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小石川一直線/都立戸山、都立青山標準合格塾/反抗期と甘やかしの関係その他

2019.07.23

令和元年七月二十三日 火 まだ梅雨

 

第8章 反抗期と甘やかしの関係

 反抗に根差すもの、それは母親なり、父親なり、もっともわかってほしいと思う存在に、わかってもらえない、焦燥感ではなかろうか。
 反抗とは、もっと甘えたいという欲求の裏返しではないか。これまで優しかった、何をしても大目に見てくれた親が、成績、生活態度などに細かに注意してくる、子どもにはいちいちずきんとくることばかりであろう。一生懸命やろうと思ってもなかなか思うように進められない。部活で流されるのはわかっていてもどうにもならない。疲れてごろりと横になる。ついテレビを見てしまう。自分では勉強したと思っていても点が取れない。親のいらいらも飽和点に達して、爆発する。こんな成績では都立なんか行けない、そう思うと、ついかっとなってしまう。まあ、こういう場面が、普通の反抗事情であろうか。

 中には成績がいいのに、頭ごなしに叱られて反抗するという場合もある。
 反抗は、頭ごなしに押さえつけてくることに対しての反発である。ちょうど自我の目覚めと重なる。それまで親の言い付けに素直に従ってきたのは、自分というものの存在が薄かったからであろう。ところが、中学になると、自分というものが芽生えてくる。「俺の」、「私の」主張が、生まれてくる。もう頭ごなしに押さえつけることはできなくなる。

 おわかりであろうか。子どもを躾けるにはもう遅い、遅すぎるのである。親の言うことを素直に聞くのはせいぜい小5あたりまでか。それまでに子どもに勉強というものがいかに大切なものか、字をていねいに書くということの大切さ、そういったものを習慣づけていかなければならない。竹の会では、試験的にですが、小2の指導をすることになりましたが、小3がもっともいい時期なのかと思っています。勉強の習慣というものをこういう時期につけることの意義は、中学になって勉強習慣のない子たちに「勉強させる」ことの困難さを思えば、自明です。また小学の時期にきちんとした指導を受けて来なかったことの代償ははかりしれないものがあります。東京のみなさんは、塾ならどこでも同じだと思っているようですが、いや大手なら間違いないと信仰されている方がほとんどなのでしょうが、もしあなたの子どもが天才なら何も申しませんが、そこそこできる程度なら、いずれ取り返しのつかないこととなり、ありふれたこの身の振り方を選択したことを悟る時が来るでしょう。

 第9章 一を聞いて十を知る
 1を聞いて0.2を、知る。多くの小学生の姿ではなかろうか。人間の言葉で伝えるには言葉はあまりにも不完全である。限界がある。子どもたちを教えて感じるのは、まず言葉の壁であろう。幼い小学生に使える言葉には限りがある。こうなってくると、子どもたちとの間にいかに共通の認識世界を築くかが、先決条件となる。共通の土俵を造ること、これは指導の極意といってもいい。多くの指導者が、失敗するのは、自分の世界、高い指導者の世界で、子どもを教えようとするからである。天才ならそれでいい。しかし、その他大勢の小学生はそうはいかない。だから指導者のやることは、子どもたちとのコミニュケーションを図るための言語の造語、構築にある。

