2019.05.18
※「草枕」 長文で申し訳ありません。最後までお読みいただければ幸いです。
◯「この子は受かる」と思わせるもののこと
なぜ「受かる」とわかるのか。この子は、受かる、と私が、思うと、本番で、不思議と外れたことがない。驚くのは、後で得点を聞いて、実は、スレスレであったということが、二、三回あったことである。
逆に、かなりの高得点で合格ということもある。
合否判断は、都立中と都立高校では、かなり様相が違う。
都立高校は、合格することが原則であるのに対して、都立中学は、落ちるのが原則である。
これは、もう少し詳しく説明する必要がある、
都立高校の場合、内申点が、1000点満点の300点ある。さらに、問題が、共通問題だと、得点はほとんど横並びになるから、内申の多い方が有利となる。必然都立高校の場合は、受験できる高校が内申で序列化されて、内申に関係なく受けられるとしても、内申点で合否が左右されるため、独自問題出題校にしても、結局内申が合否を左右する。
都立中学の場合、内申で受ける中学を決めるという意識が薄い。かなり悪い子でも、受かるつもりでいる。これがそもそもの勘違いの始まりなのであるが。しかし、九段のように、内申の三段階を、40点、20点、1点で割り振りすると、もう内申の悪い子には、勝ち目はない。加えて今年のように問題があまりにも易しいと内申点の高い者から受かる。試験はただの書類審査となってしまう。
都立中学では、区立ほどの、内申重視はない。例えば、小石川は、25点20点5点である。白鷗も25点17点5点とこんなものである。とは言ってもやはり「よくできる」が8割以上ある子たちに有利であるのは変わらない。
内申の基準を満たしたとして、小石川、桜修館クラスでは、やはりそれなりの学力が求められよう。小石川は8割以上が、私立難関の併願者で占められているから、サピや早稲アカなどの進学塾大手のトップ層との競争になる。
小4だと親も子どもが平均的な能力でも、夢を持ちがちである。やりようによってはなんとかなるのではないか、と思ってしまうのである。こういうところに倍率が、7倍とか、8倍の高校入試では考えられない倍率になる所以があるのかと思う。
高校入試では、今年の女子の倍率では、都立青山高校の2倍が、最高だったと思う。たいていは、1.4倍前後で落ち着く。都立高校の場合、内申による高校の序列化が徹底して、自己の内申で受けて合格できるところが自ずと決まってくる。だからそのことが、倍率にも反映されててくる。だから2倍というのは、かなり高い倍率である。都立中学の7倍は、もともと無謀とされる受検者が多数いての7倍である。上げ底です。
こうして、内申の基準をクリアしていることが、都立の第一関門となります。ただ中学と高校では戦い方がまるで違う。さらに都立高校でも、共通問題か、独自出題かで、また戦い方が違う。そして例えば、私立難関高校の受験となると全く指導の実質が違ってきます。
わたしは、私立難関中学の受験指導はやりません。理由は理科社会の指導ができないからです。これは小学生に細かな授業をする時間がないという趣旨です。都立高校の理科、社会は、話しが別で、わたしは、高校受験科目全体を合格レベルに持っていく指導、つまりdirectを仕事とするプロであると思っています。もちろん理科、社会の学科内容は当然知悉しております。どんな質問がきても答えられる、と思います。これは小学生でも変わりません。ただ小学生の場合は、ただ指示するだけではだめで、手取り足取りの指導が必要であり、わたしにはそんな時間がないから、できないと言っているのです。
高校入試における国語、理科、社会のdirectについて。私は、道を指し示す、ことを仕事としています。ただし、その学科のどのような質問にも答えられるだけの素養は備えているつまりです。道を示すとは、具体的に何をどのようにどれだけやればいいのか、具体的に指し示すことです。要するに、細かい学科指導はしないけれど、理科、社会90点以上取れるように導くという仕事です。
