2019.04.03
🔵4月〜、募集
対象〜すべて新学年
小3 早期申込受付、7月から指導開始 入会試験L基礎 8割基準充足なら入会試験なし
小4 受け入れ中 入会試験L中級
小5 入会試験α(アルファ)
小6 高校受験のための基礎訓練。入会試験β(ベータ)
8割基準を満たす小学生は竹の会へ!
竹の会が、合格へ道案内します!
8割基準とは、小学校の通知表の3段階評価のうち「よくできる」が、全体の8割以上あること、を言う(これは、竹の会の造語です)。
8割前後が、竹の会入会の目安となるかと思います。
また、「もう少し」は、ないことが、前提です。
最近は、5割前後で、入会試験を申し込んで来られる方が結構います。いやそれどころか、「もう少し」が何個かあるという子もいます。そういう子は、普段の勉強に問題がある。つまり地道な努力を嫌う子であるのが普通です。入会試験には受からないだろうという以外に、そもそもの勉強姿勢に問題のある子たちです。ですから受検そのものが最初から無理なのです。少なくとも竹の会の入会試験を受けるということはやめてほしい。
もうお分かりかと思いますが、内申というのは、その子の勉強に対する姿勢というものを、如実に反映しています。勉強に対するスタンスと言ってもいいと思います。例えば、内申が、悪いというのは、頭のよくない蓋然性が高い、あるいは規則正しい勉強習慣がない、というか勉強などやらない、遊んでばかりいるということをインジケート(indicate)している。逆に、内申が高くても、必ずしも頭がいいとは限らないのももちろんです。ですから、良くても悪くても、内申は、飽くまでも蓋然性です。ですから内申8割基準は、真実を突いている、と見ていいと思います。
8という数字は、なかなか便利な数字ですよね。有名なのに、パーレットの2-8法則というのがあります。これは経済法則ですが、いろいろな場面で使うことができます。例えば、本の中の大切な 部分は、全体の2割だというものです。つまりその余の8割は捨てていい。ただし、ものにもよりますが、参考書には、当たらないでしょうね。参考書にもよりますが、必要な知識を整理したものはみな重要ですから、2-8は当たらない。
学校の先生の評価は、贔屓(ひいき)の可能性を否定しきれない。能力だけで評価していない。素直な子だとか、明るいとか、可愛いというのもあるようで、要は「お気に入り」には、内申を高くつけるのが、小学、中学の教師です。ただそういう教師が、全体の2割なのか、8割なのか、判断に迷うところです。
ただそういう教師も、真面目さはきちんと見ている蓋然性は高い。ふざける子はそのまま評価する。提出物を忘れる子には厳しい。とにかく落ち度をよく見ている。
だから「できる」という評価はそのまま信用できないが、行状の悪さはなかなかによく見ていて信用できる。「できる」内申には、割の嘘があり、「悪い」内申は、8割の真実がある、ということか。
23区の親御さんも、自分の子が、内申8割基準を満たさないなら、下手に、都立中の受検など考えない方がいい。親が勉強が不得手なら、その子だって、同じです。もしかしたらなどと妙に期待などしないほうがいいのです。蛙の子は蛙です。鳶が鷹を産むのは、稀です。
🔴合否を分ける分水嶺について
前提としての内申 8割基準は、受検の前提資格でもある。内申が、悪ければ、どんなにできても勝負にならない。都立中高一貫校のような高倍率の競争では、内申点で、差がついては、最初から勝負にならないのである。竹の会の入会試験が、8割基準を要求するのは、この意味でも、根拠のあることなのである。内申8割基準というのは、学校では、優等生と言われる子たちの成績である。竹の会が合格を可能とする域まで持っていけるか、という経験値から勘案して、この8割基準を満たすことが、ひとつの前提要件なのかな、と思っています。竹の会が、入会の際に、8割基準を満たすことが望ましい、としているのは、指導して合格レベルの力をつけられるか、ということを指導経験から割り出した結果です。昨今、都立中高一貫校の内申基準を満たさない子たちが、大挙受検しているのが、実状であり、5〜8倍というのは、少し割り引いて考えた方がいい。
内申の問題をクリアして、初めて、受検をどう戦うかという話しになります。
竹の会には、学校の優等生を合格させる手順は完成しております。わたしは、8割基準を満たす子を99%合格へ導けると思います。ただし、これには、条件があります。わたしの思うとおりの勉強をした場合に限ります。
要点は、積み残しをするな!ということに集約されますが、要は、積み残しを遺していくような所業をする子、家庭には合格などないということです。習い事、稽古事は、確実に、わたしの指導を遅らせます。過去、習い事、稽古事で、積み残しをしなかったとい子は皆無です。試験を舐めているとしか思えない、親の見識です。サッカー、野球、バスケなどに週の大半をかけて合格しようなどという、図々しい親子が必ずいますが、ちょっと何を考えているのかわかりません。積み残し、先送り、をすることに、鈍麻して、いくらでも先送り、積み残しをする、これが、こういう子たちの実態です。
