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小石川を受ける/都立戸山、都立青山が標準 /第3章 読むと書く

2019.07.20

令和元年七月廿日 梅雨酣 台風接近

 

 

第3章 読むと書く
 見ながら書くな!
 まず頭に入れて、頭の中の記憶で書くこと。これは、英語にしても、国語にしても、ノートに写す時の基本の基本である。やってはならないのは、「見ながら書く」、つまり完全に、脳が停止して、つまり記憶機能を使わないで、見ては書く、見ては書く、というやり方である。つまり脳は停止して、目の読み取り機能と手の書くという機械的操作だけを使う、つまり自分が、ただの機械になる、これはいけません。
 まず文章を読む、意味を取る、つまり、理解する。次に、ある程度の塊(かたまり)単位に「覚える」、俗に言う短期記憶というやつである。これは、記憶の訓練になることはもちろん、心から依存を取り除くことで、主体を確保する意味がある。そもそもノートに写すという過程は、自分を機械として、つまり、目で読み取り、手で書き写す、という機械的操作をするに過ぎない。もっとも単なる筆写ではなく、サブノートを作るときのように、脳を働かせてまとめるという作業なら、もちろん脳は活性化している。ここで問題にしているのは、単純な筆写である。天声人語の筆写の如きである。いや待て待て、サブノートを作るときだって、まず覚えて書くということは当然の前提になっている。覚えてから書くのである。記憶が曖昧なままに書くべきではない。これが、脳の尊厳を壊さないための、脳に対する礼儀である。
 自尊心の強い者は、他からの批判には敏感に反応するけれど、自分には底なしに甘い。俗にいうわがままである。自分が、怠ける、つまり脳を遊ばせることにはいかにも寛大である。これは脳に対する尊厳の気持ちの欠片もないからである。阿り諛う(おもねりへつらう)家庭教師に説明されてわかった気になる。何という脳に対する尊大さであろうことか。そもそも家庭教師になにもかも聞くということは、自分の脳を信用していない、つまり自分がアホだということを認めているからである。しかし、そういうことには、この浅はかな頭は一向に思い至らない。なぜか何様精神だけは突出している。バカほど自慢したがるのは、自分の脳がアホだということの裏返しである。脳を誇れないので、他のどうでもいいことで自慢する。自分の家がどんなに金持ちであるかとか、親戚に東大出がいるとか、実家の家が大きいとか、持ってる車が高級だとか、そんな話しばかりする。
 脳を敬う心があれば、何日も勉強しないことが、脳への冒瀆(ぼうとく)であることはすぐわかるはすである。わたしはただ勉強に敬意を払いなさい、と言っているだけである。
 敬意を払うとはどういうことか。
 勉強を蔑ろにしない、ということである。仏教には、勤行というのがある。朝のお勤めである。毎日経を読む。仏を清める。
脳を敬うということは、自己の脳を高めることである。脳は、学ぶことで成長する。脳は、考えることで成熟する。知識は脳の栄養である。バランスよく与えないと吸収されない。思考というのは、脳の消化器の役目を果たす。知識は、思考という消化器を通すことによってよくこなれて脳に吸収される。論理網に格納される。脳の中の樹形に組み込まれる。思考というのは、消化器である。してみれば、弱い消化器では、取り込まれる知識も未消化のままに取り込まれる。消化されないで、消化不良が続けば、それは思考失調に他ならず、思考の機能しない脳は、ただの感覚脳であり、混沌とした情報が、未熟で幼稚な感情で消化され、後には何も残らない。