さて、それとして、都立中学と都立高校では、戦い方が、本質的に異なるのは、必然です。それは、小4と中1、つまり指導のスタート地点を比べれば、自ずと見えてくることです。小4というのは、まだ幼い、未成熟の脳をこれからどう開発して、鍛えて、考える脳に仕上げていくか、という段階にあります。中1が、すでにそういう段階を終えて、これから知識を広げ、思考を深めていく、そういう、ある途上にある脳をさらなる指導で鍛えていく、という段階にあるのと違います。いわば前者が、これから形にしようとする段階なら、後者は形になった脳を内容を密にしていく段階ということです。してみれば、小学の間に放置していた脳は、形のないままに、大手で歪められた脳は、まとまな形を持たないままに、突然中学という、形あるものを前提として、機能する教育システムの中に、放り込まれることになります、
お分かりいただけたであろうか。都立中学受検というのは、小4期の(思考の)形のない時期から形にする仕事、形を作りあげたなら、さらにはその形に思考の内実を蓄積させていく、こういう二段階の指導が、必要になります。これが高校入試だと、最初の段階はない。ただし、小学生の時に、形を形成してこなかった者は、中学生になって、悲惨な道を転がることになる、歩むのではない、転がり落ちていくのである。
さて、ここで、小2、小3期の形を作ることの意味について、少し述べておきます。
わたしは今では小3の指導について実績を積み上げています。かつては小4早期を可能な指導時期と考えてきました。指導の実践を積み重ね、成功例を出して、わたしの指導術をさらに小3後期へと広がったこと、そこでもわたしの指導術によって、ゆっくりとではあるが、確実に、伸びてゆく子たちを確認できたこと、そしてその子たちが、小4になって、早々には、逆算を学ぶところまできたこと、中には逆算を抜けた子たちも出たこと、こうした成果を踏まえて、小3の指導を可能と判断し、さらには、突出した小2の指導も可能になってきたと踏んでおります。
ところで、、小3には小3の時期に合わせた指導ということではありません。あたりまえですが、わたしの指導体系を学年前倒しで適用できるか、を問題にしているのです。
なぜ、早期にこだわるのか。
早期の脳の開発が、可能ならば、思考の形を作るのは、早ければ早いほどいいからです。世の中の親たちの愚は尽きない。何もしない、つまり塾にやらないで、未成熟で、思考という形のないままに、中学を迎えるの愚。これは、脳の形を作らないままにというほかに、勉強という生活習慣を作り得なかったという、致命的な過失も加わります。
もう一つの愚の形態は、さしたる知能もないのに、いや学校の優等生でも落ちこぼれることがある、なのに大手塾に入れる親があたりまえに多いことです。大手の売りとされる、テキストとカリキュラムにしたがった授業、そこには、バラ色の未来が描かれ、親たちは、最初は嬉々として希望に燃えていた子たちがやがて集団授業の弊、すなわち消化不良に喘ぎ、やがては落ちこぼれていく、大多数の子たちの断末魔を目撃することになるのです。大手といっても、公立中高一貫校対策のそれか、私立受験のそれか、でその落ちこぼれの中身も大いに異なるのですが、そこのところをやや敷衍してみます。
公立受検型の大手塾は、 過去問類似の問題演習が指導の核であり、本来なすべき思考形成型の教育を頭から蔑ろにして、即席効果を狙ったやり方に終始しているように見えます。結局元々の天才脳の持ち主だけが適応し、学校の優等生レベルでも脳を疎外される蓋然性が強い、と思われます。
私立受験型の大手塾は、 古い。昔から落ちこぼれという言葉はこの型で使われてきたことばです。私立受験の場合、少なくとも段階的な指導ということは前提しています。ところが、集団授業は、ここでもやはり天才だけを救いあげる機能に集約されることになります。基本的なところは天才の理解にかけて、さらりと終わらせ、過去問を軸に作られた難解な問題をベースに作られたテキストで、天才を炙り出し、天才に特化した、英才教育を施す、これが進学大手の真骨頂です。並どころか、学校の優等生よりは遥かに上にある子でさえ、落ちこぼれる、のが特長です。開成や筑駒、灘の合格者数を競うことが、大手進学塾の生き残りをかけた経営戦略ということになれば、最初から、わかっていたことではなかったのか。
