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国語読解のための新指導

2022.10.04

 

 

国語読解のための新指導
 読解と言っても単純ではない。

 少なくとも平成30年頃までの子たちは、算数が伸びれば自ずと適性問題が解けるようになった、と思う。ところが、令和3年、4年の子たちに明らかに変調が現れた。算数のテキストが進んでも適性問題に対応できない、ことが顕著に現れた。私もその答えをなかなか出せないでいた。しかし、どうもスマートフォーンを子どもたちが持つようになった時期とどうも重なる。
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 私が、子どもたちを、見ていて失望し、落胆するのは、あまりにも基礎読解力が幼児並みなことである。近年、竹の会では、算数のレジュメが進められても、適性に対応できない子たちが続出しているが、仔細に見てみると、どうも基礎読解力があまらにも劣化しているのではないかとわかってきた。かつて平成25年に小石川と白鷗に合格した女子二人のことを思い出す。小石川に受かった子は、「推理の素」まで、白鷗に受かった子は「その他編」までなのに、早稲田進学会模試に名前を、載せた。
 この二人には共通点があった。中学入試の論説だけを特集した「入試読解」というレジュメがあるが、この二人は、このレジュメで、満点を取り続けたのだ。私を驚かせたのは、採点する時であった。わたしの用意した正解例と一字一句違わない正確さで答案を書いていたことだ。「世の中にはこんな子がいるのか」とわたしをこれほど驚かせたのは子たちはいない。考えてみると、昨今失敗する子たちは、適性問題文を読めていない。基礎読解力の欠如が甚だしい。スマートフォーンの普及と相俟っているような気がしてならない。最近の子は読書をしないのかというと皆それぞれに読書していることを訴える。この子たちには、大量生産品を使い捨てするように、読書も文をすらすらと読み捨てる、読んだら終わり、読む本も注意深く読まなければ意味の取れないレベルではない、つまり読書というが、デジタル世代の子たちの読書は、使い捨て、読み捨て、わからなければ削除、飛ばし、そういうものなのではないか。
 じっくりと精読する意味を考える、指示語を踏まえる、助詞の限定を持ち越す、副詞の係り受けを読み取る、接続詞の前後を対照する、そういう精読をしていない。だから国語の問題が全くといって解けないのだ。
 開成中学で選抜されるのは、高校3年生、しかも公立進学校レベルの読解力を備えた子たちである。
 いつまでも幼すぎるままでは、その域に達することはない。私が高校入試で勝負するのがいいというときは、そういう思念があるときである。今はまだその時ではないというときである。
 受検の真の敵は、「幼さ」である。「幼さ」ゆえに大人基準の文章が読み取れないのはあたりまえなのだ。

