2019.11.16
第29章 試験では判断が既にして勝敗を分けていることがよくある
その一、「引く」と負ける
大相撲では、「引く」のは、ダメとされている。普通に考えたら、相手が、押し込んでくるのに、引けば押し込まれるのは理の当然である。確かに、引き技というのはある。引き落としというのは、相手の押しの力を利用して、つまり引くことによって、体勢を崩し、前に引き倒す。しかし、これとても基本「引く」という動き、精神において、よろしくないとされている。もし、相手の押す力が予想外に強く、出足もよければ、引いたことがそのまま自分が押し出される力となる。
わたしが、よく習い事、稽古事、スポーツ、部活に批判的なのは、本質的に、これらの行為が、「引く」ことを本質とするからである。もちろん「引く」というのは、勉強、引いては試験の成功を軸としての「引く」行動を指している。
落ちる人というのは、基本「引き算」の発想から抜けられない。
試験は、「足し算」の思考でなければ勝てない。
その二、頑張るとは、どういうことか
人は頑張れたから乗り越えられるのか
テレビで、林修先生が、面白いことを言っておりました。
頑張ったら受かった!
頑張っても落ちた!
頑張らなかったのに受かった!
頑張らなかったから落ちた!
頑張らなかった人はもう一生頑張ることはない。頑張ったから、次も頑張れる、と。
頑張っても落ちた人は、次も頑張れる。
林先生は、ひと月頑張れない人は、もうずっと頑張れない、と断じておりましたが、そうかもしれません。頑張らなかったのに受かった人は、もうずっと頑張ることはないでしょう。頑張らなくて落ちた人が、頑張ることは永遠にないでしょう。
頑張ったが落ちた人は、次にはもっと頑張るはずです。だから、「頑張る」ということには、未来に頑張れるかどうかを担保する意味があるのです。
その三、物か、心か
心は見えない、だから人は言葉で心を語る、人は言葉で動かされる。意識というのは、言葉で認識し、言葉を組み立てることによって意味を作りあげる。だから人は言葉によっていくらでも騙される。マインドコントロールされる。先入観念を植え付けられる。魔法も言葉でかけられる。呪文はことばである。不可解な呪文は別に意味なんかいらない。人が信じればそれでいいのである。現代人は、言葉で動かされる。宗教も言葉で人の心にとり憑く。
物は見える。だから言葉は要らないのか。いや物は語らないから、言葉でいくらでも嘘で飾ることができる。物は、本物、偽物がある。本物ほど言葉を必要としない。偽物は語らなければ疑われる。安っぽいものも語ることによって本物らしく見える。だから偽物ほど多くを語る。人間も語り過ぎる人間は信用しない方がいい。
その四 集中するとは、姿勢を維持することである
集中していない子は、姿勢が悪い。集中しているときの人間とは、一定の姿勢で思索に没頭している。さて、ここで親は子どもが勉強する時に姿勢を煩く言うべきか、である。わからない。ただ少なくとも言えることはある。姿勢が悪い子が、だらだら勉強しているのを見ているとどうも集中しているようには見えない。姿勢のいい子が、勉強しているのを見ているときちんと正面から勉強に向き合っているな、と感じる。
こうして、一定の姿勢を保って勉強に立ち向かえる子は、伸びる、そう実感する。
その五 悪字は一生の損失
「なんと書いてあるのか、読めない」、これって、いろいろな意味でまずいでしょ。そもそも試験を受けるというのは、普通は、紙に字を書く、ことです。答案というのは、字で出題者の求める答えを書いたものです。ここでハネられてどうするのですか。書いた字が読めない子というのは、自分の書いた字を読み間違ってことがよくあります。計算なんかも書いた字を読み間違い、間違うということもよくあります。さらに、ノートにまとめるとかの勉強の基本もできないわけですから、その損失は、かなりのものです。
実際に、指導に携わってきて思うのは、多くの子が、読めない字を書くという現実です。よく公文にやっていると字が汚い子が多いように思うのですが、これは、親がドリルさえやってくれれば、字など構わないからでしょ。東京だとほとんどが共稼ぎですから、丁寧に字を書くように監視できない、ということもあるのかもしれません。多くの親御さんは、早期教育などと熱心ですが、あるいは習い事、稽古事、スポーツなど子どものためにいろいろとやってあげているのかと思いますが、どうも字をつきっきりで見てやる、などということには、ほとんど関心を、示さない、これはどうしたものでしょうか。
その六 がまん【我慢】することを躾る
[一]我慢とは
感情や欲望のままに行動するのを抑え堪え忍ぶこと。辛抱すること。
[二]我慢の別の意味
