2019.04.11
4月11日(日)になりました。昨日は愛用のパソコンのトラブルに見舞われ、午前中はその対応に追われました。パソコンのトラブルはそのままレジュメの準備に影響するために、かなり深刻な事態となります。代替機の常備が当然だったのに、機種の問題などから先送りしてきました。幸いパソコン本体の故障ではなかったので今日から仕事を再開できました。4月中には代替機を入れることにもしました。レジュメ制作は竹の会の命であり、危機管理が足りませんでした。
◎課題レジュメについての注意点
必ずA4の原稿用紙を使用してください。
課題を長期間出さない人がいますが、課題の不提出は、そのまま不合格に直結することだけは過去が証明しております。
また課題を「もらっていない」ことを理由に、放置している人がいますが、本人が申告して、確認すればいいだけのことです。不作為を決め込むのはやめてください。
4月補充募集、対象 小4 小5
都立中をめざす、小5について、2名を募集します❗️ 仮合格者の退塾に伴う補充募集です。
小4につきましては、7月まで受け入れの予定です。
お問い合わせは、HPのお問い合わせフォームから、
予定数に達した時点で、募集を終わります。
新学年募集状況
小3 申込受付、入会試験L基礎
小4 受け入れ中。入会試験L中級
小5 4月補充募集中! 都立中受検は入会試験α
小6 高校受験 入会試験β
※中学生についても、受け入れることがあります。お問い合わせくだされば対応します。
8割基準を満たす小学生は竹の会へ!
竹の会が、合格へ道案内いたします!
8割基準とは、小学校の通知表の3段階評価のうち「よくできる」が、全体の8割以上あること、を言う(これは、竹の会の造語です)。
8割前後が、竹の会入会の目安となるかと思います。
●天動説を信じようとする人間たち
もちろん天動説云々は、比喩である。16世紀にすでに地動説を確信したコペルニクスは死ぬ直前まで地動説をひた隠したが、17世紀に地動説を理論的に立証する証拠を示したガリレオは、天動説をカトリック教会の拠り所とする教会の指導者たちに事実上幽閉されて、不遇な死を遂げた。人は何の根拠もなしに、作られたご都合説、ご都合理論によって、自分たちの世界を説明し、嘘の物語を作りあげる。学問というのは、先人の遺産がそのほとんどであるから、その先人が間違っていればその間違った知識を正しいものとして学んでしまうことになる。学ぶというのは、先人の教えに素直にしたがうものとされている。しかし、私たちは、学ぶ心得として、おかしいという感覚は持ち前の素直さで死守しなければならない。懐疑心こそが学問の進歩、発展を可能にしてきたことは歴史の証明するところである。学問において、批判こそが学問に生命を吹き込む利器なのであるから。
批判精神を失った学問は、学問としては死んでいる。昨今のように、権力に阿り、忖度する風潮が、学者に蔓延し、真実を隠すどころか、公然と事実をないものとして憚らない態度には世の中というものが、平安の昔から全く変わっていない、進歩とかいうものは何もない、これが実は、真理というものなのかもしれないという新たな発見にさえ思えてきます。誠、人間というものは救い難い生き物です。いや私の言うことが釈然としないという人は、福島の子ども達の甲状腺ガンの異常な増加を原発事故と関係ないと言い切る山下長崎大医学部教授を筆頭とする取り巻き医師たちのことを思い出して見ればいい。あるいはプルトニウムは飲んでも体に害はないと言った、あの東大教授を思い出してほしい。余談ですが、長崎大医学部病院には、大学の後輩が、医師として働いている。悪口になって申し訳ない。