 自分の消化器を使わないで、脳に入れようという人たちがいる。家庭教師という消化補助器官、解法を解説してもらい脳に入れるのは、差し詰め点滴みたいなものか。自分の消化器を通さず直接流し込む。しかし、考えても見てほしい。試験では消化器を使わないで解くということはできないのである。直接栄養剤を血液に流し込むなどということはできないのである。消化器を使ったことのない人が、どうやって対応するのか。さらには、消化器は、使わなければ退化する。赤ちゃんの消化器は、流動食でしょ。成長しないままの消化器なんか使えない。思考を鍛えるというのは、知識を脳に取り入れるための、器官を作り、鍛えるということなんです。これで大手の集団授業で、解説を聞き理解するという形態が、必ずしも思考を鍛えるということになっていないことはわかっていただけると思う。もともと考えるというのは、孤独な作業である。大勢の中でワイワイやりながら思考することなんか普通の人間にはできないでしょ。講師は、テキストに書いてあることを説明する。しかし、テキストは、読めばわかるように作られている。わざわざ講師が説明するのは、読んでもわからない子向けである。講師は、情報を補足する、意図なのかもしれない。確かに、そういうことはある。さらには、講師の中には、テキストとは別に面白おかしく、いや子どもたちが興味を持てるように、授業をするのを生きがいにしている人もいる。人気講師である。それはそれでいい。しかし、読んでわかる子には時間の無駄である。天才はきっとそう思っている。それにしても講師の授業を聞き逃したらどうなるのか。進学校の授業はそうだった。聞き逃したらわからなくなる。それよりも教科書が読んで理解できるように簡単ではない。もし塾のテキストが、読んでもわからないならもうアウトである。
 わたしは、竹の会で、思考を作る、育てる、そういうことを塾の仕事として、携わってきた。今のようなシステムができるまで、どんなにか悩み苦しんできたことか。成功と失敗を繰り返しながら、わたしは、竹の会は、成長してきた。塾には、通知表はないけれど、入試という塾の真価を問う機会は毎年ある。失敗のたびに悩み苦しみ、生きる道を見つけ、かけてきた。
 子どもたちの成長を見守りながら、わたしは考えるということの意味を探し求めてきた。難しい子に出会うといろいろと工夫をし、試し、失敗しまた試して、よりいい方法を、求めて悩み抜いてきた。夜も眠れず考え続けた。いつも目が覚めると、いいアイデアが浮かぶことが多い。だからよく枕元に紙とペンを置いて寝た。目が覚めた瞬間に浮かんだアイデアがすぐうとうとした瞬間に頭から消えるということがよくあったからだ。一度消えたらもう二度と思い出すことはない。いくら思い出そうとしてもダメだった。アイデアはあれこれ思案して時には換骨奪胎して、レジュメに起こした。そのレジュメも日々変化した。子どもたちに使ってみて改良するというのはたびたびであった。
 今ある竹の会のレジュメはわたしの苦しみの中から生まれた、一枚一枚に思いの込められた作品である。中には不満なものもある。しかし、それもわたしのその時の苦心の 作であり、記録である。少なくとも子どもたちの思考を、磨く石としての役目は果たしている。まさに玉石混淆である。

