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差配する母親が、墓穴を掘る構造について

2019.01.16

本番まで 18

 おはようございます。今日もいい天気です。低温の日が続き、子どもたちが発熱する頻度も増えてまいりました。恐いのは、インフルエンザなどのウィルス性感染症です。竹の会の過去のこの時期を振り返ると、23年の1月が最悪で、ノロウィルスとインフルエンザが蔓延して、小6には塾を休むように指示したほどでした。幸いすでに12月には、合格水準の遙か上にあったと判断しており、無事合格をしました。逆に、26年1月は、平穏でしたが、3名受けて全滅。このときは、早稲田模試に名前を常に載せていた子が2人いて、1人は白鷗補欠10位、一人は桜修館でした。桜修館を失敗した子は3年後都立日比谷に合格しております。わたしの経験では、何もしない何もないときが一番危ない。とにかく心配であれこれと気を遣うときのほうが結果がいいということです。

🔵差配する母親が、墓穴を掘る構造について
 長い間、塾をやってきまして、成功する子の像というものは、不思議と、一致すること、合格する子の型というものは、定型的である、ということを学んで参りました。
 不合格になる子の親というのは、似た行動を取ります。わたしは、そのような親の核には、何か不遜なものを感じることがよくありました。慇懃無礼という言葉がありますが、受検番号をわたしに報告するのに、「個人情報ですから、決して他人には漏らさないでほしい」と警告してくる親がいましたが、なんとも不遜なものを感じたものです。当の子どもが、次の日、周りの子たちに、自分の受検番号をしゃべっていたのを見て、この親は、わたしは信じないが、子は信じている、のか、と思ったものです。不遜な例をあげればきりがない。親がいろいろと、何かにつけて、クレームとは言わないまでも、物申してくる、こういう親の子というのは、なぜか合格した試しがない。たとえ子どもが、優秀な場合でも、不思議と合格しない。
 合格する子の親というのは、不思議と、何も言わない、すべてお任せしています、という態度にブレがない。深いところでわたしを信頼してくれている、そういうことがものすごく伝わってくる。そしてわたしは、そういう信頼に応えなければとそれこそ寝食を忘れて指導に打ち込む、ことになる。不遜な親のために寝食を忘れてということはない。
 物申す親というのは、正直ストレスであり、完全に指導に害をもたらす。何かと注文をつけてくる親というのが、いまして、こういう親はストレスをもたらすばかりで、正直早く関わりを、断ちたい、という気持ちに突き上げられて、早々に、断ち切ったものでした。躊躇はなかった。
 物申す親というのは、結局人を信じられない人なのだと思います。だから自分で動くのだと思います。この人は、自分自身の判断も信じていないのかもしれない。迷う人です。ブレる人というのは、周りに翻弄されて、いつも迷っているいうことではないかと思います。危機が迫ると、ブレが酷くなる、危機が遠ざかると、ブレが減る。これなどは、試験が迫ると、追い詰められ、試験まで余裕があると何かか時間を浪費する、というのとパラレルである。つまり、こういう人たちは、喉元過ぎれば熱さを忘れる、の譬えをまさに生き方とする人たちである。
 プロという言葉は、いろいろな使い方をされる。スポーツのプロとは、スポーツを職業とする人たちのことであるが、一流のプロは、高給、優れた技術、過去の栄光に彩られた人たちであるが、とにかく体力、技能において秀でた人たちのことである。それでは、塾講師、家庭教師のプロとは、どういう意味合いで、用いられているのか。高学歴、有名塾の講師経験、そんなとこか。要するに、教える技能に秀でている、という売りなのかしら。が、この「教える」技術の評価は、グレーだ。プロスポーツなら、技術、体力が高いから、プロになれるのだが、プロの塾講師を評価する基準は、少なくとも客観的な証拠はない。学歴と、講師経験で、うやむやにされる。あとは推測してくれ、というわけである。大手塾の講師は、学生アルバイトが、ほとんどなのは、勉強というのは、入試を潜り抜けてきた学生なら当然教えられるという前提があるからである。もちろん入試なしで、大学生になったのが、少なくとも50%はいる。大学附属系列だと、100%が、入試経験なしだ。ここで入試とは、もちろん大学入試をさす。学生なんか基本、みな自分のやりかた、つまり自分が受けてきたやり方を真似するだけであるから、実は、ド素人なのであるが、世の中では、それが特に問題とされることもない。
 まあ、塾業界のプロを自称する人たちは、技術は、闇の中ということである。
 わたしも時々、プロ、プロフェッショナルなどという言葉を使うことがあるけれど、わたしの場合は、これで飯を食っている、高い技能を売りにしている、そういう自負から、使っている。長い技能修得のための研鑽なしには、使えない。技術の試練と検証を経て、積み重ねてきた技術水準というものがある。だから、学生、学歴、講師歴、大手塾経験などを売りにしたプロ自称をする人など、もともと信用していない。世の中のバカ親を騙すには、十分だが、わたしには、自称プロを信用するだけの根拠、資料は何もない。これは、世の親の皆さんも同じだと思うのだが、現実は、どこどこ大卒、どこどこ塾講師歴何年とかいうのが、状況証拠で、一流を証明した、ということになるらしい。
 教える技能、指導の技術は、自ら証明していくしかない。わたしが、プロフェッショナルというとき、わたしの34年間の竹の会の指導経験、指導技術の研鑽、教える技能の試行錯誤の夥しい失敗歴、読書にかけた総時間、作ってきたレジュメの量、執筆した膨大な創作教材、そうした、わたしの指導への煩悶を今に凝縮して、この一言を、この言葉を発する、発している、そういう自負がある。

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