2019.05.24
5月24日 金 晴れ
早、初夏の様相ですね。わたしのこの時期はもちろん受検生・受験生の指導は進めながらも、次の策、戦略の構想を練ることが多い。7月初めにはみくにから過去問が出ます。わたしの仕事はその時から開始です。それまではこれまで使ってきたレジュメの検証、もちろん今年の結果を踏まえての検証ですが、そういうことに思考をめぐらしていく中から、新作の構想をねるわけです。今年すでに頭の中にあるのは、算数レジュメ集の中から「これは」という思考に資するレジュメを選んで、詳細な解説レジュメを製作するシリーズ、現在の「単位あたり量を鍛える」のさらなる本質に迫る「単位当たり量を極める」シリーズ、それから思いついたのは直前に合否を確かめる、「合否判定レジュメ」シリーズの製作です。これから具体的な試作に入ることになります。
◯被せる
かぶせる【被せる】
(動サ下一)[文]サ下二 かぶす
①上からかけて覆う。表面を覆って包む。「帽子を—せる」「本にカバーを—せる」
②浴びせかける。「頭から水を—せる」
③色・音などの上に、さらに別の色や音を加える。「赤を—せる」「音を—せる」
④他人の話が終わらないうちに話し始める。「相手の言葉に—せて反論する」
⑤罪や責任を人に負わせる。着せる。「罪を—せる」〔「かぶる」に対する他動詞〕
以上大辞林から引用
主として、①の意味に関わる。井上尚弥の試合を観た。私は、素人であるから、わからないが、観察はできる。利き腕の右腕は、直角に立てて構える。目を引いたのは、左腕の動きだった。時折、甲を上にして、被せる仕草をする。相手のパンチを払いながら、相手の拳を上から被せる、その仕草は、相手全体を見据えて、全体を被せるようにしているように見える。これは相手の動きが、よく見えているということの表れでないか、そう思った。
「被せる」というのは、例えば、風呂敷を「被せる」なら、対象の全体を見ながら、コントロールするのが普通である。「被せる」という行為には、心理的に、そういう、上から見る、客観的に見る、という意識が、働いている。
「被せる」は、全体的に見て、意識を働かせる心理作用である。
そして、わたしは、この「被せる」という意識は、何かを学び、会得する場合、さらには試験で問題を読み、判断する場合の一つの極意を表す心理ではないか、と考えている。
「被せる」ためには、対象を見なければならない。対象の形、大きさ、形状、状態などを一瞬のうちに見て取り、「被せる」、一瞬にして「被せる」。
何が重要かどうかを判断し、重要なものだけに「被せる」。「被せる」は、本を読むときの、意識の置き方をも示している。
◯国語読解のしかた
国語の文章、特に、論説文のそれは、基本的に、問いと受け、問いと答えの対応から、できている、ということを知らなければならない。国語の文章は、ひとつの法則に、支配されている。それは、抽象と具体の交互の繰り返しで、文章は、流れる、ということである。考えてもみてもください。文章というのは、読み手にいかに自分の考えを伝えるか、わからせるか、ということで、書かれる。とすれば、とにかくわかってもらうためには、そうならざるを得ない。何か、抽象的命題を問題提起すれば、それが問いとなって、その問題が、なぜ問題なのか、より具体的に、書くことになる。それが答えである。その答えがまたひとつの問いとなって、次の答えへと導かれる。抽象的な記述は、なかなか理解されにくい。そこで具体的な言い換えをすることで、わかってもらおうとする。具体的に書いても、まだわかってもらえないと心配になる。だから例を挙げる。他の文献を引用する。とにかくなんとかしてわかってもらおうとする。国語の文章というのは、本質的に、そういう構造を持っているものである。
具体的に、書いたものについては、次のような不安がある。
具体的なものに、共通するもの、を言い換える。できれば簡潔に言い換える。一言で言えればもちろん一番いい。これを抽象化するという。つまり具体的な記述は、常に、抽象化する、それが文章というものである。抽象化は、おうおうにして、自己の価値判断の形でなされる。定義の形で、自己の意見をまとめる。
それから、自己の反対する立場について、その主張するところを紹介して、「しかし」とやる。「しかし」の後には、自分の価値判断から発する、論理的な反論をする。
さて、国語の文章がこのようなものとして、国語の問いは、また別の視点を必要とする。国語本文は、著者の意見であるが、問題文は、出題者の意見である。出題者は、自分の理解したことを前提に問題を作る。筆者の本意など関係ない。出題者は出題者の理解で、問題を作っている。だから、私たちは、国語の問題を解くときは、問題文の意味、つまり、出題者の考えた意味を読み取り、問いに答えなければならない。
さて、それでは、出題者はどのように、問題を作っているのか。
わたしが出題者なら、抽象的な記述について、具体的に、言い換えたところを尋ねる、であろう。また、具体的な記述については、抽象的に言い換えたところを尋ねるであろう、さらに、筆者の、価値判断をした部分、つまり、定義として、まとめたところを「突く」問いを作るであろう。さらに、「しかし」の後に書かれている筆者の意見から、その前提となる価値を問うであろう。
