2019.04.20
4月20日、晴れました。暖かくなってまいりましたが、やはり春特有の寒暖差の激しい一日に意識が騙されて体調を崩すという、ある意味定型化された行動をとる人たちが普通なのはやはり人間的というべきか。わたしも例に漏れず昨年の5月に同じ轍を踏んでいますから、今年はことのほか用心いたしております。
もうすぐ5月の連休ですね。去年の連休をどのように過ごしたか、「確か」程度しか思い出せないのですが、こういう人びとが一斉に動き出すときというのは家にいてじっとしているというのがいちばんいいと独り合点しております。今年の連休も家でおとなしく仕事をするだけです。今年は10連休ということで、いろいろと計画されているご家庭もあるかと思いますが、恙なく終わり5月6日にみな元気な顔を見せてくれればと願っております。
◯覚えた解き方を思い出すという勉強
このような勉強に、そもそも思考というものは存在しない。他人の考えた知恵を理解し、覚える、そういう脳は、後知恵型の脳、既存の知識を覚える能力が、成長していくだけである。
考えに考えたけどどうしてもわからない、こういうときにどうするか、
解説を読む、というのは、どのような影響を及ぼすか。
解説を読む前にどれくらい時間をかけて考えたのか、30分? 1時間?
考えるとは、何日か、考えて、初めて考えた、といえる。それでもわからないとき、どうするか。悔しいけど、降参である。白旗をあげるしかない。それほど悔しいことなのである。そこで、解説を読むか、である。
正直な話、私は、大学入試のとき、最終的には、Z会の数I数IIB問題集というのを買って読んだ。この問題集は、1ページに問題と答案が、載っていた。数学の答案は、数行で終わるものではなく、びっしりと紙いっぱいを使ってなんとか書ききる、といったものであることは、ご存知な方もいるでしょう。この体裁で都合200問ほどの問題と答案が印刷されている。
わたしは、まず問題を読んで、いきなり答を読んだ。何が書いてあるのか、理解したら、一気呵成に読んだ。
つまり、わたしは大学入試の最後の段階の勉強では、考えて解くということをしていない。
このへんのテクニックについては、また別の機会に論じたい。
今、問題にしているのは、大学入試ではなく、高校入試、都立受検についてである。
わたしが、算数の問題を解くときの話である。私はプロとしての意地もあってか、解けないということが、あってはならない、という意識が高い。といってもこれまでに解けなかったということはなく、どんな難問でも時間はかかることも多かったけど、結局解いた。そういう経験からか算数の問題の出題者の意図というのが透けて見えることが多く、こんな解き方ではない、もっと簡単な解き方があるはずと考えることが多かった。声の教育社の解き方と違う簡単な解法をよく見つけてはほくそ笑んだものである。
数学は私が最も長く付き合ってきた分野であり、これまでに解いてきた問題は夥しい数に上る。こちらは、市販の解説、解法に難解なものが多く、専らわたしの仕事は、平易で簡潔な解法を見つけることであった。どんな難問も教科書だけの知識を使ってシンプルに解くことを信条とした。わたしが高校入試の専門家という意味は実にここにあると思っている。それよりも生徒を合格レベルにもっていく技術において卓越していることも専門家としての仕事に入ることはもちろんである。
高校入試数学においても、解の糸口を見つけるための訓練は必ず必要で、やはりその意味で考えるというか、解く訓練は必要なものと考える。
こうして、受検、高校受験においては、問題を解くというより、思考を訓練するということが大学入試とは異なり、解の糸口を見つける訓練、正解に達する道の選択、解の道筋を読む、様々な訓練のために、必要なのである。
ここで解説を読むということが、どういう結果をもたらすか。訓練の欠落が何をもたらすのか。
いいですか。予め用意された解法を理解し、わかったとすることにどんな意味があるのか。それは同じ問題が出れば、一度解いたことのある、いや解説を読んだことのある問題なら、解けるかもしれない、という意味しかない、ということである。しかし、試験というのは、未知の問題に対しての対応を求められるものです。未知の問題に対して、ああでもない、こうでもない、と解決の糸口を探す、問題を、何度も読み返して、読み違い、思い違いはないか、を吟味する、そして、あっと閃く、こういう経験を重ねて、知恵をつけていくのである。
解説を読むとは、そうした一切の葛藤もなしに、つまり与えられた答えをなんのストレスもなしに「読む」ことです。脳に何の足跡も残さないのです。
解説を読むというのは、思考放棄をする、ということである。考えないで、解説だけ読んで終わったとするのは、あまりに短絡です。
それなら思考するというのは、どのような実質を有することなのか。何簡単なことです。脳に皺をつくっているだけのことです。もちろん比喩です。脳を使うことが皺とどう関係するかなど誰もわかりませんからね。問題を自ら考えて解いた、という経験が、脳にもたらすもの、それは喜びですかね。この喜び体験を重ねることには、意味がある。まずそれは自信となって顕れる。そこから問題に対する耐性というか、抵抗力を生む。これは大きなことで、考えるときの脳のありかたを規定するであろう。余裕をもって客観的に冷静に事態を観る姿勢につながる。これは自信のない人には物事を冷静に見れないという一般的な見方と符合する。つまり正常な判断をするためには、思考による成功体験が絶対に必要なのである。
こうして解説を読むだけの人は、成功体験の欠落という、正常な判断力の欠如した状態で、試験に臨むことになる。