2019.06.03
6月3日 月 晴れ
第1章 あっ、しまった❗️
これは、わたしの高校時代の担任から聞いた話です。だから伝聞です。伝聞という言葉は、刑事訴訟法で出てきます。証拠価値の問題です。例えば、甲が、「わたしはAが物を盗んだ、と言ったのを聞いた」と証言した場合、Aの話しは、伝聞です。刑事訴訟法の場合、憲法上もそうですが、反対尋問をする機会を与えないと、証拠価値がない、とされています。わたしは大学の頃、刑訴が好きで、よく勉強しました。特に、平野龍一の刑事訴訟法は面白いと思いました。その後、東大の松尾刑訴、中大の渥美刑訴、立教の田宮刑訴などたくさんの本を読みました。今だから言えることは、専門書というのは、どんなに名著と言われても、読まない方がいいのではないか、薄い概説書をサッと読んだら、ひたすら問いを立てて、耳学問するのが、一番いいのではないか、あ、国家試験を受けるなら、の話しです。
高2の担任は、古文が専門で、有名だったらしい。高1の担任が英語の先生で、その先生が、感心したように、そう言っていたのを覚えています。その古文の先生は、数年後に高校を辞めて、関西にある夕陽丘予備校の講師になりました。何か事情があったのでしょうね。その先生が、教え子の思い出話しとして、話してくれた話しがずっと頭から離れません。先生は、高2の教え子が、病気になり、入院したので、お見舞いに行った、そうです。その教え子が、危篤となり、駆けつけた。息を引き取るとき、最後に発した言葉が、「あっ、しまった!」だったのだそうです。担任は、その真意を考えたが、わからない、と言ってました。さて、病気は、自分ではどうにもならないことだし、なんだろう。人生を中途離脱したことを「しまった!」と思わずいったのか。
さて、本題です。あなたたちは、人生を強制離脱させられることはないと高をくくっているのでしょうか。しかし、人生は一寸先は闇というのが、先人、いや歴史の教えることではなかったでしょうか。もしあなたたちの残された人生があと僅かだとしたら、あなたたちは何をやっておきたかったでしょうか。それでも部活ですか、習い事ですか、ゲームですか、寝っ転がってテレビを観ることですか、友だちと連むことですか、何もしないでいることですか。あなたたちは、最期のとき、なにを、「しまった!」言うのでしょうか。これだけはやっておきたかったことではないでしょうか。わたしなら、母さんが、元気なときに、もっと傍にいてやりたかった、それが今でも心残りです。そう考えると、なんだか見えてくるような気がする。もしかしたら、母に「ありがとう」と言ってないままに息を引き取ることだったかもしれませんね。
第2章 どんな本でもいい。一つに決めたら、それだけを読め!
もし、勉強にコツというものがあるとすれば、一つだけ思い当たるものがある。世の中には、優れた著者の優れた本、受験なら参考書というものがある。才能のある人、頭のいい人、素晴らしい大学を優秀な成績で出た人、大学は一流というわけではないが、優れた思考の持ち主という人もいる。予備校の先生なんかは、研究熱心で、いい本、参考書もたくさん出している。だから世の中には、もういい参考書が選び放題だ。勉強する人には、これほど恵まれた時代はない。何を選ぶかは自由だが、選ぶに際しても、レビューが溢れているから、きっと間違うことなく、目的に即したものが、手に入るであろう。
さてである。問題はその先にある。例えば、あなたが、英語の参考書として、原仙作の「英文標準問題精講」を選んだとする。それで最初から読み始める。3か月ほど読んだところで、東大に合格した先輩が、使っていたという英語の参考書を紹介される。調べると多くの人が薦めている。あなたは考える。今時、原の英標なんか使っているのは、自分だけではないか。いい参考書なら効果も違う。それに内容見たら、すごく整理されていて、読みやすい。こんなことを考える。そこで、変えようと決心をする。新しい参考書は、ワクワクさせてくれて面白い。夢中で進めていたら、今度は、英語のよくできる友達が、使っている参考書が目に入る。そうか、ヤツはこれでできたのか、と感心する。これはもう迷うことはないと、今度をその参考書を買う。いいですか。もし、最初に決めた原仙作をやっていたら、とっくに終わり、何回目かの解き直しを終えていたかもしれないのです。どんなにいい参考書でも、ものにするには、解き直し7回以上として何か月かかかる。このことは、パスカルの「方法序説」にも説かれている。とにかく一旦決めたら、後からどんなにいいものが出てきても最初に決めたもので貫き通す、これが、鉄則である。そりゃー、いろいろ後から不備や欠陥も出てくる、見えてくるでしょう。しかし、足りなければ、補う、それが一番です。それにものの本当の良さなんてものは、徹底して使い倒して初めてわかるものです。ものの良さがたちまちわかるなんてことはない。
