2022.04.16
ようやく「草枕」の執筆に入れることとなりました。竹の会の読者のみなさまには大層なご不便をおかけしました。
近年の傾向として、竹の会に批判的な人たちがなぜか執拗に「草枕」を読んでいる、という理解不能の状況が続いていましたところ、今年受検した子の母親からネットに悪質な書き込みをされて、信頼していた親子だっただけに、シヨックでブログを書くことができなくなってしまいました。直接わたしに抗議してくるのならわかりますが、ネットで不特定多数を相手に中傷する意図がわたしには悪質なものに見えました。匿名という自己の責任は避けながら事実を誤信して、勘違いして中傷する意見には、言われた側の反論の機会が奪われた、一方的なものです。
その母親は「草枕」を、何を書いても自由な、個人のただのブログと言いましたが、「草枕」は竹の会の塾としてのありようを主張する大切な媒体でした。わたしは「草枕」を大切にしてきました。「草枕」をどうでもいいもののように貶められたことは常に信頼を語ってきた母親の言葉だっただけに、わたしには「草枕」への侮辱として心は重くなかなか書けない日が続きました。
しかし、熱心な「草枕」の読者もいる、そう思い直して、それには、HPをリニューアルするしかないと思い立ちました。2か月ほどかかりましたが、ようやく新しい形で、「草枕」を待ち望んでいるみなさまにお届けすることができるようになり、内心ほっとしております。
◎常に試験に優位に立ち、鳥瞰できているか
難関試験は、圧倒されたら、その時点で勝敗は決している。
難関試験に受かるために、これだけの量をやらなければならない、という膨大な量を想定をして、その量の圧巻に圧倒されて、萎える、というのは愚考であろう。「そもそも」その量の設定が例えば各種予備校のこれだけ必要という書籍を積算したものなら、ナンセンスである。予備校は誠実に必要だとしてリストアップしたと思うか。「そもそも」予備校は商売であるという、その本質は忘れてはなるまい。必要でないものも必要だとして当然売ってくる。予備校の出版物は、多かれ少なかれ「過去問」に依拠している。いや過去問をモディファイしたものが売られているのが通常と言っていい。
私たちには、常に常識的判断が求められている。常識的に「おかしい」と思ったときは、まずおかしいのである。
ふと刹那に走る違和感、これが生存本能から来るものかは知らないが、この違和感というのは、思い過ごしとやり過ごすのがほとんどだが、実は、かなり信頼のできるハザードセンサーであることが、後々わかることになる。
試験で、これが正解と判断しても、何か違和感を感じる、そういうことがある。過去においてその違和感は間違いなくその判断の誤りを知らせていた。ハザードランプは正常に反応していた。
試験というのは、その試験の全体像を鳥瞰できているか、である。その試験が難関試験であればあるほど試験の圧倒的な、自らが作り上げた、いや世の中の権威とされる者が作り上げた虚像に押し潰されそうになる。そうなのだ、難関試験はありもしない虚像と戦わなければならない。しかもその世の中の権威ある人たちが、ありもしない神話、エピソードを、まことしやかに語り、綴り、教化、洗脳していくのである。ここでは、常識的に考えなければならない、ならなかったのだ。難関とは無知な世間が、もしかしたら大手塾が営業のために、つくりあげた集金システムなのかもしれないが、わたしに戦える武器は、常識しかない、と今は確信している。常識こそが最強の武器なのである。私たちは、「常識」的思考、「あたりまえの思考」を実はできてない。危急の時に、「常識」は飛び、不安と恐怖が、判断を誤らせる。普段なら取れる常識的判断ができない。
よく落ち着いて、と言われる。確かに、常識的判断は、落ち着いた状態の時でなければできない。不安と恐怖は、落ち着きを追放するからである。これと似た心理に、バイアスがある。バイアスについては研究が進み、バイアスのリストをあげると一冊の本になるほどである。バイアスの本質は、正常な判断ができない、ことにある。正常性バイアスという。非日常と認識することは、心の安寧が保てない。だからできるだけ正常だと思おうとする。台風の海に家族でチャーターしたボートで飛び出したのは、折角取った休み、何か月も前から計画し、予約したボート、大金も使った、こういうことが、台風の中に家族で突っ込む動機になるのである。すべてが正常の範囲内にあると判断してしまう。もったいない、という気持ち、ここまで準備して来たのに、という気持ちが、大丈夫だ、正常性にあるとバイアスがかかる。
バイアスというのは、危難に際して、正常だ判断する、これは、日常性の範囲内にあるとすることが、頭を使わないで済む、面倒くさいこと、煩わしいこと、は考えないで済むからである。
これは正確には、日常性バイアスとでも言ったほうがいいかもしれない。
私たちは、正常性にしても、日常性にしても、考えない、できるだけ思考停止する、それは考えるということがエネルギーを使うからであるが、それが、常識的判断を排除することにもなる。
果たして正常なのか、果たして日常的と言っていいのか、「あたりまえ」のこととして何も考えない、それでいいのか、ということである。
