2021.09.17
◎対面指導
対面と言えば、学校では、対面授業ということになる。新型コロナにより学校はオンライン授業となり、対面が減った。これについては、都内の開成や筑駒など「対面」に復帰する学校が増えているということだ。いずれも有数の進学校の傾向である。
ズバリ、オンラインでは、学力がつかない、いや落ちるということらしい。
確かに明らかに対面が、優れている。
しかし、オンラインには限界がある。
生徒の細かな表情の変化も画面では見逃す。
対面だからこそ、わかる、できることがあり、それはオンラインではカバーできない、決定的なことである。
さて、それで竹の会の指導について、考えてみることとした。
よく竹の会の指導について、入会を迷う親御さんから質問を受けてきた。
竹の会の過去のブログをしっかり読んでおられる親御さんの場合は、竹の会の「指導」という言葉についてもそれなりのイメージを持っておられることが多く、説明は要しないことが多い。
ただそれでも多くの親御さんが、どうしても既存の塾の形態を前提に理解しよう、位置づけようとされる。「授業はどうするのですか」というのは、塾とは何かを教えてもらうところ、知識を与えてもらうところという暗黙の思い込みがあるのであろう。
特に、授業がないというところが、どうしても理解し難いようである。
先日、あるお母さんからのメールでは、「竹の会が新型コロナの中、ずっと対面指導をとられていることに感謝しております」のような主旨のことが書かれてありました。
この時、「対面」というのは、竹の会の場合は、もちろん授業の意味ではない。
対面指導というべきなのかな。指導するときは、個対個である。この限りで、個人指導になる。竹の会の場合は、対面指導ということは全体の指導の重要な要素ではあるが、この対面指導を活かす工夫というか、仕掛けのほうが、むしろ重要なのかもしれない。竹の会では、子どもたちの成長過程を管理しているというか、子どもの思考の段階の推移をほぼ正確に把握している、しながら指導をしている、ということが言えると思う。
それを可能にするのが、わたし手作りのレジュメによる指導システムである。
子どもたちは、学力段階に応じて、レジュメをステップアップしていく。
普段の対面指導は、主として算数を手段とした思考力の強化、訓練にある。特に、最初は、徹底して割合にこだわる。割合だけで2年以上を費やす。
普段の指導では、作文、理科、社会などは扱わないので、これは課題で指導する。
課題は、語彙、四字熟語、読解、教養、社会、理科、作文などを網羅した、総合指導になる。原則として、400字原稿用紙(A4)に答案を書くように指導している。提出された課題は、添削の上、解説解答を添付して返還される。作文なら、私の書いた作文例を添付して、ABCDの評価をして、返す。合格はA。書き直しの際は、問題、添付解説など全て一式とともに提出しなければならないこになっている。パソコン検索の便宜のためである。作文は何度でも添削する。
社会は、適性問題から制作した「社会クリア」、中学受験を意識した「教養の社会」がある。
理科、入門として、「教養のための理科」、適性由来の「理科クリア」、中学受験を意識した「理科の必要十分条件」など多数ある。
読解は、受験読解とは何かを指導する「読解の素」、「国語読解の研究」が定番である。中学受験を念頭においた「読解百選」は、物語文、「新読解演習」は、論説文を扱う。
作文は、参考資料付きの「作文の基本」、公立中高一貫校の作文を扱った「新作文問題」、都立の問題を扱った「新作文I」「同II」がある。
語彙には、語彙を扱った「読解の素の素」、四字熟語を由来から説明した文章をまとめる訓練をする「四字熟語」がある。
教養は、社会に生起する様々な問題を扱うもので、扱うテーマは、多岐に渡る。このシリーズの発展形が、「新研究シリーズ」で、都立適性問題からテーマを積極的に取り入れている。
適性問題の答案の型を学ぶ「適性問題の答案の型とスタイル」も課題のアイテムの一つとなった。
語彙篇の続編として現在執筆が急がれているのが、現代文の要素ともされる抽象語を問題形式で学ぼうとするシリーズである。
現在快調に執筆が続いているのは、「読みトレ抽象トレ」である。既刊「抽象化訓練」を換骨奪胎して、新たな構想の下に執筆開始。多くの子どもたちが、問題文の読み取りの段階で誤解、誤読することを知っていますか。よくできると思われた子さえ「この問題の意味がわかりません」とか、中には自信過剰なのか「先生、問題が間違っています」などと言ってくることがあるが、問題文の語句、事実を正しく読み取れない子たちのための処方として、ようやく具体的な形にすることができつつある。
ここには紹介しきれない、その他多くの課題がさまざまな目的のために作られている。
竹の会の指導を一言でこうだと言い切るにはあまりにも既定の方法形態とはかけ離れている。
これまでの塾は、授業、講師、テキストの三種の神器を絶対前提として、その上で、個人指導、個別指導、少人数クラスなどという亜型を作っていった。そこから、授業の「予習」「復習」という観念も出てくる。もちろんここでは「対面」授業が当然の前提とされている。ところが、新型コロナが、この「対面」にストップをかけた。オンラインによる授業は、既定路線の破綻にほかならない。「対面」は本質的なファクターである。
竹の会は、大手や他塾に比べて少数の生徒しかいない。だからこそ「対面」は指導の本質要素なのだ。たとえ新型コロナ禍にあっても「対面」がなければ指導は成り立たない。それにオンラインなんかなんの役にも立たない。先生の目が届かない、生徒一人一人の表情が読み取れない、そんなの指導じゃない。竹の会はある時から授業を捨てた。それは授業よりもずっと効果的な方法があったからだ。竹の会の指導は36年の苦難の試行錯誤の歴史なしには語れない。だから一言で説明するなんて無理です。どこかの母親から「授業はないのですか」「じゃ生徒は自習するのですか」「プリントやってるのですか」「わからなかったら教えてもらえるのですか」「それでこの月謝はお高くないですか」などと言われてもね。