2021.04.13
大手に行ってバカになる!
いや、私はもうこんな現実が罷り通るのは、新型コロナの無策、無能な政府、官僚だけなのではない、世の中の至るところで不具合が生じているのだが、現実問題として、他塾、特に、大手にいたという子たちが、限りなく、虚しいほどに学力ゼロに近い状態に飼い殺されていることに驚き、呆れるばかりである。
小6になるまで2年以上も塾に通って、計算も満足にできない、これってどういうことなのか。簡単な割合をやらせれば、逆算式を作る、えっ、大手って、算数を教えていないの?
子どもが、できないという、これほどできないというのに、なぜ、親たちは、一年も二年も通わせるのか。自分の子どもがどういう状態にあるのか、親はまるで掴んでいない。それでも大手を信頼する。ある意味大手という信仰はかなり強力な宗教と変わらない。親たちが、大手というだけで疑わない、その信仰力の強さは不動で、親たちは、自分の子どもの学力が抜け殻なのに、何も疑わない。
それから竹の会の費用について、大手、他塾を引き合いに出して「高い」という声が子どもの声を通して聞こえてきますが、わたしは決して高いとは思っていません。竹の会の費用について、逆に、大手、他塾と比べて安いという親御さんも少なからずいます。「高い」というのは、おそらく大手でかかる費用を知らないのではないか。
私自身は、この費用はもう20年以上このままだし、竹の会では、教材費は取らないし、施設費も取らない。もちろん冷暖房代とか取らない。さらに気がついていない方もいるようですが、消費税は竹の会で負担しております。それに塾の費用は、費用のみを単純に比較して、高いとか安いとか言っても意味がないと思います。竹の会は、竹の会の質の高い指導、レジュメという商品をこの価格として提供しております。私は最高の品質の指導を提供しているという自信があります。竹の会の指導とレジュメには価格だけのものは提供しているという自負があります。安売りするのは、竹の会の指導の価値を自ら貶めることと考えます。値段だけ捉えて高い安いという人は、あるいは他の塾の方が質が高くて安いというのであればどうかそちらを選んでいただきたい。竹の会は、東京に数ある塾の一つに過ぎません。選ぶ方はそれこそ自由に選べばいいのだと思います。
そういえば、問い合わせ電話に、「授業もない。プリントやるだけ、それはお高いんじゃないですの」という人がいましたが、こういう人に竹の会を理解するのは無理と判断しました。誤解というか、まあよく大手信仰の皆さんが持つ感情と同じものを感じました。今年の桜修館合格者のお母さんが、「竹の会がどんな塾なのか、未だにわからない」と申しておりましたが、実際に通わせてもそうなのだから、既成の塾概念しか持ち合わせていない一般の人たちが狭い想像だけで理解しようとしても無理です。現在通わせている親御さんでもともすれば既成の塾と単純比較して、費用だけ捉えて高いと言うわけですから、竹の会の次元を説明することは不可能かもしれません。
竹の会で、たまたま入会試験で、大手に通っていた子たちの実力を見る機会があります。本当にできないという事実が覆されることはなかった。大手に限らない。子どもを全体で扱う、大掴みで処理する、個々の子どもがどうなっているのか、何もわかっていないから、全体では高度なことをやっていても、分数の計算もできない子がいたり、割合なんか全然わかっていない子がいても、放置される。
いったい親は何を考えているのやら。手遅れになって竹の会に来られても正直困る。これでは普通に公立中に行ったとしてもどうにもなるまい。まあ、わたしの知ったことではないけれど。
私は別に大手の悪口を言っているのではない。集団処理といっても、軸は、優秀な生徒の指導にある。大手は営利会社である。利益を上げることを目的として、塾をやっている。如何にして生徒をたくさん集めるか、大手にとってはそれがすべてである。だから有名校にどれだけたくさん合格させたかが商売を左右する。だからもともと地頭のいい生徒を如何にたくさん集めるかにしか関心がない。合格者がたくさん出れば、「その他大勢」の子どもたちは釣られて集まる。こういう手合いはとにかく騙してできるだけ長く引きつけておけばいい。大手はこういうその他大勢の飼い慣らし方をよく知っている。不安を煽り様々なオプションを売りつけて儲ける。少数の天才にはカネをかける。その他大勢からはカネを吸い取る。
その他大勢の皆さんは、熱烈な大手教信仰者である親たちによって強制的に信者とさせられる。いや子どもたちもこの大手教は大いに気に入っている節がある。優しい学生先生、仲間たちと群れること、如何にも合格をもたらしそうな教材、子どもたちを誑かす道具は揃っている。
テレビ、新聞、雑誌、ネット、看板などの宣伝は、軸足のない親子を洗脳するに十分である。
学校説明会のある日は、大手のチラシ配り隊が物量作戦を展開する。
いやいやとても竹の会に勝ち目はないですね。
私は学校説明会のチラシ配りからは手を引きました。大手になびく親子はとても止められません。というか竹の会は宣伝はやってません。わたしのこのブログをたまたま目にした方が、目に止めて下さる。その中で比較的低学年の方の入会をしていただければ幸運です。小数どころか、整数の計算もまだできない子たちを手ほどきして、分数の計算、四則混合演算、逆算と進めていきます。計算をマスターしたら、次は、割合の手ほどきです。こういう長く、手のかかる手ほどきをしながら、一端に思考のできる主体人に仕上げていくのが、わたしの仕事です。
計算というのは、抽象的な思考の入り口です。そうです。子どもたちの脳に抽象的なものを少しずつ馴化させていく。具体的な「もの」の世界を少しずつ抽象的な概念に置き換えていく、これは一大事業です。具体的というのは、言葉が何かものを表している、ものと対応している、そういうことです。しかし、計算には、そういう対応はない。いや計算式をものとは見れなくはない。だから純粋には計算は抽象とは言えない。
例えば、「民主主義」という概念は、対応する「もの」がない。こういう場合を純粋に抽象的という。
子どもの脳を開発するとは、具体的なものしか見えない子どもの脳に抽象的視点を持ち込むことです。具体的なものを体系化させる、整序させる抽象概念による整理の方法を体験的指導を通して学ばせることです。
竹の会が東京の渋谷に塾を始めたのが、昭和60年10月のことでした。あれから36年、この10月で37年目に入ります。竹の会がいつまであるのか、正直私にももうわかりません。わたしの体調次第だからです。もうだめかとよく思います。しかし、子どもたちともう少しだけ過ごしたい、わたしの指導で子どもたちを開花させたい、そういう思いは強く、今は、正直それだけで黙々と指導している、ところがあります。
新型コロナが蔓延している、このご時世、私もどうなるのかわかりません。いつも危機感を持って日々を過ごしております。
今は、わたしの持てる力を竹の会を信頼して通ってくれる子たちのために、捧げたい、そう思うだけです。
ある日、ある時、力尽きて倒れる日まで、死する日まで、竹の会と付き合いたい。それが私が始めた、私の竹の会の終わりに相応しい。
竹の会、私の竹の会と、もう少しだけ夢を見たい。子どもたちの喜ぶ顔を糧に私の竹の会と歩みたい。この盟友と最後は手が離れるまで!