わたしは、学校の優等生と言われる子たち、「よくできる」が、7〜8割ある子たち、そういう子たちでさえ、私立受験をすることもない、たた学校の授業だけで、成績はよく親も安心している、そういう子たちが何もしなければ、中学になれば転落していくということを知っています。これは多くの実例に接してきたから間違いありません。また、そういう子たちが早期から脳を開発し、思考の形を作り、勉強の生活習慣を作り上げていくことで、将来華々しく伸びていくこともまた知っています。実は、竹の会というのは、そのような子たちが成功していった塾なのですから。
公立中高一貫校のための指導をするということは、将来のためのかけがえのない、思考作りの最良の機会なのです。たとえ受検に失敗しても、竹の会では、その後、戸山、駒場、日比谷、慶應などの高校に進学した子たちで溢れています。竹の会の早期の指導というものが、たまたまの公立中高一貫校受検の成否を見合いにしたものではなく、将来、高校入試、大学入試、難関国家試験を見合いにしたものであるということがわかるときが必ずきます。わたしはそれほどに小学生高学年時に思考訓練することの意義を訴え、そのためには小学生早期からの脳の開発の必然性、重要性を説いてきたのです。平成28年杉山太一君が京大に合格したとき、わたしにきたメールには、竹の会時代に学んだ思考スタイル、勉強姿勢というものが役にたっていた、と思うということを述懐されていました。
世の中に、特に、この東京という首都圏に、いい塾がたくさんあるのかとは思いますが、それは推測で、実際には、さまざまな塾で、失敗、挫折した子たちのことしか知りません。そしてそういう子たちが、2年も3年も通ってきたという塾の話しを聞くにつけ、世の中には、随分酷い塾があるものだと呆れもし憤ってもきました。そういう中でわたしは、竹の会の指導というものを東京の皆さんに訴えてきたつもりです。竹の会に入会された皆さんの多くが、最初は、疑心暗鬼にあったこと、なかなか信用しなかったことは、よく承知しております。そういう方たちが次第に竹の会という塾を信頼して、いつしか熱心な支持者として、竹の会を支えてるくれるようになる、そういう推移も竹の会での普通の流れ、わたしにはそう思えます。
竹の会は、いつも少数の理解者に支えられてここまで、35年という試練を乗り越え、耐えてきた、のですから。
わたしは東京、首都圏の皆さまが、今、この時期にしか、竹の会と遭遇すること、邂逅することは、ない、ということ、をよく知っています。ですから、竹の会という塾の実際を是非今のタイミングで、知ってほしい、と願っております。何年か後、もう竹の会に遇うこともない。今しかない。
小3からさらに小2を視野に竹の会の、わたしの指導術の限界をどこまで敷延できるのか、を問いかけています。、それが今の竹の会かもしれません。
さて、話しを最初に戻しましょう。
わたしが、「落ちる」と踏んでいた子は、落ちた、これにも外れがない。
ただ「受かる実力はある」のに、落ちたという子について、わたしは、「この子は受かる」と思ったことがない。模試の成績もいい、知能も高い、なのに、わたしの脳裏を掠める、一抹の不安、この不安は100%の確率で、悪い方に的中してきました。
一抹の不安とは、その子が、示す不吉な前兆に集約されていました。それは、わたしの不安を掻き立てる何かでした。
例えば、です。
前兆①都立入試の前日に、「月の満ち欠け」について質問した! これ、今するか!
前兆②都立中本番前の1月のこと、寄れたり曲がったりした、レジュメが散乱していた!
レジュメの管理に不安、解き直しにも不安が過ぎる! あまりにも乱雑ではないか!
兆候③なぜか課題を全くやらない!
課題を通じた様々な手当てがない! 知識、情報の不足、作文の練習がない、書く練習がない、やり遂げるという精神の形成がない、そもそも家庭学習時間が少なすぎる。
かつて指導レジュメはかなり進めるのに、つまりそれだけの能力がありながら、なぜか課題を全くやらないという子がいた。模試で名前を載せたこともあった。大原の模試では、70%、80%をとった。しかし、それでも落ちた!
前兆④夏休みの話し
(ⅰ)いつ聞いても勉強時間が、3時間ちょっと!
