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失くして初めて新しい考えが見えてくる

2021.06.01

失くして初めて新しい考えが見えてくる
 愛用の電動ホッチキスの故障のこと
 もう20年以上使ってきた電動ホッチキス(小型)が突然壊れた。比較的「薄い」レジュメを綴じるのに重宝していたが、レジュメが薄すぎると緩いのが欠点だった。
 新しいのをと考えたが、急場凌ぎに、竹の会で長年やっている接着剤で固める方法で綴じてみた。紙と紙の間に、糊が入り込むように、少し工夫してみた。それからこれまでパテを使って形を整えていたのを、ズバリ素手で強くプレスしながら、形を整えてみた。これまでにない見事なできあがりとなった。便利な電動ホッチキスがあったときは、それ以外の選択肢はなかった。ホッチキスで留めて、その上から接着剤で固定するという方法は、塗りが一定していなかった。ゴテゴテになることもよくあった。
 もう「ない」という事態が、私の知恵をフル回転させた。
 分厚いレジュメを綴じるのは、十数万円もした電動ホッチキスを使うが、ページ数が少ないときは、これは使えない。
 必要は発明の母
 人間というのは、すぐ便利なものに飛びつくけれど、それが多少しっくりこなくても、まっ、いいか、と我慢する。ここでふと考えた。私たちは、便利だからと、ただそれだけのために、たいせつなことを犠牲にしてきたのではなかろうか。
 便利はいいことばかりではないということだ。他の、気づかない何かを犠牲にしている、かもししれない。便利だと決めつけているけど、もっと大切な何かを捨てているかもしれない。
 翻って考えてみよう。
 欠乏・不足が、発明の母なのだと思う。足りないから、工夫する。欠乏が、人間を進化させた。文明というのは、必要だから生まれたのではない。欠乏が人間を動かした。私はそう思う。
本当に、人間を動かすのは、欠乏であり、飢餓である。
 便利さというのは、工夫しなくていい、ということですよね。してみると、人間は便利さと引き換えに、工夫すること、知恵を働かせること、を犠牲にしてきたのではないか。
 算数も、似たところがある。算数とは、情報の欠乏に対して、工夫すること、知恵を働かせること、なのだから。
 算数の問題に欠乏がないのなら、解く価値はない。定義、公式で解ける、そんな問題は価値がない。定義、公式をあてはめる、そういう解き方をしてくれば、公式の使い方に精通するようになるだけで、予期しない欠乏に対して、それには公式なんかないから、なす術もないで終わる。
 便利に勉強してはならない。
 昨今は、いろいろと勉強のやり方も便利なものがそれこそ溢れている。スマホのアプリ、パソコンのソフトなどには、それこそ便利な学習プログラムが目白押しである。参考書も進化した。様々な場面を想定した、それこそ工夫された図、パターンが整理され、理解も昔とは比較にならないほど容易になったのだと思う。文具の進化も驚異であった。とにかく何もかも便利になった。私たちは、他から与えられるばかりで、昔やったように、欠乏から工夫することもなくなり、今は、いかに他人の作った便利を選択するか、利用するか、しか考えていない人ばかりだ。
 何を使えば便利だ、そんなことばかり考えている。便利さの追求は、その道の商売人が、まさに利益追求をかけて創るから、とにかく個人ではとても思いつかない、いいものを作る。だから、ますますわたしたちは、便利さの虜になる。
 わたしたちの生活は、便利さという快適さにすっかり占領されてしまった。
 だから私たちの創作は、もしあるとしたら、その快適さを前提とした創作に違いない。
 私たちが、知恵を働かせる、知恵を生かせる、知恵をつける、には、便利さは敵となるであろう。知恵をつける、知恵を働かせるには、欠乏がいい、欠乏が一番効く薬だ。
 さて、こうして、思考に効く薬は、欠乏だという結論に達しました。これと対置されるのが、物欲です。子どもというのは、とにかく欲しがる。欲しいから親に強請る。ここで親の弱みを突いて、「勉強するから買って」などと交渉することも知っている。甘い親、過保護な親は、結局買ってやる。これがいけない。親が子の物欲を満たしてあげるのは、親の意図に反して、子の破綻をもたらすであろう。物欲の満たされた頭には、知恵は宿らない。それどころか、子の際限のない物欲は止まることを知らず、次から次へと沸き起こる物欲が、子を滅ぼすのは必然である。
 もう一度言う。欠乏が、勉強の本質である。常に、欠乏にあることが脳を拓く。少し意味は違うが、空腹状態の方が、満腹の時よりも、脳が働く。満腹だと血流が消化器系で活発になる。脳に血液が流れないから、眠くなる。よく満腹にして勉強しているのを見るが、あれはよくない。
 贅沢な、便利な文具はいらない。特に、男の子が高価なシャープペンシルなど欲しがるが、なに勉強というのは、質素な道具だけでいい。最初からカラフルな、よくまとめられた参考書は要らない。自分に代わって、何もかもよくわかっている人が整理したサブノートなんかいらない。勉強とは、自分の、拙いかもしれない「工夫」を楽しむものだから。「工夫」を重ねる、「工夫」の経験を増やしていくことで、前の工夫よりもずっとマシな工夫ができるようになっているかもしれないではないか。
 机は、質素ないもので十分だ。質素だからこそ勉強に集中できる。豪華な机について中には家庭教師なんかつけて、まるでバカ製造機だ。満たされているところからは、アイデアは浮かばない。人は、欠乏から進化する。簡単な理屈だ。「ない」から考える。工夫もする。欠乏が続くから何日でも考える。集中というのも、欠乏が実はエネルギーの素になっている。
 そもそも勉強のエネルギーは、どこから生まれるのか。
 欠乏から生まれるエネルギー
 東大生は裕福な家庭の出身者が多い、というのは、よく知られている。これは勉強が環境に影響されることの例として語られる。ところで、こういう人たちの勉強のエネルギーは何か。
 それは親の地位、多分高い地位の継承ということではないか。勉強しなければ、高い地位は得られない。その意味では、やはりこれも欠乏である。現在の欠乏がそのまま続くことの恐れである。未来の欠乏は恐れである。
 勉強すれば、買ってやる、よくこういう親がいる。こういう親は99%子をダメにする。親が物を買い与えることは、欠乏とは真逆の行為である。わたしは子どもの頃、親から本を、買ってもらったことがない。小4だったかな、東京の叔父が別府で一番大きかった書店(明倫堂と言ったかな)に連れて行ってくれた、「好きな本を買っていい」と言われて、その時、「にほんむかし話し」という本を買ってもらった。初めての本だった。何十回読んだかわからない、ボロボロになった。本に飢えていた。それがきっかけで学校の図書館から本を借りるようになった。毎日借りてきては読んだ。怪人二十面相とか、明智探偵もの、地底探検物、などあの頃のわたしは本の虫になっていた。小5の頃は、遊びの天才だったわたしが、遅ればせながら、知の世界へと開花していった時期だった。
 ボクシングは、ハングリースポーツと言われることがある。極貧の環境にある人が、チャンピオンになって富を手に入れる。貧乏、欠乏がエネルギーを生み出すことを如実に語る。
 子どもは欲しがるものだ。しかし、これに迎合してはならない。親は子どもに欠乏という環境の中に放り込むことでいい、これが教育である。

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