酷い参考書、結構、とにかく最初に決めたことをやり抜くことに、価値がある。いやものの価値とは、使い倒して初めてわかるとしたら、もう、最初に決めたものにかけるしかない。
第3章 プロの指導
かつて、自分はプロだ、と、ことさらに意識していた頃もありました。しかし、今はもう淡々とやるべきことをやっている、そういう心境です。
私は、合格する、という「際(きわ)」を見切った、と思っています。例えば、桜修館なら合格するには、ここまでの力がいる、そして確実に合格を獲るためには、何をすればいいか、と考える。今の私は、長年培ってきた、危険を察知する勘は、鋭敏にして、正鵠を得ている。よくある、母親主導の受験支配は、100%失敗する。母親の情報力はすごい。学校説明会、ママ友との情報交換などで、細かい情報もある。だから私などより余程知っている。ただ彼女たちは、実際に、過去問を解いたことがない。だから素人、ど素人なのである。わたしから言わせれば、情報で欲しいのは、合格最低点だけである。母親たちが、傾向がどうだなどと言っているのを聞くと、そんなもの過去問解けばわかるでしょ、とツッコミたくなる。実際に解いたらもっと細かなこと、いやその出題の背景、意図まで読み取れる。それでわたしにいろいろ指示をしてくる母親もいる。子どもに勝手に過去問解かせて、わたしには何も教えない。つまり、私に仕事をさせない。これが、素人のやることです。母親は、自分の方が、わかっている、と勘違いしているのです。
私が、過去問をどのように使うか。詳しくは、話せない。ただ母親が、早くから志望校の過去問を解かせるの愚だけは、絶対にやってはならないこととして、少なくとも、竹の会で、受験するのであれば、注意しておきたい。実は、今年の高校受験で、都立青山を受験する、となった時、すでに過去問を家で、何年分か、解いてたと、聞いて愕然としたことを覚えている。竹の会には、独自問題に移行した時からの過去問はトップ都立なら全てそろっているけれど、青山は一部抜けていた。それでネットで探して、高かったけど、買ったりもした。「際」を読み取るには、どうしても過去問がいる。わたしが、その生徒の当日取るであろう得点を正確に予測できるのは、過去問を私のやり方で、精妙に使うからである。誰にも教えられない、私の方法がある。
子どもたちに、合格する力をつける、これが私の仕事です。これをプロのみのなし得る技とすれば、わたしはプロと思います。ただ塾の先生がみんなプロではない。大手塾は、学生講師がほとんどです。彼らは小遣い稼ぎのアルバイトであり、決してプロではない。また学生アルバイトでない、つまり専業の先生が、みなプロと言えるのかと言えば消極です。市販のテキストを利用する塾は、商売本位の塾と思います。今は、塾専用教材というものが、塾を対象に販売されております。そのテキストには、自分の塾の名称を印刷できるようになっており、価格も自由につけることができるのです。竹の会では、テキストを使うことがあっても原則費用はもらいません。指導として必要と判断した限りは指導の手段であり、竹の会の指導の都合で使うからです。塾によっては、かなり高価に設定して、テキスト代と称して、別に取るところも多いようですが、これは親御さんにはかなりの負担と思います。
竹の会の費用について、中には、高いという向きもあるようですが、わたしはそうは思いません。そもそも竹の会の費用は、もう二十年以上固定された価格です。テキスト代もないですし、冷房とか暖房とか、何かと取るところばかりのようですが、竹の会ではそんなものはありません。
わたしは、レジュメの製作印刷コスト及び内容の付加価値、さらに指導に対する対価をいただいているつもりです。レジュメは、一回のみの費用を想定したものです。わたしの判断で、同じレジュメ集を二度使うことはありますが、一冊の製作費用は、高価なカラーインクを何本も使いますから、1000円前後はかかっているかと思います。中には、何冊か復習用にと請求してくる子もいますが、欲しいだけ無料配布しているのではありません。適性レジュメは、一回配布が原則ですので、大切にしてください。竹の会の費用を高いと判断される方は、大手の費用、他塾の費用を知らないのでしょう。また竹の会の「指導」の対価という認識もあまり高くないのかもしれません。要するに、単純に、学生アルバイト講師の塾と値段だけ比べて欲しくありません。費用の高い安いは、値段だけで決まるものではありません。飽くまでも、何に対して支払われるか、です。竹の会の指導が費用に見合うのか、そういうことではないですか。
