2019.02.11
体から力が抜けて元に戻るのにひとつきは要しようか。つい何日か前までは春の陽気などと申しておりましたのに、ここ3日ほど寒極まれり。それにしてもひとつ受検を終えるとなんとも力の尽きることを実感するばかりです。受検雑感は追々書いていくものとして、今日は竹の会のみなさんが国語を勉強する、というか「本を読む」、いや受験の国語に臨むについての態度について、少しく述べておこうと思い立ちました。
⚫️国語読解の誤解、小説と評論
受験では、「著者が何を言いたいか」、「言いたいことは何か」、を読み取れ、などと言われる。これは、評論なら、正しい、が、小説なら、的を外している。もっとも、二流の小説家なら、言いたいことを書く、そういう小説家がたくさんいることも確かなので、そういうことを言う、受験関係者もいてもおかしくはない。
ところで、石原千秋は、「小説家は自分の言いたいことを書くために小説を書くのではない。自分のもっとも言いたいことを隠すために書くのだ。一番言いたいことを書いてしまったら、一編しか小説は書けない」と述べている。
夏目漱石の作品を読んで、漱石の言いたいことが、わかるか、ということである。わからないから、何百冊もの解釈本が出るのである。特に、古典は解釈なしには、読み取れない。いや古語の意味がということではなくて、言いたいことが、書かれてないからだ。わたしは、時代小説が好きでよく読む。時代小説だと、登場人物の言葉を、借りて、言いたいことを語らせるということはよくある。大衆娯楽ものでは、そういう手法は普通にあり、そうところに「なるほど」と感心するということはある。ただ時代小説の言いたいことというのは、著者の人生論みたいなもので、小説を通して何かを訴えるというものではない。時代小説に初めから言いたいことはない。もしあるとすれば、人生についての意味しかない。
石原は、読書について、「内包された読者」という分析概念をイーザーという文学理論家から借りて分析する。
曰く、
小説を読むとき、「内包された読者」の位置にならなければならない。「内包された読者」とは、文学テクストを読むためのすべての条件をそなえた読者のことである。もちろん、現実には、そんな読者はいない。いつまでもテクストの外部にいては小説は読めない。小説の読者にはテクストの内部に仕事場がある。・・・。内包された読者のテクストの内での位置とは、語り手の位置と重なることがわかる。これは、言い換えれば、小説の読者は、いまの時点から全体像を読む、ということである。内包された読者は、登場人物よりも頭がよくなければならない。つまり、登場人物が、わからないことも、内包された読者にはわかる。
「内包された読者」の位置=「語っている私」の位置にだけ立ってこの文章を読むことである。
小説家は自分の言いたいことを書くために小説を書くのではない。自分のもっとも言いたいことを隠すために書くのだ。一番言いたいことを書いてしまったら、一編しか小説は書けない。
小説家が、言いたいことがはっきりしているなら、なにも小説などという回りくどい表現形式をとる必要はなかった。はじめから評論を書けばよかった。
以上引用(ただし、わたしが、要約したもの)
内包された読者の位置に立って読む、つまり語り手の位置で読む、これが小説の読み方というのである。
意識が語り手の位置にあること、これは意識にとっては、集中の型にはまることを可能にするかもしれない。
なぜか、それは意識の性質、扱いにある。
意識とは、いつも自分の内面にあると思っていますか。
いやそれは違う、あなたたちが、試験場で、上がっている自分を見ている時、あなたの意識はあなたの外にいる。よくゴルフのパットを勝負所で外すプロがいるが、これなども、おそらくゴルフをする自分を観察している自分、つま。意識が外にいるはずである。その意識は自分の外にいて、パットを入れようとする自分を見ている、外から見ている。
以下石原の本から、
自分自身を意識するときには、意識する主体は自分の外部にいるはずだ。これは壇上で上がってしまった状態を考えればよくわかる。上がってしまった時、ぼくたちは「何で自分はこんなところにいるのだろう」などと考えているものだ。そして、こう考えている自分は「こんなところに」いない。どこでもない場所で「こんなところ」を見ている。壇上にいる自分をもうひとりの 自分が見ている状態だといっていい。