 子どもたちを見て思うのは、理解ができてない子のことである。知識が、論理の網で捕捉されていない。覚えた解き方を使おうとするから、事実が読み取れてない。断片的に目についた数字を覚えた解き方に無理に当てはめようとする。事実をじっくり読み、意味を取ろうとしない。事実の意味を読みとることが、問題を解くための先決条件であり、事実の意味が取れれば問題はもう解けたも同然である。つまり問題を解くとは、すでに割合なりの理解が完全にできていることが、前提でなければならない。だから後は事実の読み取りだけなのである。
 ところが、わかってない子というのは、実は、割合の理解が、不完全なのである。曖昧な理解が、事実の客観的な読み取りの邪魔をする。自信がないから、事実を意味で繋げない、関係づけられない。
 こういう子に追い打ちをかけるのは、時間である。長々とやっている時間がないのである。時間が子どもを追い詰める。
事実の読み取りについて
 「わからない」、問題が解けない、その原因は、もともとの理解が曖昧ということのほかに、事実の読み取りができていないという場合が、ほとんどである。
事実を読み取れないとは、事実を算数の目で関係づけて整理できないということである。事実を読み取る目、それは当面、割合の目で見るということであるが、割合の目そのものが形成されていないのかもしれない。あるいは割合の目が不完全なために事実がよく見えないのかもしれない。よく見える目で見ても、事実が見えないということもある。
何故このようなことになるのか。
 まず端的に、DNAのせいかもしれない。知能が高いか、普通か、やや劣るか、それで説明できるのが、ほとんどである。
 いやまだある。母親の、父親の、熱心な関わりが、初動期の伸びを左右する。子どもというのは、親が徹底管理しないとやらない、やれないものである。子ども任せにしているとろくなことにはならない。本性が、「遊びたい」、「怠けたい」というのが、子どもである。果たす責任など感じないし、子どもには最後には「甘える」というとっておきの武器がある。つまり親は最後は許してくれる、と親の心を読んでいる。つまり舐められているのである。甘い親ほど舐められる。舐められた親が、「勉強しろ」などと言っても、言うことを聞くわけがない。子どもが、親の言うことを素直に聞くのは、小学生までである。中学生になったら、体も大きくなり、生意気になる、つまり反抗するようになる。頭ごなしに何かを言っても逆らうばかりである。小学の時に、親の甘さを敏感に見抜いた子が親の言うことを素直に聞くはずがない。見せかける、騙すなどという、子どもには常套手段がある。子どもは嘘をつくように作られている。厳しい親には嘘をつく。優しい親を騙す。ほかに何も持たない子どもには、嘘しか、身を守る武器がないからである。嘘は無責任の裏返しである。嘘をついても責任を、社会的責任を取らされることはない。もちろん親には叱られる、責められる、が、それで終わりである。嘘が成功して親が騙されることもある。特に、親は自分の子を贔屓目に見ているから、子の言うことをそのまま信用する場合が多い。悪いのは、自分の子ではなくて、他の子、学校、塾だ、という論理に陥る親は多い。
 子の取り扱い説明書を書くとしたら、まず小学低学年の時に、勉強というものを習慣づけることに親が全力を傾注しなければならない、と書く。働く母親の子は、放置されることが多く、律する者がいない子の通例で、字が汚い、ノートが乱雑である、という致命的欠陥を身につけることが多い。もちろん例外はいた。母親が仕事から帰るまで言い付け通りにきちんとやるべきことをやる子もいた。が、しかし、たいていの子はいい加減に育つ。子というのは親がつききっきりで見てないと必ず手を抜く、サボるものである。
 この時期に手をかけてこなかった子が、小4から、大手にしても、中手にしても、塾に行くとして、つまり塾任せにして、どうかなるか、ということである。頼みの綱は、もともとの持ち合わせた能力になる。
 手をかけた子がいいのは間違いない。だが、手をかけたからといってDNAの問題がクリアできることにはならない。手をかけなければだめになる、これははっきりしている。しかし、手をかけても成功するのは、DNAに恵まれた子である。生命の掟はシビアであり、非情である。
 多くの親たちが、失敗するのは、DNAの問題をクリアしているのに、手をかけないパターンである。いやそれほどの天才ではないけれど、導けば伸びるという限界線上にいる子が、転落していく例があまりにも多い。カネはかけたくない、女の子だし、というか親が多いのでしょう。塾には出さなくても、学校の授業は問題ないという子の親はたいてい何もしない。が、これが誤解であり、失敗、転落の原因である。学校の授業レベルは並以下でしょ。わたしの実感では、学校では何も教わっていない。計算もできないし、割合もわかっていない。そういう子がほとんどであった。「よくできる」が、揃っている子でも、未訓練からくる劣化は避けられないのが、実際であった。
 竹の会で、早期訓練を強く勧める理由がここにある。ただ早期に始めたからといって、全ての子が成功するわけではないのはもちろんである。
 私の方が、見誤るという子もある。小2〜小4の間は、つまり芽を見ただけでは、それからの成長はわからない、というのが本当のところである。やってみなければわからない、その代わり、やってみるとすぐわかる。この点のハズレはないようである。
 それにしても、読めない字、悪字を未訓練の故に、いや放置したがために身につけた子は哀れである。これで確実に損をする。何かにつけて損をする。早期教育もいいけれど、もっとやっておくべきことがあったでしょ、ということである。
 じっくりと勉強する習慣をつける、丁寧になぞるように字を書く癖をつけておけ、これである。早書き、早勉が、子どもの大切な取り組み姿勢を破壊しているということを忘れてはなるまい。

心の指導 

2007/02/07 14:56

2007年2月 竹の会元代々木教室

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2012年7月竹の会元代々木教室終わり

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