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寝ても覚めても勉強が心配

2021.09.23

 

◎寝ても覚めても勉強が心配
 まともな子ならいつも勉強のことを心配する。不安だから心配するのだ。不安というのは、知能の高い子の、自己保存本能に発する、至極まともな感情だ。
 能天気な人間は心配なんかしないし、先の読めない、想像力のない人間には、不安なんぞあるはずもない。
 不安と恐怖
 不安というのは、恐怖の前段階の感情である。恐怖が現実化した害悪に対するものであるのに対して、不安は未知の害悪に対する感情である。
 原始時代の人間にとって、恐怖という感情は、生き残るために本能的に人間に備わったものではないか。犬を見ていると見知らぬ人間に対してはまず恐怖心から脅えているように思われる。恐怖で震える野良犬を見たことがある。恐怖は危険から自己を守る働きをする。そのはずであった。しかし、現代人には、原始人のような嗅覚はない。「逃げる」というタイミングを失うのが現代人なのだ。自然に、身を置く人間と、コンクリートの中に住み、危険とは断絶された空間に住む現代人との差は歴然としている。つまり、現代人からは危機管理意識が欠けている。
 恐怖を実体験として知らない人間に不安は無縁である。
 私が中学生になったとき、わたしには不安しかなかった。転校生として見知らぬ中学に入学することとなった。周りは知らない奴ばかり。案の定登校初日で、不良グループにからまれて、その生意気な1人と殴りあいをしていた。大分県の別府の小学校を卒業すると、宮崎県の延岡の中学に入った。とにかく人数が多くて一学年550人ほどいた。入学するとすぐに実力テストの洗礼を受けた。当時は学年200番あたりまで名前が長廊下の壁の上に張り出された。成績が張り出されるとみんなが廊下に集まった。墨書で長い長い白い紙に書かれた個々人の名前が廊下の壁に貼られた。わたしは前の方から見ていった。そしたら66番に自分の名前を見つけた。クラスは13クラスほどだったかな。結局わたしは延岡中学で二年生の一学期まで過ごして、故郷の別府に転校した。延岡中学のベストは学年20番くらいだったと思う。故郷別府の山の手中学でも成績は変わらなかった。550人中の20番をウロウロしていた。クラスは12クラスあったかな。
 中学の頃のわたしは勉強は、木を見て森を見ず、という格言に集約されていたのかもしれない。英語も何もかも頼る人がいない、教科書を読んで、まとめて、覚えるだけ、いつもそれだけだった。まとめて覚える、これが私の勉強のやりかただった。問題集とか参考書みたいなものを買ったのか、記憶にない。勉強といったらいつもノートにまとめていたように思う。表にしたり、箇条書きにしたりとか工夫はした。ただこの方法だと、どう頑張っても学年20番だった。
 中3のときだった。あの頃は学校が少額の費用で受験のための補習をした。クラスは能力別に分けられた。ABC‥、わたしはAクラス。Aクラスには各クラスの優秀な奴が集まった。そのときたまたま席が隣になったのが、同姓の奴だった。いつも学年10番か、いつか2番にいたのを見たこともあった、そいつだ。そいつはニヤニヤ笑いながら学校から配られたテキストを見せつけた。見ると、凄い! 全部解いている。しかもほとんどマルだ。わたしはといえば、基本問題だけで、標準は少しだけ手をつけていただけ、発展問題はほとんどやっていない。負けた。それからのわたしは目の色を変えて貪欲に問題を解いていった。全てを解き終わると、今度はそのテキストを何回もまわした。英数国理社5科目のテキストを必死にまわした。あの時は、寝ても覚めても心配でまわした。変化が現れたのは10回まわしたあたりかな。結局17回まわしたところで、中3最後の実力考査がやってきた。今度は返ってくる答案がそのたびに100点、悪くて95点かな。
クラスでずっと一番だったGが、「負けた」を連発、「阿部、おまえ、かなりいいよ」と悔しそうに何度も言っていたのを覚えている。
 廊下に張り出された成績に人が溢れる。「あった!」、「あれ同じ番数にあいつがいる」、そう私に勉強の目を開かせたあいつがいた。同番数で並んでいた。初めて550人中のトップクラスに踊り出た瞬間だった。あいつは、大分大学経済学部に進み、首席で卒業して、公認会計士になった。できる奴だった。不安と心配がわたしの勉強のエネルギーだったような気がする。寝ても覚めても勉強のことが心配、だから暇さえあれは勉強するしかなかった。
 若い頃の私は、今から思うと、木を見て森を見ずの勉強だったのではないかと思う。がむしゃらに頑張る、だから森が見えてなかった。もっと森を見て、あたりまえの論理で判断できていたなら、もっといい結果が出てたのかもしれない。そう思う。塾の先生になって、夥しい数の本を読んできて、勉強の全体が見えてきたからかもしれない。竹の会の子どもたちには勉強の全体を見据えた、あたりまえの思考のできる人間になってもらいたい、そういう思いできた。

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