以上は、石原の引用でえる、
ところで、私たちが、集中していない状態というのは、もうひとりの自分が自分の外から自分を見ている、とい論理そのままではなかろうか。
私たちは、とかくすれば、外から見たがるもうひとりの自分を持て余している。だから、読書において、内包された読者の位置にもうひとりの自分を置くことは、本に集中する、テクニックでありうる。
さらに、一般的に、集中する方法はと考えてみるに、このもうひとりの自分を外に置かないようにすることではないか、と思い至る。
わたしたちが、よく参考書をノートにまとめるとき、実は、ノートを書き取る、書き写す、まとめるというところに、もうひとりのの自分を置くことによって、集中する状態を作り出していると言えないか。
こうして、私たちは、もうひとりの自分の意識の置き所について、しっかりと、内包された置き所を探し、見つけ、もうひとつの意識を内部に取り込むことによって、集中という難題を解決することができるのではないか。これは、わたしの試論であり、私論である。
以上は、あくまても「読む」ということを純粋に考えた場合の話である。
私たちは、読書を楽しむということでなく、受験という目的のために、しかもある作品の切り取られた断片を読まされる。受験の国語は、石原のいう内包された読者の位置で読むべきものか。そうと言いきれないところに受験国語の複雑がある。ここに出題者の意図が働くからである。出題者は果たして語り手の位置に立って問題を出したのであろうか。これは「ない」であろう。小説家が書いた「つもり」とは全く違う「つもり」で問題を作っていることもある。もちろん内包された読者の位置と一致しているのが、普通だとは思いたい。が、出題者は、問題を作成する、小説家とは全く違う第二の偽小説家である。受験の読者は、この偽小説家の解釈した小説について、いわば出題者の立場に立って小説、正確には、小説の切り取られた断片を読まなければならない。設問は出題者の意図の表れである。私たちは、設問から出題者の意図を探り、本文をその意図に即して解釈しなければならない。設問はいわば出題者の作品であり、私たちは、第二の偽小説家の作品について、その読解を試されているのである。わたしたちは、出題者の作品について、出題者の考えていること、出題者の解釈に素直に従って本文を読まなければならない。それは内包された読者の位置と一致していれば幸いであるが、出題者の解釈が、いつもそうだとは考えない方がいい。事実小説家本人が、自分の小説が入試問題で出されたので、解いてみたら、零点だったという笑えない話を本人がしていたのを読んだことがある。
こうして、受験国語とは、第二の作者、すなわち出題者の作品、それは設問という作品を製作した出題者の意図に即して、出題者の考えている解釈を推理、解答する科目だということになる。
さて、石原は、さらに、評論について、見解を展開する。
以下石原の文章の要約
評論を読むとは、どういうことか。「ふつうはこう思っているだろうが、ぼくはこう思う」と書くのが評論である。この「ふつう」の位置が「内包された読者」の位置だ。「ちょっとおばかさんを演じるのが、評論を読むコツなのである。1️⃣いわば常識と言える部分、2️⃣それに対する批判的検討(批評)、これが評論の二つの要素である。こうして、二項対立をうまく使うことが評論を読んだり書いたりするコツである。
以上
さて、この内包された読者論は、受験の評論を読むとき、出題者の意図とどう整合されるのであろうか。
実は、出題者も、この二項対立を前提として設問を作っている。ただし、その解釈については、評論の本質からして、それこそ何通りもありうるのであり、出題者の解釈が、評論を書いた本人の意図と一致するとは限らない。だからわたしたちは、純粋に筆者の主張を読み取るという読み方ではなく、出題者の考えている解釈を読み取ることに軌道を修正しなければならない。その意図は、またしても出題者のでっち上げた設問にある、ということになる。こうして読解の国語は、出題者の似非作品、それは他人の書いた本文を利用して、出題者の価値観を設問という形で表現した第三のジャンルについて、私たちが読み取り、その問いに、答えるという形式のものと定義できる、のではなかろうか。