製薬会社の使徒と化した医師に薬を処方されるのは私たちです。そういう制度を保護しているのは、ほかならぬ国というか、忖度官僚、忖度政治家、忖度政党です。私たちはほとんど事実というものを知らされない。だから真実がなにかを知らされない世の中に生きている。日本を知るには、外国の人が何を言っているかをネットで検索するのが一番いい、といったのは、誰だったか、日本のフリーランスのジャーナリストであった。灯台下暗しとは、このことなのか。真実を糊塗するのが普通のこととは、如何なることか。もはや真実には価値がないということなのか。真実を求めなくなった世の中とは如何なる世の中なのか。
迷信が大手を振って歩き、訝る者もないのか。社会全体が、偽装社会として、安定しているというのは、如何なることなのか。
真実は虚偽に絶対に勝るのか。
法律学には、比較考量という考え方が、実質的な判断としてある。法律は、文言から、その該当性を判断するかの体裁を取るけれど、実は、当事者の利益を考量して、実際の妥当性を判断して、後は、理論的な根拠づけのために、法文への該当性を述べているに過ぎないのである。
法律を適用したからそうなったのではなく、法律は後から合わせただけということである。
法律の世界、正確には、裁判の世界では、真実よりも結果の妥当性を重視する。つまりその限りで真実は退けられる。
政治の世界も、社会の秩序、安定を価値とする限り、真実には、目を瞑り、虚構を正義とするのを通常とする、ということなのか。とすればマスコミが、正義を振りかざして、糾弾するのは、いいことなのか。政府が、言い訳に汲々として真実を糊塗するのは、本当に責められることなのか。
そう言えば、著名人にスキャンダルがあると、マスコミが、突然に、神の使徒と化して、正義の名の下に、糾弾する構図は、なんとも奇妙な光景ではないか。おまえらの言う正義とは、それほど揺らぎないものなのか。だいたい糾弾しているときのおまえら自身は、いったい何者で、何を裁いているのか。何様になっての裁きなのか。如何なる正義の徒なのか。そこに偽善を見るのは私だけなのか。
世の中は、現代の天動説を信じる者で溢れている。さて地球温暖化は、コペルニクス的転回なのか、いやこれこそ天動説なのか。
人々にとって、実は、天動説でも、地動説でも、どうでもいいことであった。だから何かが変わるということもない。苦しい生活はそのまま苦しい生活であった。天動説が地動説になったからといって、彼らにはどうでもいいことであった。天動説が覆されて困ったのは、天動説で自分たちの都合のいい物語を構築した、カトリック教会であった。ガリレオは、ただ科学で間違いを指摘しただけだった。天動説を信じる人たちは、毎日の生活さえ無事過ごせればそれでよかった。
今に直せば、庶民にとって、毎日の生活さえ保障してくれれば、政治も政党もどこだって構わない。いや自民党以外の政党が、自分たちの日常をまともに守れないことを知った人たちは、もはや自民党がどんなに好き勝手をやっても自民党以外には票を投じないだろう。彼らにとって日常が一番大事なのだから。理念とか、観念とか、イデオロギーとか、例えば護憲とか、そういう現実とは遊離した理想を掲げて、日常を平気で壊す政党などに票なんか入れるわけがない。要するに、日本の野党は、わかってないのである。日常さえ、守られれば、天動説でもなんでもいいのだ、ということが。
当時の知識人は、天動説を信じたのではない。天動説を信じていると自己偽装することが保身になったからである。
もうおわかりであろうか。時の権力が正しいとか、真理とは何かが大切なのではない。天動説とは、時の権力が、是とする、権力に都合のいい、真っ赤な嘘の論理(物語〕のことなのである。ここで権力とは、政権、医師会、法曹界、経団連、宗教、製薬会社などの圧力団体、すべて含まれる。
原発は環境に優しいという論理、原発は安全という論理、放射能は影響はないという権力側の見解、アメリカ礼賛の政治姿勢、日本の利益になるという通念、政権に忖度することが利益になるというテレビ局の論理、もう現代は天動説が溢れて、日常に浸透して人々は日常に安定する。人々にとって日常の保障こそが真の要求であり、理念、真理、真実、正義は人々にとっては日常性を壊さない範囲で、建前とされる、刺身のつまに過ぎない。