2018.11.29
おはようございます。11月も29日となってしまいました。天気は良好にし、心穏やかならず。28年の小石川の苦杯が小石川の並みならぬ難しさをわたしに植えつけて、九段の40人枠という想像を絶する苦難の道にわたしがあることを実感しております。東京全域の志望者が集う中での40人枠です。今年の富士は、60人枠でしたが、予定の4枠を獲れずに、2枠、これも幸運な結果というべきでした。わたしは指導するときは、2月9日の合格発表の掲示板の前にいる自分の心境をいつも反芻しています。掲示板に教え子の番号が「ない」ときのどうしようもないやるせなさ、わたしはこれを思うともういても立ってもいられない。だからいつも動くのはその衝動というのが本当かもしれない。どんなに疲れていてもパソコンに向かう、過去問集をただ無意識にめくる、わたしのそうした行動は自分でもどうにもならないほどに自分の体を追い詰めていくようです。受検が近づくと、もしかしたら倒れるかもと不安に襲われる、体には気をつけているつもりだが、もう歳ですから、思わぬ事態もと思うといつも不安をかかえての受検直前への突入です。
🔵節約すると受からない 節約精神に富む母親の功罪
塾の先生が、こういうことを言うのは憚れるが、誤解を畏れず言うならば、勉強に投資するという観念のない、もったいないという節約精神は、子には不幸なことである。
考えてみれば、今では、なんとも簡単になった司法試験は、昔から資本試験と言われていたが、今では、法科大学院に行けば、たいてい受かる。ただこの法科大学院はとてつもなくカネがかかる。別ルートの予備試験にしても、予備校にかけるカネを考えれば、やはりカネがなければ、受からない。
医師になるには、医学部に行かねばならない。頭もいるがカネもかかる。医師の60%が、医者の子弟というのだから、これはもうカネがなければなれない職業だ。そもそも東大合格者にしても富裕層の子弟が占めている。これは、難関私立中に行くところから、そのために、進学塾に行く、そういうところから考えれば、どれだけカネがかかるか、分かろうというもの。結局、カネがあっても、頭がなければどうにもならない。普通はそう、バカ息子、アホ娘が、カネの力で、というのは、あるけれど、相場は、カネがあって頭がいい、という、つまり正当な方法でカネかけて勉強した者が勝ち抜いていく。それが、社会の仕組みとして、仕掛けられた。仕掛けたのは、そういう仕組みで、勝ち組となった人たち、層が、支配する社会ということである。
さて、横道はこれくらいにして、本論に戻します。小学、中学時代の子どもには、投資しろ、ということです。わたしに問い合わせてくる母親の中には、中2まで、塾に行かないで、中3になるので、そろそろなどという人がよくいる。「娘は成績が良くて、青山に行かせたい」、などと言うけれど、高校入試がわかっていない。高校受験は、小学の段階で、その帰趨が決まるということである。計算力、割合力、すなわち思考力、そこから勉強のスタンス、習慣、そういうものが、小学時代に仕上がっているか、これが一番大切なことである。
もちろん塾にも行かないで、中1、2をトップクラスにあるという子にはそのような素養は備わっている。だから受験戦略を誤らなければ、成功するはずである。ところが、ここに大きな陥穽がある。塾に行かなくてもいいのだから塾にカネかけることもない、という判断である。確かに、巷の塾なら行かない方かいいかもしれない。ただしかし、中学というのが、中2までと中3からでは、あまりにもその内容に差があり過ぎるということである。もともと高校1年の内容が中3に下りてきた経緯がある。そうなると入試問題もいくらでも難しくできる。学校レベルと入試レベルの較差が、一つの壁であるが、それ以上に、中2までは、教科書と授業で、高い点が取れて、内申も4か5だったのに、中3になると、点が取れないという事実である。レベルが高いためである。このような事実認識から、取られなければならない戦略というものが、必然的ものとして、見えてくる。遅くとも中2の夏までには、中学の数学、英語の履修事項は終わらせていなければならないこと、中2の夏から、中3の履修事項を始めて中2が終わる3月までに、入試の基礎レベルまでは終わらせておくこと、理社は、中2の3月までに一通り終わらせておくこと、これである。
このような戦略の下では、高校受験のスタートも、小6の2月からは始める必要がある。前倒しで、進められるだけ進めていく。多くの中学生が、入学してのんびりと過ごし、部活に入り、部活で疲れ果てて、勉強しないという生活に陥るが、これがどういう結果をもたらすか、バカでもわかりそうなものなのに、中学の部活は、親も甘い。まっいいか、で当面の子との不和を回避する。とにかく部活やってれば、子どもは手がかからないから、親も当面の小平和を優先させる。
これが、現在の、ほとんどの中学生のたどる道であり、現在の公立中学バカ生産工場と化した、現実である。
このバカ過程に組み込まれないで、勝ち抜くには、公立中学側の表向きの道とは、別回路の、道を歩む、進む、走る、走り抜けるしかないのである。
竹の会の中学指導は、このような観点に立って、戦略を組み、指導する、ものである。
小学4年から、しかも早期から、の指導を謳うのは、小学時代に、勉強という基本的生活習慣をつける、確立させることが、高校受験には、先決事項だからである。巷での母親が、中学にもなって、一向に勉強しないと嘆くのは、親の小学から、カネかけない精神の当然の結果であり、嘆くには当たらない。また、中3が近くなって、そろそろ高校受験のために塾を探す、というのも、竹の会とは、関係のない人たちであり、少なくとも、竹の会に問い合わせするのは間違いであるから、これはお断りしておいたほうがいい。
親の、子に投資しないという信条が、子にどういう未来を想定してのことなのか。高校とは名ばかりの都立、私立が溢れる都会で、勉強とは縁のない、形ばかりの高卒で、社会に大量に、吐き出される人たちの群れに埋没して行く人生の選択をするのは自由である。ただそういう人たちの未来はこれからの、外国人労働者にとって代わられようとしている、日本の社会では、まともな職も得られない可能性さえある選択になりかねない。そんでええの?