2022.10.04
精読、熟読こそ道を拓く‼️
文章を読むとは、主語と述語の対応を押さえながら、助詞の係りに注意を払い、指示語の内容を正確に意識しながら、文章に書かれている意味を取る精神作用である。文と文のつながりを考えないと意味が取れない。「したがって」という接続詞を入れたら意味が通る関係か、前文を言い換えた文、前文の例示をした文、前文の具体例をあげた文、前文の内容を抽象化した文、文には前の文との関係で、さまざまなポジションがある。抽象化というとき定義を示すこともある。定義とは、筆者の抽象化された価値観の表明のことである。接続詞で注意すべきは、逆接の接続詞である。その代表が「しかし」である。「しかし」とは文の流れを遮(さえぎ)るのであるから、「しかし」の次には、筆者の考えが示されるのが普通である。「しかし」の前の文の内容に反対して、「しかし」の後に、反対の理由、つまりは、自分の考えを述べることになるであろう。
最近の子どもたちの「読み」は荒い。丁寧に文脈を追う、文の流れに従って意味を取っていくということができない。助詞の一つにも注意を払わない。副詞が文の内容を左右することもあるのに、平気で読み飛ばす。問いを考えるのではなく、「当てる」感覚である。感覚で解くと言ってもいい。問いを読まない。さらりと読み飛ばし、問いの一部にのみ反応し、後は自分の中でこういう問いだと勝手に決めつけて答えを「当てる」ことを考える。
小6にして、公立進学高校3年生の読解レベルを持つ者、これが開成中学で選抜される子たちの読解水準である。
もともとの知能の高さがあるのは間違いないとしても、知能が高くてもそうした域に達しない子たちがいるのも事実である。
国語というのは、まず言葉に関心がなければ、というか言葉に対するセンサーが鋭敏でなければ、国語云々の問題にもならない。食わず嫌いというか、国語に全く関心を持たないで、国語がどうにかなるわけもない。
国語とは、大人の科目である。幼児、未熟な子どもには、どうにもならない科目なのである。子どもの少ない語彙で何がわかると言うのか。感情語、感覚語だけで日常会話に使う語だけで、国語を読むことは不可能である。
語彙というのは、子どもにできない深い思考の中から生成されるものである。読書というが、語彙の一字一句に感動し、わからない語彙、フレーズにはわかるまで何度も繰り返し読み返す。助詞、副詞の係りを確認しながら、意味を繋ぐ、こういう読み方を精読という。語彙が増えれば、語彙が深まれば、ますます言葉のセンサーが鋭敏になる。語彙が増えれば思考のエリアも広がっていく。語彙の豊富な子が、貧困な感情語を発することはない。だから国語というのは、大人の科目なのである。
試しに国語のできない子、文章の読解のできない子を見てみればいい。等しく幼児性、子供ぽっさが顕著のはずである。飽きるとふざける。人を平気でけなす。人の好き嫌いが激しい。食べ物の好き嫌いが激しい。先生にはため口。敬語を知らない。これらはすべて読解を妨げる要因となる。
語彙が豊富だということは、それだけ大人の分別ができる下地はあるということです。
分別というのは、弁えることである。是非、道理がわかることと言ってもいい。幼児にはわからない理屈です。
語彙が豊富ということは、それだけ理解のハバが広い、包容の器が大きい、ということである。
子どもは、器が小さいので、少ない語彙の中でしか、弁えが叶わない。