夏は最低7時間だろ!
(ⅱ)指導時間中居眠りをする!
夜寝ないでサッカー観戦!の噂がある! レジュメを解いて指導を受けるという指導の実態がない。居眠りによる時間の食い潰し、レジュメの先送り、腹だけは人並みに減るようで、食ってから、また眠る。
前兆⑤小6になっても習い事、稽古事の噂がある!
指導レジュメの遅れが顕著!積み残しが、大量!
前兆⑥レジュメをほとんど出さない!
指導の実態がない! 先送りと積み残しの典型。こういう子はたいてい課題も出さないから、家庭学習もほとんどない。
前兆⑦遅い!積み残しが絶望的に膨らむ!
レジュメ速度が、遅い子は受からない(定説)!
前兆⑧合格ハンコが、ほとんどない!
合格ハンコが取れない。つまり解けない。その原因は、問題の読み取りが、できてないためというのが、ほとんどである。読み取れないのは、たいてい知能の問題である。合格ハンコがないというのは、それだけ深刻なことなのです。
結局、落ちた子、かなり合格を期待されながらも結局落ちた子というのは、後から考えれば、なぜか不安が尽きない、消えない。それは、論理的に説明できない、突然沸き起こる、脳裏を掠める不安です。わたしの中の何かが、危険センサーが、わたしに教えている。
言われたことを実行できない。指示が何度も言わなければ伝わらない。字が汚い、読めない。ノートがとれないほどに字が乱雑。課題の出し方を守らないなど。無断欠席、遅刻しても理由を言わない。挨拶ができない。礼儀作法を知らない。敬語を使えない。落ちる子の特徴を拾い上げればキリがない。
内申が、8割基準に満たないなら、受検には、かなり不利となる!
こうして、わたしの、受かるという予測は、さまざまな不安によって減殺される、否定される。特に、実力があるのに、つまり本来なら受かる成績なのに、不安が尽きないという子がいます。その原因は、わたしと意思の疎通ができていないところにあります。何か尋ねても説明しない、しても何を言っているのか、ちょつとわからない、こういうやりとりをしていると、わたしには、ほとんど情報がないことになります。落ちるのはわたしに情報がないから゛す。全てを教えてくれないからです。隠し事が多いからです。習い事、稽古事を続けていることを隠す、遅刻した理由を隠す、休んだ理由を隠す、解き直しを何回したかと質問しても明快な答えが返ってこない、常に曖昧です。要するに、わたしが、全貌を掴めないから、そのことが、わたしに不安を起こさせるのです。
かつて都立入試で、失敗した生徒の話し。わたしには、その生徒の全貌が掴めないままに、本番を迎えた。何もかも母親がやった。最後に、月の満ち欠けについての問題を質問してきた時、その仕組みをまるで理解していないことを、本番の前日に知った、わたしに知らせない、母親は知っていたのだろうか。
中には、夏は、サッカー観戦で、勉強してないと公言する母親もいたが、これは、落ちるという情報になります。
原稿用紙を使わないバカがいました。わら半紙に書くのです。小さな字でびっしりと書いてきます。添削するスペースはない。これは添削拒否と取られても仕方ない。原稿用紙を使って字数感覚を覚えるとか、原稿用紙に慣れるとか、そういうわたしの目論見は全て無に帰する。
一抹の不安は、かなり的中してしまいます。ほぼ100%不合格となりました。
この不安の正体は、これまで述べてきたことで、もう明らかです。わたしが、知らないからです。人は知らないことについては、不安をもつ、当たり前のことですね。
グレーゾーンの存在
落ちるかもしれない、しかし受かっても不思議はない、というゾーンがあります。模試で一度も合格圏をとったことはない、50%の判定が、精一杯である。
これに関しては、わたしにも予想ができない。落ちるとは言いきれない、受かるとはとても言えない。こういうラインにある子の合格を何度となく見てきました。いつも予想外である、想定してなかった。悪い方に考えるのが、わたしのくせで、そのわたしが合格すると言うのは余程のことで、だから受かると予想した子は受かる、のです。