何かと家族の行事の多い子というのがいまして、盆正月の実家帰省は欠かさないとか、理由を明かさない早退、遅刻が時々あるとか、こういう子、家庭も結局積み残しで、失速するのが常態です。
趣味、ゲームに時間を潰す病質、なにごとも面倒臭がるという性格、何もしないという性癖が、積み残しを加速するのは、あたりまえです。こういう子が受検やったって受かるわけはないのに、こういう子ほど受検したがる。中には知能の高い子もいたけれど、積み残しを常態とするか、竹の会では必須の「7回解き直し」をやらないとか、あるいは知能の高い子にありがちな、指導者を舐めてかかる、ということで、「落ち」て当然のこたちです。
この舐めてかかる、というのは、知能の高い子にありがちなことで、こういう子は、いつか必ず手痛い失敗をする。試験というのは、素直に先人の教えに従う子ほど成功する蓋然性が高いというのが、歴史の教えるところである。
難関国家試験によく若い子が合格するのは、素直に先人の教えに従うからである。知能の高い子ほど自分の能力に自信があるからか、先人の教えに従わないで、自分のやりかたに固執する。
歴史は、先人の教えに従うことが、もっとも効率がいいことを訓えているのに。だから知能が高いというのは、ある意味バカと変わらない。
合格するには、これだけやらなければならないという量がある。だからまず考えなければならないのは、その量との見合いであり、どれだけの時間が必要かなのであり、そういうことは全く無関心に、習い事、稽古事などをまず絶対的に優先させて、合格すると考えるのは、頭が悪いと、言われても仕方ない。
さてこうして竹の会において、確実に、合格を勝ち取るには、指導レジュメをテンポよく進めること、課題レジュメを滞りなく出すこと、課題レジュメは、解き直し、書き直しをこれも滞りなく進めること、要するに、積み残しをしないこと、である。
竹の会で、成功するのは、簡単である。が、なかなか成し得る者の少ないことではある。
◎勉強という強い意志について
強い意志とはどのような誘惑も撥ね付ける、いやあなたが「これだけは避けられない」と思う退っ引きならぬ事情さえも切り捨てる、そう切り捨てる、タフな意志を言う。強い意志は、実践とイコールである。実践というより実行という言葉がしっくりくるかもしれない。そう、あなたたちは、実行する生き方を当たり前としなければならない。実行するかどうかで、迷ってはいけない。「案ずるより産むが易し」とは、このことを訓えている。実行しない生き方とは、無為に時を過ごす生き方の選択にほかならない。実行しない形態はなんでもいい、皆無価値なことに変わりはないからである。
よくある実行しない形態は、先送りすることである。当面何かを優先させる、試合、発表会、法事、練習、稽古、帰省、旅行、どれも同じである。
実行しない人間は、蓄積された、大量の積み残しに、象徴されるように、中身のない、伽藍堂に苦しむことになる。こういう子たちが、受検直前に失速するのは、当然といえば当然である。
それなりの知能があるのに、伽藍堂になった子たちなら、たくさんいた。彼ら彼女らの中には、学校の優等生もいた。周囲も「できる」と認める子らである。彼ら彼女らに共通していたのは、高い自尊心と不実行であった。不実行の理由は、稽古事、サッカー、バスケなどのスポーツなどのほか、ただ勉強しないというのもいた。これは不思議なのだが、知能も高く、内申もいい、指導レジュメもテンポよく進める、模試は、良かったり悪かったり。いい時は、名前も載る。しかし、家庭学習はほとんどやらない。だから課題レジュメも出さない。7回解き直しもそもそも課題はやらないので、その解き直しなどない。指導レジュメの解き直しは可能なはずだが、結局やらなかったと思う。
模試で素晴らしい成績を取るのに、落ちたという子は、頭がいい分、どうも7回解き直しなどということをバカにしていたように思う。そんなことしても意味がない、時間の無駄だ、と思っていたのかもしれない。しかし、時間の無駄と言いながら、何もしないでダラダラして、あるいは趣味に興じることで、終わるというのが、どうして時間の無駄ではないのか、わたしにはさっぱりわかりません。いやそれ以上に、やる前からバカにしてかかるという思い上がりが、学問の深遠さの前にはひざまずくという、人間の弱さを認める賢明さを感じさせないほどに愚かに見えるのです。人間が、天によって生かされているという本質を悟らないほど愚かなことはない。まるで自分の存在が絶対かのように勘違いして、思い上る、ほど身の程知らずはいない。
これほど確かなことはないのに、あなたたちは、なぜ実行しないのか。
◎できない子になってしまった中学生
