2023.01.16
国語読解問題の解き方~国語の根拠
数学の根拠は、明瞭であり、論理的なものである。
対して、国語の根拠は、なんとも不明瞭であり、強いて言えば、解釈根拠ということなのかもしれない。考えてみれば、国語の選択肢問題の選択肢は、本文そのままというよりも、本文を解釈したらというものばかりだ。本文をその意義の輪郭、核となるものを変えないで、言い換えたものが、選択肢となる。本文そのままを選択肢にするのは愚問の骨頂である。だから最近はそのような愚問はない。本文の言い換えなら、本文と照らし合わせ、選択肢を解釈して、本文と同旨かを比較する。要は、本文の言い換えが成立しているかである。表現の形式的類似性に拘泥すべきではない。飽くまでも「意味するところが同じことを言っているかどうか」である。
選択肢問題の難しさは、結局、言い換えが、解釈として成り立つのかどうか、である。
だから国語の勉強法というか、受験国語の勉強法は、問題集の選択肢の「言い換え」を本文と照らして学ぶことにある。これは選択肢問題に限らない。読解問題も結局は、「言い換え」の問題だということがわかる。
国語が解釈の科目だとすれば、解釈とは何か、について考えてみる必要がある。
解釈と言っても、憲法の解釈のように、文言の制約はあっても、自由な、主観的解釈が許されるわけではない。解釈の原初的な形態は、「言い換え」であろう。言葉の本来の趣旨から逸脱しない言い換えでなければならないのはもちろんである。ここでは語彙力がものをいう。
新たな国語勉強法の提示
段落を一語で「言い換え」てみる。「言い換え」というのは、具体的事象の中から共通点を抽出し、その共通項でくくる、という知的働きである。これを抽象化という。選択肢には、本文を言い換えるのに、軸となる意味をそのままにただ表現を言い換えただけのものもたまにある。出来の悪い選択肢である。こういう質の悪い選択肢なら語彙力があれば騙されることはあるまい。
ある選択肢が、本文の肝を抽象化したものか、具体的に述べたものか、それこそが本文の言い換えの正体であり、本文を読むときは、一文から次の一文に移るとき、どのように言い換えられるのか予測しながら読む癖をつけるといい。予測通りなら読筋通りということになる。予測が違えば、筆者の言い換えの意図から筆者の言いたいことが予測できるかもしれない。
注意しなければならないのは、筆者は本文の筆者であり、決して問題の出題者ではないということである。ここに国語の悩ましい問題がある。受験国語を実質的に支配しているのは、出題者だからである。受験国語というのは、出題者の考えた解釈を前提に出題者の想定した答えを元に作られた問題について答えを出すものである。決して筆者が真実どう考えたかを当てるものではない。
してみると、出題者は、できるだけ客観的な解釈を試みなければ万人受験生には使えないはずである。出題者は、本文の字義からは外れることはできない。出題者は本文の論理を変えることもできない。出題者は本文の客観的意味に反することはできない。出題者にできるのは、本文の論理に従うこと、国語文法的な出題をすること、単なる言葉の意味を問うこと、である。
しかし、出題者には、実は重要な出題の肝がある。それは、本文の抽象的記述を取り上げて、その具体的言い換えを設問とすることであり、本文の具体的記述を取り上げてその抽象的な言い換えを設問とすることである。言い換えなら、語彙力、理解力を試すことができるのである。
物語文の特殊性についても、少しく触れておきたい。
物語文とは、小説である。これにはもちろん作者がいるわけで、出題者は、小説の作者がどういうつもりで書いたかはおかまいなく、自らの考え、読み取りの結果を問題にするわけである。しかし、だからといって、出題者の恣意が許されるわけではない。出題者は、本文の作者の書いた、客観的字義からのみわかることしか、問題の根拠とはできない。出題者には、恣意的な出題はできないのだ。出題者は、本文の「言葉」から、「言葉」だけを根拠にしかできないのだ。例えば、登場人物の「気持ち」がどうであったか、を問題にするとして、その場合に使える根拠は、登場人物の発した言葉(セリフ)だけです。作者が、登場人物の心の情況として書いた言葉があればそれは、登場人物が「なぜそのようなセリフを吐くに至ったか」、その原因を補強するものです。答案には、決して、感情的な原因、例えば「悲しかったから」とか、「悔しかったから」などと書いてはいけません。「これこれが原因で、これこれと考え、それをこれこれするため」のように、3クッションの心の動きで表すのです。例えば、「竹雄が、思いもかけず大切な落とし物を届けてくれたので、普段から竹雄にひどい態度をとっていたことから竹雄の行動を意外に思い素直に感謝の言葉を出せなかったから」というように、ストーリーがなければならない。くれぐれもこの場面なら登場人物はこんな気持ちだろうと勝手に推測してあなたならどう思うかなどを書かないようにしてください。
受験国語は、徹頭徹尾「本文解釈」であり、その解釈とは、抽象的な表現の具体的「言い換え」か、具体的なものの「抽象的言い換え」にほかならない。あなたたちは、常に語彙力を養い、本文の抽象的言い換えに関心を向け、問題集を使って、抽象的言い換えの実例を学び、訓練をしなければならない。国語の問題集をやるのは、実にこの「言い換え」を学ぶためにほかならない。あなたたちは、問題を解いて、正解を見て、ただ「合ってた、間違ってた」で終わらせていないか。そうではない。正解とされる言い換えが本文のどの部分を抽象化したものか、確認しなければならなかったのである。国語の勉強は、実にここに尽きる。