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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

塾はできないことでもできるとうそをつくところ

2024.03.05

 塾はできないことでもできるとうそをつくところ
 過去問をやらせる塾がある、と聞かされても、そういう塾もあるかもな、とは思う。
 しかし、小6ないし中3の一年間を過去問だけやらせる、というのは、どうなのかな、とふと不審が走る。
 そもそも過去問をやると言っても、その具体的内容を聞いてみないとなんとも論評できない。
 竹の会もかつては、過去問合格法という方法をとっていた。しかし、その内容、コンセプトは、一般の考えとまるで異なっている。
 その違いの最たるものは、竹の会では、必ずしも志望校の過去問に限るわけではないということである。最初は偏差値50から偏差値59の首都圏のすべての私立学校の過去問から、取捨選択して、使う。偏差値60から69、70以上と実力を押し上げていく。過去問は、すべて教材として使うのである。
 一般の使われ方、特に、自分が受ける志望校の過去問を何度も繰り返すのは、いろいろな意味で、自滅行為となる。
 これを塾が公然とやるのは、その塾が脳がない、と言われても仕方ない。それしかやることがない、思いつかないから、やる、というのが、本音と思う。
 なぜ、自滅なのか。
 まず、過去問をやることで、実力が高まることはない。いくらやっても、60点しか取れない者は、ずっと60点前後である。 
 志望校の過去問を予行演習するというのに、一年前から、というのはない。予行演習は、直前にやればいいし、実は、やる必要もない。竹の会では、令和4年に、開成、筑駒合格者が、渋谷幕張を受けたとき、そのために過去問をやるなどのことは、一切していない。過去問をやることの最大の弊害は、予断を抱くことである。先入観念に縛られた脳ほど怖いものはない。本来判断できるはずのことも先入観念が邪魔をしてしまうのである。真の、実力をつけてさえいれば、過去問による害を考えれば、過去問はやらないにこしたことはない。しかし、受験界、巷の塾では、過去問をやることの恐ろしい害をわかっていないのか、何も考えていないのか、とにかく志望校の過去問を何度もやらせる、ようである。これで、本当に合格できた受験生がどれほどいるであろうか。たいていは落ちたはずである。
 志望校の過去問をやる理由は、塾の指導者も、受験生も、同じ問題、似た問題、類似問題が出るかもしれない、いや出ると信じているからであろう。
問題というのは、見たこともない問題だから、問題なのである。過去に出た問題を追うというのは、問題と解き方を覚える、という態度、姿勢である。竹の会の過去問合格法と、本質的に違うところである。そうなのである。いくらやっても伸びないのは、思考を深めるというところに力点がなく、できるだけたくさんの問題に当たって、解き方を覚えようとするから、である。問題に対して、あれこれ考えるというより、問題を見たら、よく読みもせず、考えようともせず、どういう解き方の問題かなと自分の覚えている解き方に当てはめようとすることばかり考えているからである。
 一般的に言って、過去問を軸にやる方法は危険極まりない。一般の受験生がやれば、十中八九失敗する。塾がやるのはどうか。志望校の過去問をやらせる限り、同じことである。まず受からない。
 先程も述べたが、竹の会では、渋幕や城北を滑り止めとして受けているが、そのために過去問なんてやったことは一度もない。要は、実力である。実力さえつけてやればいいのだ。だから実力をつけるためにどうすればいいか、ということに尽きるのである。
本来、過去問なんてやる必要はないのだ。いや、竹の会ではと断っておかねばならない。竹の会のレジュメは、過去問ベースであるから、過去問の重要性は当然知っている。問題は、過去問をどう扱うか、ということなのだ。
思考にいい過去問を、選び、時宜に即して使うこと、である。選び抜かれた良問をのみ使うべきなのである。これには、竹の会のレジュメ指導は、もっとも適しているということだ。

結局、思考の深い者が勝つ仕組み
小2から脳を、鍛える、これがもっともいい方法である。
ただし、東京には、本物の塾を、見つけるのは、至難なことではないか。気さくで人あたりのいい先生、やさしい先生、丁寧に教えてくれる先生、熱心な先生、いわゆる熱血先生、みんな、子がなつき、親が喜びそうな先生だろう。しかし、果たして、そういう先生が子の思考力を伸ばし、主体性を育て、勉強のスタンスを習慣化し、真の学力を伸ばしてくれるのか、甚だ心許ない。
 少なくともわたしはそういう先生ではないだろう。そもそも親の言うことに迎合して調子を合わせていたら、親の機嫌はいいだろうが、結果はろくなことにならないのは、わたしはに分かりすぎるほどわかっている。直前に過去問を家庭で解いて、親では採点できないので、先生お願いします、というのがいますが、そもそも親が受験を差配するとろくなことはない。母親が過敏になり神経質になり子を追い詰める図式はよくあることだが、失敗型の母親の典型である。母親というのはおっとりと構えていてちょうど子どもの精神にはいいのだ。子どもが落ち込んで引きこもる、そういうのを一緒に落ち込み、まわりに代弁する、これもどうかと思う。子どもにはどんなときにも強い精神で対峙することを躾けてほしいものだ。

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