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対策という名の無意味

2020.01.14

 

 

対策不要論
対策不要論
 対策とは、いったい何か。
 小手先の対策に予算を注ぎ込む国、これは本気で取り組まない、偽の対策である。福島第一原発が、津波の対策を取らなかったことは、有名である。奴らは、「想定外だった」とまるで他人事のように弁明していた。車のほとんど走らない原野に高速道を建設したきた国、自治体って、これ何の対策だっけ。的外れな対策に時間とカネを費やす自治体は、国をお手本としていることは推測に難くない。温暖化の対策が、できないままに、行くところまで行くのを待つだけの人類は、地球上でもっとも地球を壊す、有害な生物であったということであり、もしかしたら、人類を苦しめるウィルスは、地球にとっては正義の味方なのかもしれない。
 対策というとき、前提となる原因はそのままに温存しての対策が語られることがほとんどである。至近な例が、温暖化である。
 対策というのは、多くの場合、意味がない。国家百年の計を根拠としない対策に税金を注ぎ込む国、自治体は、パフォーマンスとしか考えていない。泥縄、その場凌ぎ、できるだけカネをかけないで済ます、そういう政策意図が透けて見える。
 さて、わたしは塾の先生ですから、受験対策という場合の「対策」を問題にすることになります。受験に向けてやる様々な活動を対策というのなら、それは確かに対策だろうと思います。しかし、そうした活動は、受験の準備活動であり、受験では、知識を学び、問題を解き、思考を鍛える、というのは、当然の前提であり、これを対策と呼ぶのは、不自然な気がします。対策というとき、私たちが用いるのは、何か特別の問題があり、その対策という使い方をするように思います。
 かつて旺文社の大学入試の問題集に「傾向と対策」シリーズというのが、各科目につき、出ていましたが、この対策も、傾向に対する対策でした。つまり、私たちは、一般的に、対策を取るとは、言わない。対策は具体的なことを宿命とする。
 その意味での対策でも、わたしは取らないであろう。例えば、慶應の英語が、長文だからといって、わたしは対策を取ることはない。なぜなら、慶應クラスの長文は、わたしには、当然備えなければならない、通常の英語力の問題として、想定内の準備事項であるからだ。それが開成であろうと、都立日比谷であろうと、何も変わることはない。つまり、基本わたしには対策はない。世間の親たちが、学校説明会をあちこち回り、いろいろ聞いてきて、対策をと騒いでいるのが耳に入ってくると、何を騒いでいるのか、わたしには煩わしい話しである。
 対策はない。しかし、準備はある。当然ある。しかし、準備は対策を必要としない準備である。準備万端とは、これをいう。
 
 
 そもそも人に有効な対策などというものはない。われわれは本来ないものに対策といっているだけである。
  対策はいつも後手になる。問題が起きてからの対策であってみれば至極当然のことである。
  人はわかっているのである。対策とはそんなものだということが。だから、人は対策にはカネをかけないことになっている。人は政府は何もしなかったというであろう。その通りである。政府は対策にカネをなるべくかけないように政策調整しているはずである。福島第一原発の津波対策はそんなものである。絶対事故は起きないという前提、これはカネをかけたくない、その意思の表れに過ぎない。政府というのは、バカな国民にはカネなど出さない。かけない。社会保障をケチるのは、当たり前である。
 
 それまで対策はなかったのか、そうだ、対策というのは、たいていはいい加減なもので、何かやってるふりだけのものばかりだ。
 うちの塾に来れば、対策は、十分という。そもそも対策などないのに、対策は十分という。対策が必要なのは、すでに何か問題があることを前提とする。学校で落ちこぼれているとか、なんらかの問題ありの子たちに対策をとるなどというのである。
 試験とは、対策をとるものではない。準備をするものである。準備とは、準備に必要な期間を前提とする。準備万端を期するものである。対策をとるのではない。準備をするのである。小学生なら、基礎学力を訓練して、思考力を鍛える。それが勉強することをあたりまえとする生活習慣として定着していくことにつながる。わたしはそういうものを準備と称しているのである。巷の塾が短期間のうちに合格水準に達するように対策をとるなどということを可能なように言うからわたしはそれはないと言っているに過ぎないのである。