わたしは、今では、自分でプロと言うことは、何かの文脈で言うことはあっても、特に、プロを売りにすることはない。ただ不思議なのは、最近は、よくいろいろな方から、「プロの方」とか、「プロの先生」とか、言われることが多くなりました。
そもそもプロが、どんなものかも、正確な定義はないように思います。塾という職業についているからプロと言うのなら、それもプロでしょう。そうなるとプロというだけで、専門家とは、言いにくい。塾を始めたばかりでもプロか、ということになる。経験といっても、密度も千差万別である。実績、創作したもの、指導術、事情通などプロとしての実質を満たす人をプロと呼ぶにしても、誰がその基準を決めて、そう判断をするか、という問題は残される。自分でプロと言うのは、自信を鼓舞するということなのであろうが、烏滸がましさは、残る。
人が自然発生的に、「プロの先生」と発する、言われる、そういう域に達すれば、問題ないですね。
第4章 アヒルのままでいいのか
いつまでも飛べないアヒルのままでいいのか。いつかは大空に飛び立ち、未来を駆け巡る、その日を夢見ていたのでは、なかったか。
竹の会には、最近小4になる直前の小3も入会する例も出てきた。小4早期もそうだが、まだ右も左もわからないアヒルです。わたしはアヒルたちと過ごして、アヒルを調教する、調教師のような気分です。それはピーチクパーチクと騒がしいものです。自分が何をしているのか、わかっていない。別府に、ラクテンチという遊園地のような、動物園のような、ところがあります。あそこで有名なのが、アヒル競争です。アヒルが8羽で、徒競走を競う。客は、一等になりそうなアヒルにカネをかける。100円か、200円だ。当てればお菓子が景品である。あれはわたしは幼いころから見てきたので、仕組みが、わかっている。客が、一番少なく買ったアヒルが、一等になる。調教師はアヒルに何かサインを送っているはずだが、それがわからない。一番の人気薄を狙うのがコツである。だから最後に買う。客が何を買ったかは、売り子の箱の中の札の山でわかる。ところが、他の客も知っていて、みんな最後に買おうとする。最後争いで負けることもある。アヒルの話しから横道に逸れて申し訳ない。
言いたかったのは、この調教されるアヒルのままではいけないということだ。アヒルたちは、言われたことを忠実に再現するけれど、自らの意思で飛翔することはない。
塾の先生というのは、アヒルを調教して、アヒルたちが、いつか自分の力で、飛翔する、飛び立つことを願って、見守る、そういう仕事なのかな、と思います。そうなんです。最後は、見守る、塾の先生のできることは、実は最後はなくなる。子どもたちが、飛び立つには、自らの意思と力しかない。だから見守るのも仕事です。わたしのできることをやれば、あとは見守るしかない。大空に飛び立つ、その姿をいつまでも見守っている。これも大切な仕事です。
親が、子どもを見守る。そのことが、子どもにどれだけ安らぎをもたらすか、考えて見てください。子どもたちは、見守られている、そのことが嬉しいのです。
第5章 選択と排除 可能性を残す選択
かつて確か平成25年の秋であったか、竹の会で、入会試験を数人が受けたことがあった。あのとき、合格した男子の父親が、竹の会と栄光ゼミナールを天秤にかけて、結局栄光に行った、ということがありました。あの時、あの父親は、「栄光の若い男の先生とうちの子は馬が合う」ということを言っていました。それでその先生が別の栄光に変わったので、その別の栄光に変えるか、竹の会にするか、で迷っている、だからもう少し待ってほしい、と正直に理由を話しました。
あの時、大手に行く子、親の選択の基準というものの一端を見た気がしました。そう言えば、エナにいたという方が、エナの若い先生は、とても優しい、と言ってました。大手の講師は、学生ですが、大手でアルバイトするというのは、いい社会勉強になると思います。五月蝿い親たちと日常に接するのは大変なことだと思います。余談ですが、あの年に入会した子たちが受検したのは、28年になります。小石川、白鷗、桜修館、富士に合格者が出ております。あの時、栄光に行った子は、小石川志望でしたか、うまくいったかは、もちろんわかりません。