つまり、出題者としても、筆者の主張と全く無関係に、自由に問題を作れるわけではない。ただ出題者には、筆者の解釈を許す範囲における、自由な裁量が認められている。だから、著者が、自分の書いた文章が試験問題となり、自分で解いたとき、出題者の予定した正解と一致しないという珍事が起きることになる。ただ出題者が裁量逸脱をする危険は十分にある。この意味では、国語に正解はない。ただ私たちは、出題者の問いの相互の比較から、出題者の理解する本文の理解を読み取らなけれならない。国語を誤解する人は、本文の意味の取り方、理解の仕方は、人それぞれであり、国語の問題に正解などない、と言うのである。しかし、それは違う。私たちは、出題者の理解した、出題者の見解について、出題者が作った問いに答えようとしているだけなのである。出題者が、選抜試験のために、作為的に創作した「問い」に答えるだけなのです。勘違いしてはなはならない。筆者が、本当に言ってることを、出題者が、想定して、あなたが、筆者の言うことを理解しているのかを問うているわけではない。
問題は、出題者の勝手な創作世界である。
それから、問いに答えるとは、形式的には、問いにオーム返しに答えることである。「何をさしているか」と問われれば、「〇〇をさしている」と答える。あるいは「〇〇」と答える。「どうしてか」という問いには、具体的な答えが求められているのだから、「〇〇だから」と答える。「どういうことか」には、「〇〇こと」と答える。「何を」には「〇〇を」である。
国語の答えは、自分で考えるのではなくて、文中から探す、のである。出題者は、あなたの考える答えを訊いているのではなく、文中の言い換えた部分は、どこにあるのか、を訊いているのである。文中のどこにあるのか。例えば、「傍線部」についての問いの答えは、通常は、それより前の部分にある。なぜなら、傍線は、抽象部分に引かれれば、その前にある具体的に述べた部分を答えとして作られているから、つまり、抽象部分は具体的記述を抽象化したものだから、具体的部分を答えとして作っている。具体的部分について引かれれば、答えはその前にある抽象的部分を答えとして、作っている。
筆者の考えは、抽象的に定義した記述に集約されている。筆者の、本音は、「しかし」の後に書かれている。また、出題者の理解する筆者の考えは、各設問の中の、つまり設問の各肢の中にヒントとして示されている。設問の選択肢の表現から、出題者の考える、筆者の価値観を推測するのである。そして答えは、それを基準にして考える。
選択肢問題の技術的解法
①選択肢どうしに、完全に「相反する」内容があるときは、そのどちらかが、正解である。
②選択肢の中に、似た表現、類似語、同義語で言い換えた選択肢があるときは、それらの選択肢のどれかが、正解である。なぜなら、出題者は、正解を見ながら、偽の選択肢を作っているからである。例えば、5つの選択肢のうち、3つに、類似語があれば、他の2の肢は捨てる。
出題者は、とにかく正解の選択肢をまず作って、そこから誤りの選択肢をでっち上げていくから、正解肢に微妙に似せて、非なるものを作る。とにかく受験生を如何に騙すかが勝負であるから、本家に似せた、偽物を本物らしく作るのである。もっもらしくいかにも本当のように書く。出題者は、詐欺師である。あなたたちは、詐欺師に騙される。ほとんど似た選択肢が、2つに絞られる。この時、本文に戻って、抽象の答えは直前の具体の部分に、具体の答えは直前の抽象の部分にある、という原則を思い出して、もう一度探して欲しい。そうすると、必ず、正解肢と符合する言葉が見つかる。
③多数決の原則
例えば、5つの選択肢のうち、3つに同じ表現があるなら、正解肢は、その3つの中にある。次に、その3つの選択肢のどれが正解かを選ぶには、全ての、つまり5つの選択肢の中の、共通に用いられている言葉があれば、それらを含む選択肢が答えの可能性が高い。だから、最初に選んだ3肢の中に、共通語を含む肢があれば、その肢が正解肢の可能性が高い。
以上の解法は、すべて出題者が選択肢を作るときの心理を根拠にしている。つまり、出題者は詐欺師であり、あなたたちを騙して、つまり本当らしい嘘をついて、あなたたちに、誤った選択肢を選ばせるという誤判断を誘導しようとしているのである。だから、出題者は、正解肢を常に頭に置きながら、贋作を作る。だからわたしたちは出題者の気持ちになって、選択肢の真贋鑑定をする。それが賢い方法だからである。
さて、いいですか、国語の文章というのは、抽象と具体の織りなすもの、そこから問いは、抽象を訊き、具象を答えとするか、具体を訊き、抽象を答えとするかのどちらかだということ、ここのところを弁えて、文章を読むときは、文を流れる意思を追う、文の流れは文脈を形成する。
あと一つ言い残したことがある。
これは文脈にも関係することであるが、文は、応答の連続したもの、である。つまり、第1文が問い、第2文が答え、第2文が問い、第3文が答え、第3文が問い、・・・・・・、のように連鎖している。第1文を読んだ人が、通常持つであろう疑問に答えるのが第2文、その第2文からまたまた疑問が生まれて、それに答えるのが第3文.その第3文からまたまた疑問が生まれて、と続くのである。つまり、読み進めるのは、疑問を解消するためである。それは、著者の意図、意思を悟る行為であり、それが文脈を追うということの意味である。
機会がありましたら、実際に、問題を使って、解き明かしたいですね。著作権の問題がありますので、問題は使いにくいですけど。
竹の会のみなさんは、課題に、「読解の素」と、「新読解研究」というレジュメがありますから、それで勉強してください。それらのレジュメが今私が述べたことそのままだということがわかりますよ。わたしが述べたことを検証してみてくださいね。