2021.05.13
◎学ぶとは、真似ぶこと
これは語源的にそう、というより元々学ぶとは、真似ることだ、ということである。
私が、特に、このことを書こうと思ったのは、現在指導中の「読解の素」というレジュメがあるのですが、これは国語の読解を訓練するために作ったものですが、この答案を添削していて、この真似をする、という視点が欠けていることを見てきたからです。
問いに対して、答えるというとき、自分の考えを書く人がいる。というか本文の該当部分を自分で切り貼りして答えにする、それで自分は「こう考える」などと宣う。全くの誤解です。まずあなたの考えは聞いていません。あなたたちがやるのは、問いに対する答えを本文の中から見つけて、本文のままに書くことです。
勘違いした人というのは、本文を自己流に解釈して、自分が本文の真実をこうだと解釈して書くものだと思っていることである。
確かに、本文の著者には、著者の真意というものがあるのだと思う。しかし、国語の読解とは、出題者の制作した問いに対する答えである。出題者は、本文に書かれてあることだけを問いにして、答えも本文の中だけにあるように作っている。出題者は決して本文の著者の真意、文字に表されていない真意などを聞いてはいない。
だから私たちが答えるのは、本文の文章をそのままさながらに書くことだけである。出題者は本文の記述だけから「こうだろう」と問題を作る。その出題者の意図に即して私たちは本文からのみわかることを本文さながらに書かなければならないのだ。それが受験国語の読解ということだ。出題者は、本文の筆者にその真意を確認して問題を作っているわけではない。あなたたちが、真意はこうだろうと考えて、解釈して、つまりあなたたちの解釈を、本文を切り貼りしたあなたの推測、考えを答えることなどないのである。
つまり、国語の読解とは、本文をさながら真似るだけである。
自分の考えはいらない。
さて、真似をするとは、先人に学ぶことだ。
難関国家試験に挑むとき、心しておかなければならないのは、先人に学ぶ姿勢である。ここで自己の判断を持ち込むことは、そのまま失敗を意味するであろう。何年かかっても受からないのは、先人に学ぶという姿勢がないからである。こういう試験を受けようという人は、なかなかの自信家が多い。自己の能力を過信している人が多い。自分は能力が高いと思っているから他人の意見に耳を貸さない。そしてさらに恐いのは難しい試験ということで、試験を神格化してしまうことだ。勝手に高めた、試験の水準に自己を合わせようとする。たかが試験とは思わないこと、これが元凶となる。
若くして合格する人は、とても素直であり、諸先輩、諸先生の意見に素直に従う。決して自己の価値観を持ち出さない。自己の考えはゼロ。これが先人に従うということだ。
昨今は、予備校に通う方が早く受かる。
ここでデカルトの方法序説は、一旦ある方法を取ったら、途中どんなに不具合が見つかっても決して引き返して新しい別の方法に乗り換えてはならない、というような趣旨のことを言っている。
これは大切な指摘である、と私は思っている。
多くの人がこれをやる。そして失敗する。
試験合格の秘訣は、「素直に」先人の教えに従うことである。
都立中高一貫校で失敗する原因の一つに、子どもが素直でないこと、子どもの親依存が強く、親の口出しが、子どもの素直な受け入れの邪魔をすることかある。
習い事、稽古事、運動、旅行、みな親の勉強のみを素直にはやれないという意思表示である。それでも受かるという意思の発言である。
先人は、これを合格の阻害と見ている。
いいですか。能力が同じなら、例えば、一日平均4時間として、10か月で、300日だから、1200時間あると見て、このすべてを勉強に当てた人と、習い事、稽古事、運動で、週4日使う人なら、6割は消えるから、勉強に充てられるのは、480時間となる。これでも習い事などやっていて、すべての時間を勉強に当てている人に勝てるという見込みがわたしにはわからない。
同じ理屈は、中学で部活などで勉強時間をドブに捨てている人たちにも当てまる。
中学の部活の場合、平日は、3日から5日、土日も練習というところもある。野球とか、バスケとか、吹奏楽とかダンスとかは毎日と聞く。これだけの時間部活をやっていると連日疲れきって全く勉強しない日が続くに違いない。毎日5時間以上勉強している人との差はもはや天文学的なものであろう。
勉強しないでただ日々を無為に過ごす中学生の多きことを考えると、誠に公立中学というのは、勉強にフルで時間を使う人が少ないわけで、普通の能力の生徒でも努力すればそれなりの都立高校に行ける理屈である。
先人の意思に従え!
先人に学べ!
学ぶとは、先人の真似をすることだ!