①〘仏〙七慢の一。実際には存在しない我が自己の中心にあると考え、それを根拠として行動する思い上がった心。おごり高ぶり。
②我意を通すこと。わがまま。強情。
③〔彫るときに痛みを我慢することから〕入れ墨。
我慢を疎外する親の愚行
甘やかし、過保護は、子のためならず。
甘やかしというのは、子の我慢する芽を摘む行為にほかならない。甘えというのは、全面的な依存の下地がある行為である。だから、乳児期の、つまり幼児には、むしろ必須である。一説によると、この甘える時期に思い切り甘やかせることが、長じて情緒を安定させると言われている。問題は、この幼児扱いをいつまでも続けることの弊害である。子どもというのは、早くに親への依存を断ち切り独立独歩を確立させるのが望ましいことは言うまでもない。昨今のペット依存症の大人たちが見せる、底抜けの幼児扱いは、人間の子には、害悪である。甘やかしというのほ、子の独立を阻害するけれど、過保護というのは、本来子がやるべきことを親が代わってやるところに子の独立を阻害する元凶がある。よく親の頭にあるのは、「危ない」である。小3だから一人で電車で通わせるのは心配だ、これはまだわかる。中には、小4の子について、この論理で子の行動を制限した母親もいた。これは子に「あなたはまだ一人では無理よ」、「あなたはまだ信頼できない」と言っているようなものである。こういう姿勢の母親はかなり問題でこの論理を普段の子育てで頻繁に駆使するから、こういう母親の子どもというのは、臆病で、すぐ「疲れた」などと過度に気を遣う親の気持ちを知っていて、心配させるような言動を取りがちです。これは子の甘え、依存心の現れであり、その意味では、過心配症の母親の作った作品であることは明確です。困ったことに、こういう母親は自分がそのような子にしたという自覚がないものだから、子が消去的に振る舞えばすぐに同調して、自分の意思を子の意思として、擬制してしまうのです。「うちの子は、内向的で」などと言うけれど、なに、それは自分がそのように育てただけのことであり、始末が悪いのは、本人はそうは思っていないことですね。
竹の会に通わせるとして、かつては世田谷区あたりに住んでいる人だと、たいてい、困難だと思うようです。しかし、案ずるより産むが易し、とはよく言ったもので、結局住めば都となる。渋谷までの旅は、かわいい子には旅をさせよ、の諺通りで、三か月、六か月と通えば子どもは、ずいぶんと逞しくなる、タフになる。心配だからと、籠の鳥にしてた子はますます繊細になり、神経質になり、内向的なままに、社会性を見事に欠落した欠陥児童として、母親の目論見通りに育っていく。
竹の会の通塾圏
竹の会は23区を通塾圏として想定しております。最初のころは、世田谷区だともう「遠い」という人もいました。特に、小学低学年だとさらに親のトーンは落ちましたね。小3だと親も引き気味で通塾には消極的です。それでもなんとか通わせようという親は通う練習なんかをしていたみたいです。中には、7時間の指導に耐えられないのではないか、と心配して最初の3か月は、3時間だけにしてもらえないか、と申し出る母親もいました。しかし、案ずるより産むが易しです。今は、そんな親はいません。通う練習をする親子はいるようですが、最初から小学低学年でももう当たり前のように勉強していますね。
竹の会というのは、もう他の区から通ってくるのが、当たり前みたいになっていて、渋谷が地元なのに渋谷区の子が一人いるかいないか、みたいな状態で、渋谷では知られてないようですね。かつて竹の会出身の戸山の生徒と九段の説明会に合わせてビラを配ったことがありましたが、「竹の会、知らないな」と言う人に、その戸山生が、「いや、ネットではかなり有名ですよ」と返していましたが、まあ、知名度は限りなくない、そう思いますね。今は、ビラなんかも、やめましたし、広告はなにもしてない。だから知らない人は多いと思います。
竹の会に出会うのは、たまたまネットでヒットしてというのがほとんどだと思います。竹の会に偶然出会って半信半疑から七信三疑くらいに変わり入会してみて、竹の会に出会った幸運に感謝する、という方がほとんどです。遠くの区から通われてくるというのは、東京は広くても、納得できる塾というのが、結局ない、見つけられないという人がほとんどなのだろうということです。
竹の会というのは、塾とは何かを追究して、塾の本来の形を追い求めてきたところから、辿り着いた、塾の究極の姿として、理想の塾を実現するところです。竹の会は、様々な子どもとのやりとりを通して、いや積み重ねる中から、本物の塾とは何か、どうあるべきか、を追い求める中から次第に出来上がってきました。
竹の会は東京に唯一の、塾です。