第54章 小2からでも、小4からでも、指導は同じ、なら早い方がいいに決まっている  

     竹の会という魔法のシステムについて

 あなたたちが、もし竹の会で竹の会の指導の光景を見たとしたら、衝撃的な事実を目撃することになるかもしれない。なぜ小2があれだけ高度な計算ができるのか、不思議に思うかもしれません。この小2はもともとの天才のか、そう思うかもしれません。「あれだけ高度な計算」とは、どの程度の計算か。一言で言えば、難関私立中に出題される程度の計算問題です。分数、小数なんでもありの、四則混合演算です。もちろん逆算も含まれます。入会当時、九九もたどたどしかった子が、変貌していくのです。整数のかけ算、割り算をドリルで終わらせて、小数のかけ算、割り算へと進みます。小数の計算ができるようになったら分数に入ります。竹の会では、分数の計算を細分化して、効率よくマスターしていくように工夫しています。分数の基本的な運用ができると判断したら、わたしが問題を一問指定しては解かせるということをやります。問題を子どもの理解の段階を見ながら選び、解かせて、少しずと段階を上げていく。こういうことを1か月ほどやります。そしてあるときもう大丈夫だろうと見て、複雑な問題を解かせて見ます。成功すれば子どもは自信をつけます。この成功体験を十分にとって、あるとき、逆算の論理を持ち込みます。小2が計算をマスターする過程はざっとこんなものです。これは、小3でも小4でも変わらない。恐ろしいことに、私が見てきた他塾の子たちは小4でも小数の計算もできない子ばかりでした。竹の会に来たときはみな学年に関係なく似たようなものです。わたしは大手に小4、小5と2年間通い竹の会に入会試験を受けに来た小6を何人か見てきました。小数の計算を間違う、分数は初歩的なものしかできない、みなそんな程度の子ばかりでした。竹の会の小4がかなり高度な割合の問題を解いていることを考えると、他塾の、もしくは無塾の小5や小6の学力の低レベルは目を覆うものがありました。虚しく入会試験に落ちて、せっかくの入会の機会が徒労に終わり、疲れがドッと出たものです。

 あなたたちが竹の会の門を叩くなら、小2とか、小3とかが絶対にいいということです。なぜなら、小4に来ても、小5に来ても、小数の計算から始めるしかなく、それは小2から来ても少しも変わらないからです。もし小5に来た子が、検査の結果、小数の計算も未熟とわかれば、小数からやるほかない。小5でも小2と変わらない。計算をマスターするために要する日数は変わらないのです。小5の4月に来た子が、計算をようやくマスターするのが、6月から7月です。ここで、割合の訓練を始めるとして、竹の会の所定のレジュメを小5の1月までに終わらせられるか、つまり6か月で所定の思考力がつけられるか、ということですが、過去の実証例を見ると、成功者はほとんどないのです。

 これが、小4の4月開始だとどうか。小5になるまでに、割合の五部作を終わらせられるのが理想です。もし終わらせられないとすれば、受検能力的には並みということです。ここで卓越した子かどうか、がわかります。私としては、小4までに割合五部作を終わらせられるほどの子が、小石川レベルの受検に成功する蓋然性が高いと判断しております。そこまで行かない子については、受検は厳しい戦いになると見た方がいいかと思います。

 小3開始、小2開始が、いかに有利か、おわかりいただけたでしょうか。

 わたしは、竹の会で、わたしの指導を受ける子たちが、早くにわたしの指導を受けて、基礎学力をしっかりと定着させて、割合思考を通して、さまざまな思考の方法を学び、自らああでもないこうでもないと考えをめぐらせるようになることを願っております。算数という思考を深めるには最高の科目を、たっぷりと時間をかけられる環境で、学んでほしいと願っております。

 さらにはこうした基礎訓練をこつこつと続けることが、勉強を生活習慣として自己内形成することになれば、中学、高校での勉強を軸とした生活にもすんなりと入っていけるはずです。

 竹の会の、わたしのねらいは、都合そこにあるのですから。
 
 

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