ、整数のかけ算もまだかな、まあ、学校ののんびりとしたカリキュラムならそうなるね。学校の方針でやる理由なんてかけらもない。能力を引き出せばいくらでも飛び級できるのになんで能力の出し惜しみさせてるのか。伸ばせるのに何を勝手な事情で先送りしているのか。わたしには当局が手を抜いているようにしか見えない。小2でも分数、小数、カッコの入り混じった、複雑な四則混合演算ができるのに、逆算だってできるのに、なぜ小6まで待つのか。小2でも割合の理解を通して思考を鍛えることができるのに、何を小6まで待つのか。わからない。わたしにはさっぱりわかりません。思考するというのは、人間を人間たらしめるかけがえのないもの、これから生きていくためにかけがえのない存在となるもの、子どもたちには早く早くその存在に気づかせてあげることこそが何をおいての先決事項ではないか。小2から小6になるまでの4年間、思考訓練をしないという、先送りにいったい何の意味があるのか。文部省の指導要領にしたがって学校当局は学年ごとに履修事項を割り振り、授業しているだけである。そこで想定しているのは、平均的な小学生を想定して、一律に平均値としての学力を集団を一塊としてただ教えているだけである。

 まず子どもというのは、ただ教えただけでどうにかなるというものではない。一部の天才は学校では飽き足らず塾に通うという形で、学校カリキュラムからの訣別をする。しかし、多くの親や子どもたちは、学校を信じて、学校カリキュラムに粛々と従う。自己の能力を矯めることに何の疑問ももたない。
 学校の内申が悪いのは話しにならないのは、学校の授業の質が並以下だからである。また学校の内申がいいとしても授業の質が低い中での成績であって見ればこれで喜ぶ理由はない。玉石混淆ですね。
 さて、こうして学校の授業進度に合わせて、学年に割り当てられた履修事項をこなしていくことの意味がわかっていただけたであろうか。
 今の学校教育の欠陥のひとつは、子どもを訓練しないことである。ドリルをやることが決して訓練なわけではない。集団授業のもつ負の面が、特に小学生の指導では前面に出る。この点は、大手塾の集団授業も同じであることはもちろんである。大手の場合、こなしきれないテキストの問題、カリキュラム本位の授業など学校とはまた別の問題があるが、これについては既に別のところで再三述べてきたところである。
 竹の会の主張は明確である。要は、早期に訓練を軸とした指導をしろ、ということである。
 竹の会の場合、訓練ということについても、いわゆる公文的ドリルの訓練とはまるで違う意味内容を主張している。
 計算訓練、思考訓練、割合訓練、小学生はすべてが訓練である。決して教えるのではない。また教えたことをドリルで練習するのでもない。訓練というのは、できるのを見届ける、ことである。できなければできるまで見届ける、これが訓練の意味である。
 訓練という言葉には、竹の会では、特別の意味がある。
 何をどう訓練するか、これが問題である。竹の会では、訓練項目、言いかえれば、訓練テーマを決めて、それを完全にできるようになるまで、訓練する。できなければ繰り返し訓練する。訓練に際しては徹頭徹尾無駄な訓練を排除する。わたしはこれでいいのか、いつも問い直している。もっともっと合理的な方法、道があるはずだ。子どもたちには、無駄な説明は要らない。
 レジュメという方法は、竹の会の訓練を完璧にする、最強の手段である。レジュメは、竹の会の、私の指導の中核を成す。レジュメの基本的仕掛けは、算数の入試問題を吟味し、選んだ珠玉の問題をまず問題レジュメとして与え考えさせる。子どもが持ってきた答案を見て採点する。できていなければもう一度ということになる。この段階のレジュメには解説はない。私とのやりとりに重点を置くからである。竹の会で指導というときはこの段階を指して言うことも多い。問題レジュメには、それとなく理解度を試す問題を忍びこませている。これは解説は最初から予定していない。これまでの理解が本物なら解けるはずだという前提で出しているからである。できなければ理解していなかったということになる。
