2019.11.06
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対象 小3、小4
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11月のA、Bの最終指導日まで。
第27章 竹の会に入るとなぜ親も子も魅入られるのかの研究
なぜ竹の会に入り、指導を受ける生活リズムに入ると、子どもたちは生き生きとし、親御さんたちは、心酔してしまうのか。
竹の会の指導を受けるようになると、親御さんたちは、竹の会の指導というものに感動し、驚きを隠さない。機会あるごとに、竹の会への最大の賛辞と感謝の言葉を惜しまなかった。
それまで竹の会を先送りしていたことを悔やむ言葉も多い。それは小5以降の入会者に特に顕著な事実である。「もっと早く来ていればよかった」、この言葉を、わたしは何度聞いてきたことか。皆んなが皆んな判で押したように同じことを言った。中には、もう何年も前から竹の会を知っていたけど、大手に行き、結局竹の会に来た、という人もそれなりにいた。そういう人の後悔の言葉は、なかなか成績が伸びない、受検も歯が立たない、そういう現実を踏まえてのことでもあった。そうなのである。遅くに来れば遅いほど伸びない、のである。もちろんこれは一般論であって、遅くに来たけれど伸びた、合格したという例はもちろんある。ただこれには、二つの前提がある。知能が高いこと、類稀なる努力をしたこと、である。そういう子でもない限り、成功の可能性は、遅ければ遅くなるほど、小さくなる。また成功した親子が、口を揃えた言ったのは、「竹の会に出会って、本当に良かった。」という言葉であった。成功した親子は、「竹の会だから、合格できた、大手はもちろん他の塾に行ってたら、どうなっていたかわからない」と言う思いを当然のこととして語っていた、と思う。
遅くに来た人たちは、まず竹の会に早くから来た子たちの「できる」ことに圧倒される。自分が1年、2年大手にいたということが、何の意味もなしてないことを知る。「計算はできる」と言いながら、実際やらせてみるとまるでできない。割合も「わかる」というだけでまともに理解している子はほとんどいなかった。親たちは、呆れて唖然とするばかりである。それでもう取り返しのつかなくなったことは、わかるのか、ため息とこれからのことを考えてか、困惑した表情を隠さない。
それではどのくらい早くていいのか。竹の会では、平成28年には、小4の2月に募集した。が、ほとんど申し込みがなかったことがある。東京の、公立狙いの親たちは、早くて小5後半から、小6になってからという親も相当いた。だから小4からなどというのは、本当に少数派であった。自分の子ができればできる子ほど遅いのが親の傾向であった。
それに合わせて竹の会も最初は小6募集なんかもやった。しかし、小5からでも間に合わない、という経験値を重ねると、これは、もう小4どころか、小3から、さらには、小2から訓練したほうがいい、ということにもなる。
竹の会の子たちは、もう徹底して計算を鍛えられる。竹の会で計算ができないなどという子はいない。小2でも3か月もすれば、もう中学受験の難関校の計算問題を解いてしまう。竹の会を訳あって退塾を余儀なくした子でも、一年在籍した子なら、他塾では、トップになる、こともわかっている。竹の会の卒業生が、卒業後学力を伸ばし、中学、高校でトップクラスの成績になることは、これまで何回も報告されている。
あなたたちは、おそらく本物を知らない。本物の塾というものを知らない。よく竹の会に入会試験を受けに来た親御さんが、指導室での私の指導風景を見学する機会があるのですが、まあ、45分ほどですが、私の指導の様子を熱心に見ていらっしゃるわけです。小学生が、次々に、レジュメを持って入ってくる。学年は小4だったり、小5だったり、はたまた中3だったり中1だったり、また同じ学年でもやってることは皆違うからその対応もまたみな違う。私の指導の光景を見たことのある親御さは、とにかく驚いて「先生、大変ですね」と目を丸くしてため息を隠さない。わたしの真似は、まずできる人などいない。一人一人に対する対応は、かつては、職人芸だとか、名人芸、達人の技などと形容されたこともありましたが、私の対応は、35年に及ぶ経験、研究、創作、指導が融合して完成した、神の技であり、わたしの中に培われた指導勘こそが、神対応の正体です。一朝一夕にはなし得ない、指導の技術です。竹の会に入って、私の指導を受けて見て、初めて本物を知ったという親御さんは多い。塾というものが、何なのか、を初めてわかったと感動を隠さない親御さんも少なからずいた。塾とは、こういうものだったのかと、心底驚きを隠さない。それまでの塾が何であったのか、意味のないこと、無駄なことをしたことを悟り、呆然とする。
竹の会とは、いつもそういう知られ方をしてきたから、わたしはいつもの展開なので、なんということもない。
竹の会は、現在いる子どもたちの親御さんたちに信頼され、支えられて生きながらえている塾です。親御さんたちは納得されている。わたしの等身大の判断を時には我が子のことと落胆もされたことでしょうが、多くの親御さんが子どもさんの学力の確実な上昇に驚きと感謝の念を持たれていたことはわたしにひしひしと伝わってまいります。
竹の会を何も知らない人たちが、竹の会を批判するのは、わたしにどうでもいいことです。そんなのは無視するだけです。現にいる会員の皆さんが、感動と感謝の渦中にあるならわたしはそれでいいのです。このブログは、竹の会に関心を持たれて入会される人のために書いております。わたしは、一般に向けて、私の意見を書いているわけではありません。竹の会に入りたいという人のために書いております。勘違いされた人がいることは知っておりますが、また批判するなら、入る気もないのなら、読まなければいいだけのことではないか、それまでのことだ、と思うのですが、不可解な人たちがいるものです。
竹の会を、塾の形態だけで理解しようというのは、無理です。竹の会というのは、わたしの塾です。私なしに竹の会という塾を語ることはできないのです。わたしが、追い求めた、究極の指導の形を、実現する場所が、竹の会であるに過ぎないのです。だれかが、「近くに、竹の会のような塾ができたら」と言うことを言いましたが、そのようなことはあり得ないのです。なぜなら、形だけ真似しても竹の会ではないからです。私が35年の歳月をかけて、作り出してきた、レジュメを、始めとする様々な教材の形、わたしの指導技術の、粋などだれも真似などできるはずがないからです。竹の会は阿部雄彦と表裏一体のものです。塾の形態、方法などから竹の会と類似性を求めても意味のないことなのです。
形だけ捉えて竹の会と同じなどと言っても意味のないことです。かつて竹の会を自らの事情で退塾した親が、「竹の会のような塾」と検索して塾を探したということですが、結局そんなものあるはずがないのです。竹の会は、退塾して他の塾に行ったときに、その価値を知る、また他塾をやめて竹の会に来た時にその価値がわかる、そういう塾です。
それまでは決して竹の会の本当のことなんかわかりません。
もし竹の会に出会があって、私の指導を受ける機会があれば、これを僥倖と言わずして何と言おうか。あなたたちの息子、娘は、本当に幸運であったということをあなたたちは、知ることになる。竹の会に入って私の指導を受けた途端にたちまち宗旨替えすることになる。入会後たちまち感謝の言葉を惜しまない親御さんたちをわたしはそれこそ例外なく目の当たりにしてきたのです。わたしは嘘偽りを言っているのではない。ただ事実をそのまままに伝えているだけです。