文章を読み取る才に欠ける‼️
 精読、熟読こそ道を拓く‼️
 文章を読むとは、主語と述語の対応を押さえながら、助詞の係りに注意を払い、指示語の内容を正確に意識しながら、文章に書かれている意味を取る精神作用である。文と文のつながりを考えないと意味が取れない。「したがって」という接続詞を入れたら意味が通る関係か、前文を言い換えた文、前文の例示をした文、前文の具体例をあげた文、前文の内容を抽象化した文、文には前の文との関係で、さまざまなポジションがある。抽象化というとき定義を示すこともある。定義とは、筆者の抽象化された価値観の表明のことである。接続詞で注意すべきは、逆接の接続詞である。その代表が「しかし」である。「しかし」とは文の流れを遮(さえぎ)るのであるから、「しかし」の次には、筆者の考えが示されるのが普通である。「しかし」の前の文の内容に反対して、「しかし」の後に、反対の理由、つまりは、自分の考えを述べることになるであろう。
 最近の子どもたちの「読み」は荒い。丁寧に文脈を追う、文の流れに従って意味を取っていくということができない。助詞の一つにも注意を払わない。副詞が文の内容を左右することもあるのに、平気で読み飛ばす。問いを考えるのではなく、「当てる」感覚である。感覚で解くと言ってもいい。問いを読まない。さらりと読み飛ばし、問いの一部にのみ反応し、後は自分の中でこういう問いだと勝手に決めつけて答えを「当てる」ことを考える。
 小6にして、公立進学高校3年生の読解レベルを持つ者、これが開成中学で選抜される子たちの読解水準である。
 もともとの知能の高さがあるのは間違いないとしても、知能が高くてもそうした域に達しない子たちがいるのも事実である。
 国語というのは、まず言葉に関心がなければ、というか言葉に対するセンサーが鋭敏でなければ、国語云々の問題にもならない。食わず嫌いというか、国語に全く関心を持たないで、国語がどうにかなるわけもない。
 国語とは、大人の科目である。幼児、未熟な子どもには、どうにもならない科目なのである。子どもの少ない語彙で何がわかると言うのか。感情語、感覚語だけで日常会話に使う語だけで、国語を読むことは不可能である。
 語彙というのは、子どもにできない深い思考の中から生成されるものである。読書というが、語彙の一字一句に感動し、わからない語彙、フレーズにはわかるまで何度も繰り返し読み返す。助詞、副詞の係りを確認しながら、意味を繋ぐ、こういう読み方を精読という。語彙が増えれば、語彙が深まれば、ますます言葉のセンサーが鋭敏になる。語彙が増えれば思考のエリアも広がっていく。語彙の豊富な子が、貧困な感情語を発することはない。だから国語というのは、大人の科目なのである。
 試しに国語のできない子、文章の読解のできない子を見てみればいい。等しく幼児性、子供ぽっさが顕著のはずである。飽きるとふざける。人を平気でけなす。人の好き嫌いが激しい。食べ物の好き嫌いが激しい。先生にはため口。敬語を知らない。これらはすべて読解を妨げる要因となる。
 語彙が豊富だということは、それだけ大人の分別ができる下地はあるということです。
 分別というのは、弁えることである。是非、道理がわかることと言ってもいい。幼児にはわからない理屈です。
 語彙が豊富ということは、それだけ理解のハバが広い、包容の器が大きい、ということである。
 子どもは、器が小さいので、少ない語彙の中でしか、弁えが叶わない。
 語彙の増やし方
 漢検か。読解にはすぐに繋がらない。
 1冊を精読することが、語彙を増やし、同時に読解を鍛える。
 一文を味わえ‼️
 それから次の二文を読む。この時、一文と二文の関係を考える。繋がりである。「従って」で繋がる文なのか。もちろん「従って」という接続詞が実際に使われているという意味ではない。補えるか、ということだ。文というのは、順接で繋がれるのが、普通である。流れるような文とはこれを言う。前の文が後の文の前提になっているのだ。「しかし」という接続詞は、この流れを断ち切る。「しかし」と言ったからには、それだけの、覚悟がいるということだ。「しかし」という接続詞には、筆者の真実の声が隠されている。本当はこうなのではないか、という筆者の叫びである。だから、やたら「しかし」を使うものではない。たかが400字の作文に、2度も3度も「しかし」を使うのは、あり得ない。
 精読とは、普通の文章を味わうことだ。
 何を読むか。小学生は、中学の歴史の教科書、読解が進めば山川の日本史、さらに進めば山川の倫理の教科書。適性問題の文章もいい。
 倫理の教科書は、思想家、哲学者の考えを時系列で、説明している。なかなか手強い。
 山川の日本史は、日本語の宝庫だ。とにかく古典的な語彙が豊富だ。
 小5を見ていると、あまりにも幼すぎる。好きだ、嫌いだで行動する、稚拙な言葉を連発する、行動の一つ一つが子どもらしいのは当たり前なのかもしれないが、しかし、同年代の開成を受けようとする子どもたちが、高校3年生が四苦八苦する文章を読み解くほどに大人になっているのとは、そのあまりにもの落差に、言葉を失う。
 小学生に読む人になれ!というのは、難しいことなのか。

 

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