2021.10.12
竹の会通信2021年10月12日
◎2021年冬期集中指導申込
参加は自由! 申込は感染防止のため少数のみ! 定数に達した時点で終了します!!
◎底上げして見せることで潰れる子たち
「できる」と褒められると人は期待に応えようとする。それはいい。問題なのは、能力が伴わない場合である。期待に応えられるだけの能力が伴わない場合、人はどういう行動をとるものなのか。
自分を底上げして見せようとする、それがカンニングにつながったりするわけである。特に、そこまでやる子というのは、親に、周りに常に褒められながら、チヤホヤされながら、育ってきたことであろう。親の、周りの「この子はできる」という評価を裏切らないように頑張ってきたに違いない。だからある時自分の能力ではどうにもならないと悟ったとき、苦しみで葛藤したことであろう。
これまで底上げしてきた見かけが、ガラガラと崩れる。わたしは長い間そういう子たちをたくさん見てきた。
親の動揺、慌てふためく姿はいつもの事であった。落ち込み、塞ぎ込む子に親は子が心配であたふたするばかりである。当の子は化けの皮が剥がれて暴れているだけである。自分が落ち込めば親は心配して右往左往する。勉強なんか放棄してもいいことになる。
親は子に何ができたのであろうか。
やたら褒めるのも考えものだ。
そうだろうか。
見極めなければならなかったのは、子の能力がどこまでのものか、ではなかったか。だから無定見にやたらと褒めそやすのは将来のリスクを考えるとほどほどにということになる。
厄介なのは、能力的に優れた子たちにもこの嵩上げ症候群が蔓延ることだ。「この子はできる」という周りの評価は心地よいに違いない。それで能力を超える問題を与えることがある。飽くまで試しにである。できなければ軌道修正すればいいと考えてのことだ。ところが子はそうは考えない。できない自分はあってはならないのだ。思わぬ方向に事態が進むことがある。あらんことか、なんらかの方法で答えを盗むということをやるわけだ。「できる」という評価は絶対に崩したくないというわけである。こうなると、そういう子にそれはバカな行動だと気づかせるのが難しい。自尊心を傷つけないように正しい方向へ導くのが難しい。過去何人かができないという事実と自尊心の葛藤に破壊されて退塾したことか。できないことを「できない」と言うことができない子たち。答えは合っている。しかし、式がない。あっても出鱈目な式。「式を書いて来い」というと途方に暮れる。もともと解いたわけではないからだ。1時間も2時間も練り消しを作ったり、挙句投げやりにデスクに体を投げ出して寝そべる。不貞腐れる。こういう子たちを救うのは至難である。心の問題だからである。
私が「素直な」子が受かる、と言っているのは、こういう苦い体験も影響している。
「素直な子」が受かる。これは長年私が、試験というものに携わってきて、発表のたびに痛感してきたことである。減らず口をきく子というのが、どんなに優秀な子であっても不思議と落ちてきたのはわたしにもなんとも説明のつかない、やるせないものだった。
試験の極意、これほど明確なものはない。素直に先人の教えにしたがうこと、これである。
大工の棟梁に弟子入りした弟子。棟梁の言うことを素直に聞く弟子は大成する。どんなに棟梁が不合理極まりないことを言っていると思っても素直に従う弟子は成功する。ちょっと頭の働く弟子、如才ない、要領のいい弟子は、陰で棟梁を批判する、不満、不平がすべてに悪影響する。だから途中で投げ出すのが相場なのだ。
模試のこと
模試が悪ければまず受からない。これは真理です。竹の会でも算数に苦しみながらなんとか算数に取り組んできた子が、模試で成績を取れないということがあります。模試で成績が取れなければ受からない。私は、こういう子は高校入試で頑張ればいいのだと思っています。私の経験は、算数を鍛えてきた子はたとえ受検に失敗しても高校入試で成功する蓋然性が高いことを教えています。27年、28年戸山の合格者は、いずれも受検失敗組でした。しかし、算数はできた。算数ができているのなら、高校入試で成功する。わたしは、いや私の経験はそう教えています。
28年戸山合格者は素直な子でした。彼は戸山から一橋大へと合格進学しております。
逆に、算数が結局ものにならなかった子が、高校入試で成功することはほとんどない、と言っていいと思います。
勘違いしてはならないと思います。算数がだめなら、受検は無理です。そして高校入試も期待はできない。しかし、算数が伸びている、できる、竹の会で言えば、「推理の素」「思考の源」「速解」あたりまで行った子なら、受検、模試で結果が出せなくても、高校入試がある、と言えます。算数的思考ができている子なら中学に入っても心配ないのです。こういう子は模試が冴えないなら、受検に拘ることはない。高校入試で行け!と言いたい。
さて受検目的だからと算数を切り上げるのは、得策ではない。もともと合格する可能性がほとんどない子があえて受検するというパターンが一般にあるが、こういう子が受検というので、適正練習を中心とした勉強に時間を費やすことは、もしかしたら将来の、中学生活を棒に振ることになっている。算数の訓練はやめてはならない。どんなことがあっても算数から離れてはならない。よく大手にいた子が中学で落ちこぼれるのは、算数をまともにやってこなかったということが大きい。
大手、特に、進学大手は、天才を念頭においている。秀才、天才同士の戦いを想定している。だから大手の作る教材は天才集団を念頭に作ったものだ。だから難関校を受ける者にはこれほど役に立つ教材はない。しかし、これは天才前提の話しである。大多数の生徒は天才でもないし秀才でもない。注意しておくが、例えば自分の中学で5番内にいたとしても秀才とは限らない。本当の天才は9科目試験では見えてこない。特に内申で歪められた今の学校制度では真の天才は地底に隠れる。
大多数は凡才である。その凡才が、学校で5番内だからとか、自分はできるとか、そういう自称天才が実は大手には格好のお客様である。その他大勢は大手にはただのカネを運ぶバカである。
大半が大手で失敗するのは当たり前である。特に、大手は、都立には向かない。難関私立専門が大手の正体である。