2020.05.26
塾とはそもそも何なのか
塾とは、子どもを全人格的に捉え、時宜よろしく、ベストの指導を打つこと、竹の会の、私の指導を知った人にしか、その価値を知ることはない。外野で推測だけで竹の会を、竹の会の真実を知ることは決してない。
関心を持ち、竹の会にやってきた母親、疑心暗鬼な様子がよくわかる。かなり慎重な様子、入会申込期間の3日間、迷った末での入会決断だったのだろう、とよく思う。
入会して一週間、一か月、たちまち竹の会への喜びの様子がよく伝わる。次第に竹の会の実際がわかるようになると、もっと竹の会へ早くに来ていれば、と思うようになる親子の話をよく耳にした。これが竹の会のいつもの風景であった。竹の会は小さな個人塾であり、その竹の会の主張を聞いて、俄に信じる人などそういないことは承知しています。だからわたしは合格実績で根拠を示してきたのです。東京というのは、嘘と騙しの都市です。だからどんなに真実を示してもだれも信じる人はいない。大手という巨大な騙しの組織しか信じないのが東京のほとんどの親です。
竹の会とは、そういう塾である。竹の会は竹の会の真実を正直に話してきたが、これを額面通りにそのまま信じることができないほど、世の中には嘘、偽りが氾濫している。だから素直に竹の会を信用することができないのは仕方ないと思う。
それにしてもそのまま信じる人も中にはいたわけです。竹の会に早くから入会してくださる皆さんはそういう方であり、自己の判断を信じて、竹の会に大切なお子さんを託して下さった方たちです。
竹の会に子どもさんを入会させて、竹の会の指導を経験して、子どもさんの勉強に対する変化を見て、取り組みを見て、勉強姿勢の変化を見て、竹の会が、巷の塾とは、はっきりと違う、不思議な塾だということを親御さんたちは悟るようです。
そうなのです。竹の会を普通の塾の理解で、当てはめようとしても、それはできないことを知るのです。
竹の会には、授業というものはありません。市中の塾のような、あの教材というか、授業用のテキストというものもありません。
もちろん教材はあります。竹の会では、レジュメと呼ばれています。指導の際に使います。レジュメには、様々な使用目的に応じて、様々なものが製作されています。すべて竹の会塾長、つまりわたしのオリジナルです。親御さんの多くは、この竹の会のレジュメを絶賛します。
しかし、なんといっても、竹の会の真骨頂は、わたしの「指導」にあると思っています。
東京で塾を始めたのが、昭和60年10月のことでした。それまで家庭教師の経験しかなかったところで、いきなりの開業でした。家庭教師も郷里の田舎でやっていただけ。ただ郷里では評判が良く、名門県立への編入試験に成功したり、地方ですが国立附属中に合格させたりで、有名になり、紹介が相次ぎ、何人かをこなしていました。
竹の会を始めたとき、わたしにはなんの予備知識もなかったが、幸運なことに理解のある、三人の中学生のお母さんとの出会いが、きっかけとなり、それからたくさんの中学生を集めることができました。たちまち評判となったのです。
竹の会が今のような形態になるまでにどれくらいの年月を要したことであろうか。授業形式、個人指導、塾用テキスト、市販教材、授業の方法、入試の導き方、教材、プリント、テスト、わたしは一つ一つ悩みながら、試行錯誤を繰り返し、失敗と成功を重ねながら、そうではない、これではない、と理想の塾のありかたを求めて、私の方法、それは子どもたちが思考を培い、考えることに、考える喜びに目覚め、他人から教えられるのではなく、自ら考えて謎を解く、このスタイルを獲得していく、これを可能にする方法を求めて、長い間、苦悩のトンネルの中にいたのです。しかし、わたしは決して諦めなかったし、来る日も来る日も、考え、試し、考え、試し、遂には、次第に、私の方法を形にして、わたしの求めている理想の塾を探し求めて参りました。 今の竹の会の指導の形は長い間にわたしが探し求めてきた、一つの答えです。
指導とは何か。
わたしは、思考する人間を作る、ある意味職人である。そして指導とはある意味高度な知的魔法である、わたしの手にかかれば、子どもは瞬く間にわたしの指導の魔術の虜になる。