 例えば、竹の会では、子どもたちに、まず算数言語を教える。共通の言語作り、これがこれからの指導を円滑に進めるために絶対に必要である。多くの大人が子どもにわかるように教えられないのは、そのための言語がないからである。大人の世界の言語で一方的に説明しようとするから失敗するのである。「%」という言語、%増し、%引き、定価、割引、仕入れ値、原価、売り値、何あたり、時速、分速、秒速、こうした算数言語について、子どもたちが、修得して、使えるようになること、これが説明の前提である。いいですか。子どもたちが問題を解く、解いていく、前提ではない。指導者が、子どもたちと算数世界で会話するための前提なのです。私は地道に一年かけて子どもたちと話せる、共通の言語を、共通の認識世界を作りあげていくのです。よく面談中の親御さんが、わたしの説明というか、指示が一言なのに、子どもたちが、「わかった」ということに、驚く姿を見ますが、それは実はその子と私の間に、共通の言語が形成されているからです。
 日々の指導は、指導レジュメを通して、共通言語を使っての訓練にあります。子どもたちは、算数言語を使って、問題を解く経験を積み重ねていきます。わからないというとき、算数言語の理解が、十分に理解できていないのが、ほとんどです。わからない原因が、DNAに原因する場合は、正直お手上げです。まだ能力未開発、発展途上という場合は、時間が解決してくれます。「待つ」ことも指導です。じっと熟成するのを待つ、発酵するのを待つ、これも有効な手段です。
 算数言語の正確な修得をめざす、これが初期指導の眼目です。正確な定義を子どもたちに、植え付けること、これは指導者の手腕にかかります。よく基本ができていないと言いますが、それは、基本概念の定義を正確に理解していない、ということです。曖昧に、大雑把に、いい加減に、これが、そういう子たちの共通の診断です。
 定義にこだわるのは、わたしの、いや竹の会の、困難と戦ってきた、過去の苦闘の歴史が、そう教えているからです。わたしは、定義の大切さをもっとも知る人たちの一人です。
 壁に突き当たったとき、結局答えを与えてくれたのは、定義でした。かつて都立西の生徒(東大理系志望)を指導したことがあった。男子生徒であったが、小6から高3まで竹の会にいた子でした。その彼は、高3のとき、竹の会で使っていた「大学への数学」という参考書の、難問をよく質問してきたものです。わたしは、もともと国立文系を受験した人間です。いわゆる数学IIIは、やったことがなかった。国立文系の数学は、数学Iと数学IIBまででしたから。それにわたしが受験してから新しい項目がかなり導入されています。行列式とか、一次変換なんかは、なかった。微積も高次関数だけで、数列も含めて、極限値を求める問題は、数学IIIとされた。ところが、西の生徒は、理系だから、わたしが勉強したことのない分野も持ってくるわけです。これにはわたしも参って、とにかくかなりの参考書を読みまくって、勉強しました。その時に、まあ、東大の問題だろうと思うのですけど、見たことのない問題を何題も持ってくるわけです。正直さっと問題を一度読んだだけではなんのことかさっぱりわからない。それで一題に1時間ほど考える。考えこむ。そのときに閃くのは、光明が見えるのは、決まって、そもそもこの定義はなんだったけ、と考えて、定義から仮説を読み解いていく、そういう場合だったのです。わたしは、このときほど実体験として、定義のありがたさを感じたことはありません。文系人間のわたしが、東大の数学について解決の糸口を見つけたこと、これはわたしの方法論の大変な自信となりました。
 塾の先生をやるということは、そういうことなのか、と思ったことです。この経験は、英語や国語についても、わたしのやりかたになりました。大学入試のための高校英語を極めること、大学入試のための現代文読解法について学ぶこと、これが長年のわたしのテーマとなったのです。中学生に受験英語を指導する人間が高校英語を極めてなくてどうするのですか。高校受験の国語を指導する者が大学入試の国語の問題が解けなくてどうするのですか。

 わたしの執筆してきたレジュメはすべてそういう信念にもとづいて作られてきました。このたび、わたしの体力的事情から課題サービスを廃止しましたが、ごく少数の課題に熱心に取り組んでこられた親子様はわたしの課題の価値をよく理解しておられたと思います。

 最後に、わたしの体力的理由というのが、不透明かと思います。脊柱管狭窄症というものです。手術が必要なところまできております。来年の都立入試の後、1週間から10日ほど手術の機会をいただければと考えております。みなさまにはご迷惑をおかけします。

心の指導

会員配布中

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提出された課題レジュメ

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当年27才かな 亀吉

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元代々木教室から「いる」狸応援団

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