正常性を疑う、日常性を疑う、あたりまえを疑う、常に、常識に計って判断する、こと。
わたしは、筑駒、開成を難関とする世間の評価を否定するつもりはない。ただ、私には、私なら、開成でも、筑駒でも1番で合格させることができる、と考えていた。ただ私にはそういう機会がないだけだった。それなりにできる子も難関受験となると、迷わず大手に行った。竹の会ではそういうところは受からないと信じて疑わないのだ。どれだけの人がそのような同じ行動をとってきたことであろうか。
わたしには、大手に行ってさて開成などに受かるわけもないであろうこと、せいぜいのところに受かって幕を閉じるであろうこと、そういうことはわかっていた。
わたしなら、駿台模試で1番をとらせられる、それは取りも直さず、サピや早稲アカなどのトップクラスを牛蒡抜(ごほうぬ)きしたことを意味する。わたしならできる。いつもそう思ってきた。わたしにわたしのやり方でわたしのやり方にしたがってくれる子さえいたならば・・・、いつもそう思ってきた。
駿台模試1番、取れる、そう思った。
彼は、駿台模試日比谷高校志望者千数百人中1番、慶應志木志望者二千数百人中1番、早稲田高等学院志望者中1番、開成高校志望者中1番、筑駒志望者中2番、と成績を残し続けた。
大手には、限界がある。わたしの持論であった。大手の売りのテキストはすべて過去問を叩き台に編集したものである。100人の天才が、同じ教材、同じ講師、同じ授業を受けたとしたら、その差は天才の能力差しかないでしょ。こんなあたりまえのことがわからないのが、大手大手と集まる親や子の頭の中身です。
高校入試は大学入試とは根本的に違うのです。
高校入試は、大学入試のエッセンスが凝縮されたものです。
過去問ばかりやることは、自ら合格の可能性を限定することです。そもそも過去問はもう二度と出ない問題のリストです。かつて学校説明会ばかり行って、「傾向」を私に教えてくる母親がいましたが、意味のない話しです。
私は本年、渋幕や城北を滑り止めに受けたいと相談を受けたとき、「過去問はやった方がいいですか」と聞かれて、「やらなくていいでしょ」と答えておきました。彼は、渋幕は特別特待生で合格していますし、城北を受けたときは、時間が余って仕方なかったので、次の日受ける予定だった巣鴨はスルーしました。彼の力からは物足りないということです。彼は駿台模試で、慶應志木の志望者1番でしたから、彼に過去問なんかいらなかった。
筑駒、開成をトップクラスで合格させること、これはわたしの指導の想定したことでした。かれのV模擬の偏差値グラフは、全科目突き抜けて、これまで見たこともないものでした。通常72としたら、80を超えていたので、グラフに収まらなかったのです。
◎成功者の取った方法が「正しい方法」として一般化されることについて
本人さえも自分のやりかたがよかったのだと信じて疑わない。そこには、運の要素、努力量などは捨象される、いや努力量は却って誇大されるのかもしれない。もっとも問題なのは本人の能力が全く別のところに置かれていて語られることである。東大首席弁護士の山口真由さんが7回読み法みたいな本を出しているが、彼女は、地方の中学時代に全国模試で1番を取ったほどの天才である。上京して筑波高校に合格し、高校でも常に1番、東大でも1番、司法試験現役合格という人である。そういう人の唱える勉強法は読んでなるほどと面白いが、凡人の真似できることではない。つまり、方法論なんてものは、個人の才能の絞り出す嗜好の問題であり、これを凡人が真似をして成功するなどということはないのである。
藤井聡太の方法の真似をしたら将棋が強くなるのか、というのと同じである。彼が幼い時に熱中した玩具がバカ売れと聞いたが、その玩具が彼の才能を育てたのではなく、逆で、彼の才能からの嗜好がそうであっただけのことである。
3人の子を東大医学部に入れた母親の教育法がテレビで紹介されたり、当の母親もその気になって本なんかを出しているが、これも逆で、3人の才能ある子どもたちの話しに過ぎない。
難関資格試験の合格体験記なんかも、百人百様の方法をこれが唯一の正しい方法としてそれぞれが方法の正当さを主張しているが、本質は方法にあるのではない。運良く受かった時の方法を語っているだけのことである。
確かに、どういう方法を取るか、は問題である。だから人は普遍的な方法というものを求めて止まない。
こういう私も方法では随分と悩んできた。まず、何を使うか、これが悩ましい問題であった。
難関というので、やたら分厚い本を何冊もやらなければならない、というのが、間違いなのは、時間はかかったがわかった。
恐ろしく分厚いテキスト、しかも高価この上ない、そういうものを十数冊揃えろという。本質は、商売にあるとは、分かっていても、買わされてしまうのが受験生心理である。
今なら常識的な、あたりまえの思考がとれたと思う。普通の人間が普通にできることしかできないのだから、常識的にやれることは自ずと決まってくる。
そうなのだ。私たちに求められているのは常識的判断である。
それから、人には、合った方法というものがある。万人に共通の方法なんかあるはずがない。
私なんかは、1ページから真面目に読み進めるというのができない。拾い読み、トピックを拾って読むのがどうも頭に入るようだ。