竹の会の魔術と言っていい。
子どもは勉強というものを知らない。だから指導は勉強の何たるかを自覚させることからです。
子どもは小さな奇跡の積み重ねで自ら勉強へと心を開く。「できる」という小さな奇跡、「わかる」という小さな奇跡、この奇跡の積み重ねが、子どもを変える。指導とは、子どもの心を導くことである。考える主体に変えていく、難しいが、やりがいのある、そして、確実に、子どもを変えられる魔法の方法である。
わたしが作り上げてきたもの、それは、塾を超えた塾、だから誰も理解できない、知らない人にはわからないし、たとえ竹の会に少しの間いたとしても知ろうとしなければわからない。
指導とは、竹の会では、子どもたちを導く魔法の杖であり、子どもたちは、指導の妙で伸びてゆく、変わっていく。小さな奇跡の積み重ねが、子どもたちを変えていく。内から見ればその変化はわかりにくいのが普通でも外から見れば目を見張る変わり様である。いや実は内部にいてもその変化がわかるほどに変化は大きなものである。考えてもみてください。小数の足し算も知らなかった小2が遅くとも6か月内には、難関中学の入試計算問題を解けるようになっている、のです。これを奇跡と驚く人がいてもなんの不思議もない。竹の会の子たちは計算達者です。
指導というのは、単純な「教える」、「わかりやすく教える」と同義ではない。ただ「わかりやすさ」というのは、指導以前の問題であり、塾というのは、わかりやすさとシンプルさを2つの基本ポリシーとしていることは当然のことであり、あえて、「当塾はわかりやすく教えます」と言う意味がわからない。これは、多くの塾が、塾に通っても授業がわからない、講師の言っていることがわからない、という共通認識を実は認めているということを白状してのことである。
指導の内容は多岐に渡る。思考モデルを与えることは、重要な内容をなすけれども、指導というのは、ほんとうに多岐に渡るのである。その子の理解の深浅を推し量る。理解の段階を検査する。ただに暗記で対応していないか、指示されたことを忠実に履行しているか、子どもの性格によって指導も変わる、自己流を持ち込む子は理解していないからか、面倒くさがり屋だからなのか、であるが、どちらもダメ! DNA的制約も計算に入れる、怠けける子は結局自分を追い詰める状況になるから破滅は想定済み、ペケをつけられると傷つく子は過甘い親の産物、実行しないで言い訳する子も結局破滅型、ゲームに溺れる子も破滅型である。
素直が一番!
指導が成功するのは、素直な子と竹の会を信頼することにブレのない親、という希有な組み合わせの場合です。落ちる子というのは、不思議とこの要件から外れています。
親の姿勢、言動に首を傾げる、これはすでにして不合格の予兆であった。子の姿勢、言動、態度は実は合格する子かどうかを語っていた。
素直さというのが、合格の予兆なのだということをわたしは35年の指導を通して教えられてきた。自分を実体以上によく思わせるという自尊心の悪戯は素直さとは真逆の行動である。成績を隠す、模試をできるだけ受けない、また模試の結果が悪ければ見せない、自分で解いてないのに解いたと言う、こうした行動はすべて素直さとは相容れない行動であり、とりも直さず不合格の徴憑である。
親の静かに見守る姿勢、子の素直な行動、これが合格の極意である。
わたしが「その気になる」「本気になる」のは、そういう親子に邂逅したときであることは、自分でもよく承知している。なんとしてもこの子は合格させてあげなければとわたしが思ったとき、わたしが本気になったとき、その子は合格する。奇跡的に合格する。
親の言葉、言動、姿勢が、わたしのやる気をなくさせることはよくあることである。わたしから本気を減殺させる親、子の行動が、結果として、不合格を当然とした。わたしにブレーキをかける、親、子が、どのような見識、考えで動いているのか、わたしにはわからない。ただわたしは親、子の純粋な「気持ち」にのみ心を打たれてきた。素直さでわたしの心を打ちのめした親、子は確かにいた。そういう人に出会いたい。