中学入学当初は、小6までの勉強、受検の勉強の溜めがあるので、まあそれなりにいい成績が取れたりもする。が、ここで、それが自分の能力であると勘違いしてしまう。特に、中学というところはそれこそ受検ないし受験にかけてきた時間以上の勉強をして、初めてトップクラスの成績を取り、維持できるのである。ところが、先の子たちは、何を考え違いしたのか、嬉々として部活に入るのである。週の3日を部活で潰す。中には、土日も朝から練習というすごい部活もある。ところで部活の悪弊というのは、例えば、週3日部活と言いながら、部活のない日は、勉強かというとそうではなく、疲れて勉強しなくなる、という実態である。さらに勉強というものが、日々の継続を必然とするものであることからくる、破綻がある。勉強する日としない日、いやたいてい勉強しない日で埋め尽くされることになる。
いいですか。中学というところは、勉強を継続した人のみが、最後は、笑う仕組みなんです。この勉強というのが、最低でも1日5時間はやらなければならない。よく言われるのが、3時間だと現状維持、3時間未満では成績低下、です。
公立中学で真面目に勉強するのは、全体の2割ほどです。さらに勉強最優先となると、1割にも満たないと思います。
公立中学では、真面目に努力する者が、成績を繋ぐことができる。ただここでも遺伝子的な制約はあることはもちろんである。特に、数学は、知能の高い者ができるようになる。努力では限界がある。
しかし、数学以外の科目は、幸いにして、努力の科目である。つまり、記憶でなんとかなる。記憶すればいい、というのは、実は簡単ではない。記憶というのは、一朝一夕にはいかないからである。それこそ地道な努力が求められる。
よく親御さんよりある相談に、「理科、社会の勉強方法、やりかたについての質問」がある。こういう相談をしてくるのは、たいていその子どもが、部活をやってて、勉強していない前提がある。そうなると、この相談は、勉強しなくても、方法があるのではないか、ということであり、そんなものがあるわけがない。びっくりするのは、当の本人も、つまり部活に呆けて勉強しない本人も、何かいい方法があり、それさえやれば点がとれると信じていることである。ここには、もともとの地道な勉強をやらないで、点が取れる、という虫のいい腹が垣間見える。
事の本質を見誤ってはならない。方法をいう人は、必ずといって、実行しない人である。勉強しない人が、方法ばかり言うものです。方法を言う前に、とことん勉強しなさい。
難関国家試験、難関大学入試の勉強をする場合に、成功と失敗を分ける分水嶺についても、この方法に振り回される人は、実行しない人であり、したがって実力のない人であるとして、たいてい失敗することになる。
難関国家試験においては、まず予備校に行くことは、当然の前提となろう。その場合、その予備校の提供するテキストだけをやればいい、と一応は言える。が、例えば、大原とLECでは、重点の置き方にかなりズレがある。こうなると本番との齟齬も露わになる。だからカネの余裕があれば、ダブルスクールがいいに決まっている。
予備校の提供する教材も、各予備校が、競って、体験談などでその有用性を喧伝するので、大いに迷うところである。
また昨今は、予備校講師などが書いた、参考書花盛りで、よりどりみどりである。
だから、この世界では、何を参考書として使うかを含めて方法論至上主義であり、ともすれば方法ばかりが追い求められて、実行が後回しにされるきらいがある。
こうしてこの世界でもやはり方法を言う人は、失敗し、実行する人が、成功する、のは、変わらない。
デカルトの「方法序説」には、一旦選んだ方法は、途中で、後からいかに優れた方法が出てきても、変更してはならない、とする論理的な論証がある。
ひとたび何かを選んだなら、その選んだものに全精力を集中すべきで、その過程に注ぎ込んだエネルギーと時間は既にして膨大なものである。ここで他にどんなに優れて魅力溢れる方法(教材、参考書、予備校、など)が出てきても、それを選択すれば、これまでの蓄積を捨てて、また最初からスタートすることになる。デカルトは、これが無駄だと言っている。結局、最初の方法を続けていれば、後から変えた方法より早く目的を達成している、デカルトは、こう断言する。
そもそも中学の理科、社会ぐらいで、特別の方法などと言い出す時点で不勉強を証明しているのであり、中学は、とにかく実行することが方法なのである。
標題は、受検で頑張って勉強してきたけれど、落ちてしまった子たちが、新中1の最初はリベンジ精神に燃え、大きな夢を抱き、駒場だ、青山だなどと言って大見栄を切るが、そして、これまでの受検勉強の貯金がそれなりにいい成績を取ることに繋がり、さらに夢を広げるのであるが、開放感も手伝って、気が大きくなったのか、部活に入り、次第に勉強の手を抜いていくようになる、多くの、中学生が、このような道を辿ることになるのである。
こうして、早くて中1の夏が終わった頃、遅くて中1も終わる3月頃、「できない子になってしまった中学生」が、その余生を送ることになる。