ただ本来常識的に考えてできるものか、そういうことは、常に考えておかなければならない。どんなに難関試験だからといって、非常識な、超人の力を求めているわけはないのである。だから、わたしたちは、常識から演繹的に判断していかなければならない。
常識人にできることを求める試験なのである。
重要度の低いものは、簡単に済ます、これも鉄則である。
重要度の高いものは、詳しくやるのか、というと、これは実はそうでもない。とにかく分厚いものは読むのも理解するのも時間がかかるから、戦略としては、ないのだ。
そもそも人間の脳は苦手なことばかりである。
まず複雑な事実には対応できない。できるのはシンプルな事実だけである。
同時に2つ以上のことを考えられない。
記憶が時間とともに曖昧になる。
たくさんのことを覚えられない。
だから思い切って切り捨てる。自分に読むゆとり、考えるゆとりがある状態がベストの量である。
これは、複雑な、糸のこんがらがったような問題、何から手をつけていいのかわからない、あたまが混乱するような問題のときだって変わらない。複雑そうに見える問題も必ず一本の糸からほぐすようにできている。どの糸からほぐすかが、勝敗の分かれ目になる。
いっぺんに2つのことは考えられない。必ず先決問題がある。一つ片付けて次の問題に移る。だから定義をそれこそ正確に覚えておかなければならない。定義で迷うから判断に迷い、次へ移れないのだ。
先決性については、数学の問題を解くときに、その意味が見えてくる。複合的に問題をこんがらがったふうに見せて難問に見せかけるわけである。二次関数と三平方の定理、等積変形、相似などをからませる問題は、入試では定番と言っていい。開成だと高校数学から持ってきた問題もあるし、整数論や確率は難関校ではどうしても出しやすい。場合分けの難しさを試せるし、確率的な思考の視点というものがあり、いわば「見方」を変えて見る、という能力を試せるからである。
司法試験などの合格体験記は、反面害悪になるということ、これは結果的に、失敗という形で、現れるが、本人が気づいていないことも多い。
試験失敗の理由ははっきりしている。欲張り過ぎである。一冊に決めたらもう増やさない、むしろ減らすことである。さらに、一冊を繰り返し読む、一冊だから繰り返し読むことに意味がある。
一冊に絞り折角読んでいるのに、さらに増やすのは仮にそれがどんなに優れたものであっても害悪以外の何ものでもない。
毎日読むから頭に入るのである。勉強にとって分散ほど害悪なものはない。
よく試験直前におしゃべりばかりして勉強に集中しない子というのがいますが、こういう子は必ず落ちます。気の分散というのは、気の集中の真逆をいくもので、試験には最悪の心的状況なのです。
だから試験直前になればなるほど無口になる、のが合格する子の自然のありようなんです。不安と戦いながら、精神の緊張を保ち、自己を追い詰めていく、不安と戦いながらそれを打ち消す力、それは「受かる」という強い意思なんですが、それは弛まぬ努力の積み重ねでしか得られないものなんです。直前におしゃべりをするのはもちろん不安だからです。その不安は実はあることを物語っています。自信の無さです。勉強が足りなかったという自覚、実は、「自分の力で解いていなかった」という真実を知る、我が心が、そうさせるのです。
合格する子というのは、飽くまで謙虚です。それは、試験を正直に恐れているからです。恐れているからこそ、敬意を持って接し、教わる者に礼を尽くすのです。
偽の自信というのは、勉強、試験を舐めていると思います。「簡単だった」とか「易しかった」とか「できた」という子ほどあてにならないものはありません。舐めているから読みが浅い、自己中心的なところが、舐めるとか、甘く見る、という現れ方をするわけです。
よく国語の読解が弱いという子がいますが、調べて見ると、まず語彙力がないですね。それから読むスピードが遅い。これなどは、毎日、音読、しかも速く音読することをやらないからです。一単元の論説文を毎日10回声を出して捷く速く読めるように訓練しないからです。
それから読解力のない子というのは、自己中心的な見方をする、主観でしかものを見ないのです。
思えば、随分と惑わされてきたものである。迷うなら、迷いの原因は捨ててよかったのである。
世の中に完全なものなどない。完全なる方法などない。
むしろ不完全な方法でよかったのだと思う。本来、完全な方法などないのだから、完全な方法を求めることが、意味のないことだったのである。
不完全とわかっている中で、常識だけが道を迷わず進む唯一の羅針盤だということを忘れてはならない。常識という羅針盤は迷わないで道を進む、方法なのである。
人間は神ではない。とすれば神にしかできない無理難題を求めるはずがない。問題を作り、課すのは人間である。もし受かるために500ページの本を十冊読まなければならないとしたら、常識から考えてその仮定は間違っている、ということである。人間の理解できる量、記憶できる量は、限られている。使える時間だって限られている。どんな難関の試験だって、非常識なことを求めることはない。
私に欠けていたもの、それは、今ならわかる。「常識」という羅針盤だったのだと思う。