一般に、一方の選択は、他方の排除を意味します。が、時として、人間は、保険をかける。よくやる滑止めというのも保険ですが、あの保険は適用率が高いと思います。今年の青山合格者の中学では、やはり青山を受けた女子がいたと聞いておりますが、落ちたそうで、滑り止めの私立に行ったのでしょう。都立受験では、上の都立ほど倍率も高く、2倍前後ありますから、100人以上が、落ちているわけです。高校受験というのは、人生の分岐点です。その後の人生を大きく左右します。保険をかけるというが、保険を使うことになる、つまり、望まぬ私立に行くしかない、というのは、辛いものです。竹の会でも去年そういう選択がありました。部活も受験も母親主導でわたしの指導が、資料提供だけになった。過去問は、結局家でやる、結果のみ報告で、拱手傍観とはこのことか。
私は、滑り止めの私立に関心はない。ここで悩む母親もいたけれどナンセンスである。私は合格以外は考えていない。高校入試だけは必ず合格させる、それが私のプロの矜持といえば、そうなる。合格のためのあらゆる手を惜しまない。だから私には排除された選択の復活の可能性などあり得ない。可能性を残す人は、慎重で用心深い人なのであろうと思うけど、可能性を残す人はたいてい失敗し、可能性に依存することになるのがオチである。
背水の陣というが、可能性を残すのは、心に緩み、隙を作り、可能性の方を選択することになる。退路を断つ。これは、試験、競争に、タフな精神、これしかないと「必死」になる心を導き出す、魔法となるであろう。退路を断つから、合格できた、可能性を残したから失敗した。これは、試験、競争というものの、微妙な心理がもたらす帰趨を表現したものではないか。
ここには、試験で大切なことが示されている、ように思えてしかたない。気を緩めるな!
試験で失敗するのは、したのは、気を緩めたからだ。気を緩める、これを隙をという。古来、剣の勝負では、僅かな気の緩み、「勝った」と思った瞬間の気の緩み、が勝敗を決したではないか。
試験直前、大晦日に寛ぐ、紅白を観る、お正月を楽しむ、クリスマスに騒ぐ、みな気の緩みの導火線となる。気を抜くな!気を緩めるな!
第6章 退塾の事情
竹の会をどうして退塾したのか?
不思議なほど一致した共通点がある。みな勉強がうまくいってないのだ。なぜうまくいかなかったのか。事情は様々である。が、能力的に足りない、というのは、本質的にある。能力的な制約のゆえに、集中力が続かないとか、理解できないとか、さらにはどうしても勉強に関心が持てないとかいったことも出てくる。どうにもならない事情もある。やめた子の親の中には、自分の子が原因と言いたくないのか、塾側に問題があるかのような言い方をしている人がいるが、それは真実ではない。親というのは、悪いのは、塾だったとして、正当化するものだ。真実は決してそんなところにはない。 嘘を付くのは、子どもだけではない。子どもの嘘は真実を隠すための嘘であるが、大人の嘘は、世間を意識した自己の正当化である。
本当の理由は、子どもの勉強が行き詰まっていただけです。行き詰まった原因はさまざまですが、能力の問題はもちろんあります。さらに能力はあっても、本人の承認されたいという意思が、満たされない場合に、子どもは投げやりになるものです。学問というのは、謙虚な姿勢が、大切です。素直に学ぶという姿勢が、欠けているのは、やはり家庭での母親なり、父親なりの姿勢が、影響していると考えるしかない。中学生だと、部活で勉強しなくなるというのが一番多いけど、能力がついていかないというのももちろんあります。スマホをいつもいじっていて、心が勉強にあらず、部活だけはなぜか熱心で休まない、塾ではもっぱら寝る、これは、末期ですね。
小学生だと、親が忙しくて、放置していると、ダメになりますね。子どもというのは、親に、特に母親に見ていてほしい、それは母親が自己を承認してくれていることが、心の安定をもたらすからですが、母親の承認をいつも確かめているのが子どもです。課題なんか、親が見てないと、やらないのは、構わない親に対する不安、放置された感ですね、それと子どもにもともと備わる怠惰癖ですね。
勉強しない、勉強に行き詰まる、これが、退塾せざるを得ない、真実の理由です。あと経済的事情というのがありますが、これはしかたなですね。