 わたしは、子どもたちに、思考の枠組みというものを構築してやって、その枠組みで考えろ、と言っているだけである。そのためにわたしは竹の会では誰でも知っているミクロマクロという思考枠組みを発明し子どもたちに与えた。子どもたちには、抽象世界の中で、つまり思考という最初は不安定な意識世界の中で、拠り所となる、救世主であるに違いない。子どもたちはこのミクロマクロに慣れてくると、次第に思考というものを、思考回路というものを、持つようになる。大きな思考のシナプスを脳内に形成するようになる。わたしはこの割合シナプスをてこにさらに様々な思考体験を与えて、もはや割合シナプスとは別の思考シナプスを作り上げていくことができるようになる。この頃になるともはや割合問題ばかりではなく、算数のあらゆる型の問題を使って思考シナプスを形成していくことができるようになる。
 竹の会のレジュメには、解説にはわたしの持てる限りの最高の解説を尽くし、図を駆使して、それでいて、簡潔を至上命令と心得、一目瞭然をコンセプトにかいてきました。
 竹の会の解説が見て読んでわからないのなら受検はやめたほうがいい。これは竹の会の自信であり、決断でもあります。
 解説レジュメは、適性過去問から重要なものを抽出し、解明したシリーズと私立難関中学の過去問を重点的に解説したシリーズに分かれます。
 特に、後者は、私立難関中学に合格できるほどの内容として仕上がっております。
 ほかに竹の会では、国語レジュメシリーズ、理科レジュメシリーズ、社会レジュメシリーズなどを開発済みないし現在開発途中のものがあります。
 わたしは合格請負人です。どうしたら都立中に憧れる子を合格させられるか、そのことばかりを考えてまいりました。昔は、受験の年になって、時には、受験1、2か月前に相談にやってきたという例も少なからずいました。幸いなことに、そのほとんどを成功させてきたのも事実でした。合格請負人とは、どのような逆環境にあっても、必ず成功させる、という強い意志の人のことである。オール1の生徒を都立玉川に合格させた話しは前にしましたが、そういう場合の合格は、本来の力をつけてというものではなく、かなりに臨床的な、かつ戦略的な方法でした。
 短期間に成功させるとか、能力がない子を成功させるという仕事は、必然そうなる、のてす。
 わたしが合格請負人として、本来やりたかったのは、早期から戦略的に、導いていく、思考力から育てていって、結果として、自分の力で解けるようにする、ことです。これこそが真の合格請負人の仕事と信じています。
 亀井勝一郎は、「邂逅」という言葉を自己の思想の転換点に使っております。

かいこう【邂逅】
(名)スル
思いがけなく出会うこと。めぐりあい。「三年振りで━した二人は/それから漱石」 
 
 竹の会と、わたしと、子どもたちとの出会いは、邂逅に近いものがあります。子どもたちにしてみれば、親に勝手に連れられてきただけで、何も自らここに来たいなどと思ってきたわけではありません。竹の会にしても、宣伝などは特にしていないから、竹の会をたまたまネットで知ったという人が、たまたまその気になったから、出会えた、それこそ偶然です、まさに邂逅です。
 一期一会。
 わたしは、出会った子どもたちを、愛し、心配し、悲しみ、喜び、怒り、いつも思ってきました。子どもたちが悲しむときはわたしも悲しみときには涙を流し、子どもたちの喜ぶ姿を見るときわたしも喜び、幸福に満たされました。
 竹の会を始めてからずっとその気持ちに何の変わりはありません。
  
 竹の会の子どもたちへ
 少しの間、ひとりで考えて見てください。
 元気になってまたあなたたちのもとに帰ってきます。 
 わからないところは、諦めないで、何度でも見直して考え直してください。
 これも訓練です。
 先生が、帰ったら、また先生と考えましょう!
   それじゃ、しばらくの間、お別れです。

 

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