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小石川、両国、白鷗へ/都立戸山、青山の確実合格法/わたしなら合格させることができる

2019.05.03

 令和元年5月3日 晴れ。空には薄らと雲が広がり、朝方見えた青空を覆いつくそうとしています。気候温暖、爽やかな季節です。行楽地は子ども連れで大賑わいのことでしょう。連休は動かないで静かにしているのがベターと学習しまして、静かに指導準備をしております。人間は学習能力があると言いながら、何度でも同じ轍を踏んで風邪を引くのはみな同じです。さすがにわたしは用心に用心を重ねて最悪の事態を予想して行動するようになりました。

◯わたしなら合格させることができる、と最近ようやく思えるようになりました
 竹の会の神様の話しである。合格者は真摯に竹の会の神様にすがった。この一点から、なんと素直で純真なのだろう、と感動が走る。かつて「おれは神など信じない、ぼくはいいです」と頑なに賽銭を否定、いや殊更無視した男子がいました。知能の高い子でした。しかし竹の会の神様などあほらしいとキッパリとした言葉とは裏腹にいつも動じやすく不安定な精神に不活発な勉強の時期が起伏激しく襲いました。この子に学ぶところは多かった。試験というものが、鰯の頭も信心からというほどに、素直さ、従順さというものが、もっとも合格をもたらす大切なものであると言うことを如実に教えていた。信じないという態度のもたらすマイナスは余りにも大きく、それは殻にこもる、自己の狭い識見の中で動くことから狭い自己判断を優先させ、先人の意見を排除し、反面心は常に不安定で起伏の激しい、ひいては感情の動揺をもたらしたのでした。
 竹の会の神様はわたしの最後の拠り所である。ひたすらに努力する子どもの姿が、わたしの心を突き動かす。素直な、従順な、子の、賽銭箱に握りしめた五円玉を入れ、竹の会の神様に頭を下げる。その姿に、この子だけは受からせなければ、わたしの心に響く、深奥に届く、切なる声に、なんとかしなければという思いが、わたしを突き動かす。
 試験においては、素直さこそ生命である。かの司法試験において、かつては、若い合格者が話題になったものである。そういう合格者に共通していたことは、みな素直で、自分の考えは「先人の教えにしたがう」ということ以外には見えず、先人の忠告に素直にしたがっていたことであった。先人の折角の忠告を聞き入れず、狭量な自己の考えを根拠もないのに絶対視する自信家は腐るほどいたけれど、その過信がもたらす結果は、いつも破滅しかなかった。試験では、「おれの考え」、「わたしのやり方」は、破滅の選択の別の名称にほかならなかった。課題をやらない、というのも「おれのやり方」「わたしのやりかた」であり、勉強よりも家庭の事情(ピアノの発表会、習い事、稽古事、スポーツの大会などなど)を優先するのも、「わたしのやりかた」「わたしの親のやりかた」にほかならなかった。
 勉強する子というのは、その子の体を勉強するという意思が支配している。まるで勉強という意思がその子の体を借りて縦横に蠢いているようであった。
 スポーツに大半の時間をかける子を支配している意思はもちろん勉強ではない。スポーツは何のためにやっているのか? 湧き起こるスポーツ欲を満たすため?  体を燃やすため?  楽しいから? スポーツと勉強を両立させるという人は2つの欲求を満たそうとしているの? その場合のスポーツとは何? 10の時間を10勉強に当てる人と、5を、もしかしたら7をスポーツにあて3を勉強に当てる人と、比べて、勉強とスポーツを両立させているという人が、前者に勝てるという根拠な何なのか? 自分が努力の量で圧倒的に負けているのに勝つという根拠は何なのか? 自分が天才とでも思っているのであろうか? 天才の証明をしたいということなのか?
 ただそういう99%の人は失敗している。成功例は、伝聞でなら真実であろう例を1つだけ知っている。わたしが直截見た例はない。
 ゲームの方が面白いから、習い事が面白いから、稽古事が面白いから、そういう子たちは、勉強が蠢いているように見えることは決してない。体の中を別の意思が支配している。
親が実は子どもの勉強に対する距離を恣意的に支配している。子どもには、「勉強しろ」と言いながら、自分の都合でいくらでも勉強を中断することを裁量する。「家族で外で食事するから」「法事で実家に一週間ほど行かなければならないから」「老齢の祖母、祖父に会わせておきたいから」「親戚の集まりがあるから」「発表会があるから」「勉強の負担にならない程度の練習だから」「珠算だけは続けさせたいから」「大会が終わる夏までは」「連休は家族でキャンプに」「お盆は実家で過ごすため」「大晦日は実家で」、子どもにはどうにもできない親の都合、そして子どもはその親の都合によく迎合する習性も備わって嬉々としている。子どもはもともと怠惰であり、遊ぶのが好きなのだから、親の弛める行為には異論などない。
 いいですか。合格した子の親、わたしには母親がほとんどですけど、というのは、そういう人はいない。子どもが頑張っている、勉強に夢中になっている、寝ても覚めても勉強のことを気にかけている、心配している、その様子をただ心配そうに見守っている。子どもが風邪をひいて熱を出し、竹の会を休まなければならないことを嘆けば、一緒に泣いている。そしてせめて今日のレジュメをもらってきてやりたいとわたしにメールしてくる。そういう母親ばかりでした。一緒になって子どもと一体となって嘆き悲しむ。これほど素晴らしい教育があるだろうか。
 子どもの勉強を何よりも大切に思い、家族が静かに波風を立てないように、しかし、優しくそっと見守っている、見守ってきた。そういう家族に、家庭に合格という幸福がもたらされないわけがない!
 人並みに、家族で実家に一週間帰省して、別の楽しさを分かち合ってきた人たちと、年末をワイワイ騒いで楽しんだ人たちと、習い事、稽古事を楽しみ家族で泣き笑いしてきた人たちと、そういう人たちと、同じに考えることがわたしにはできないのです。そういう人たちが不合格となるのは、想定した可能性の選択であったとしか思えないのです。少なくともわたしの心の深奥には響いてこないのです。
 さて、それで、わたしなら合格させることができる、という言葉の真意も伝わったかもしれませんね。わたしは最高、最強の指導体系を完成させることを目標にしてきました。そういう営みの中から、つまりわたしの追求の過程において、様々なことに遭遇し、試験の正体を一瞬でも刹那というのがあたっているかもしれませんが、見たと思うのです。試験のたびに掲示板を見る、そのたびに、わたしは、掲示板になかった子たちの様々なエピソードがそれこそ走馬灯のように一瞬にして見え隠れしたのです。「午前中はダンスの稽古で少し遅れる、と言ってました」「今日は、昇段試験で1日来れません」、なぜ課題をださないの? と問えば、うつむいて何も言わなかった子、もしかしたら、掲示板は、なにもかもお見通しなのかもしれない。ちゃんと見分けている、冷徹に、冷酷に、見ている。非情、冷酷にただ事実のみを見て判断している。そう思うようになって久しい。
 掲示板の非情、冷酷は、合格者から見れば、「よくがんばったね」と、「わたしはあなたが、どんなときにも勉強していたことを見ていましたよ」と優しく語りかけているように、わたしには見えてくる。
 わたしの用意した合格の体系は、もうそれだけにかかわらなければ、とても太刀打ちできないほどの量と質になっている、わたしの指導システムを、竹の会のみなさんは、私の指導に、素直に、したがって、ただひたすらこなしていれば、きっと優しい顔をした掲示板に会うことができる、わたしはそう信じています。

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