2021.01.26
竹の会通信2021.01.26
◎心をコントロールする、強い精神
あなたたちは、心の操縦士にならなければならない。
あなたの心を他人任せに操縦させてはならない。
また、あなたの心を操縦しないで欲しいままにさせてはならない。操縦しなければ、心は堕ちていく。
ゲームに囚われるのは、操縦放棄である。また、操縦しながら、ちょっとだけゲームをするのを許すのは、操縦に専念してないのだから、いずれ墜落する。
操縦桿から手を離してはならない。操縦から心を離してはならない。
心を操るのを忘れてはならない。心を野放しにしてはならない。
心を操縦することを実行するという。
したがって、実行力というものはない。
実行力という概念はない。実行は結果であり、するかしないか、しかない。
意思とは、心を操縦する意思である。
意思は実行と表裏である。実行があれば意思がある、というだけのことである。
実行がなければ意思はない。
意思は実行の点火の瞬間にだけ存在する。
意思は、心の領域には存在しない。意識した途端に意思は心の領域に取り込まれる。つまり、存在を失う。意思は点火するかしないか、その一瞬にのみ存在する。存在し続けるとき意思は常に存在する。しかし、意識した途端意思は消える。
実行とは、点火し続けることだ。実行をやめた途端、意思は消える。
したがって、実行力というものは存在しない。
実行とは、操縦をしていること、そのことをいう。
私たちは実行を見て、点火の事実を知る。
点火する意思、それは生きる意思にほかならない。
そうなのだ。実行には、エネルギーが必要である。
それは、行動を生み出す、行動を続けるためのエネルギーである。
例えば、復讐という行動には、激しい憎しみ、悲しみ、怒りという複合的なエネルギーが不断に発生するのであろう。
将来医者になりたいという動機は、勉強しなければならないという行動のエネルギーとなるであろう。未来をどう生きるか、を考えること、つまり目標を持つこと、目的を持つことは、エネルギーを生む。
実行は、無意識の点火、点火し続けるにはそれほどのエネルギーは要らないが、一旦点火を中断すると、次の点火には、数十倍のエネルギーを要する。
難問に対する心理
難問に対したときの、心の操縦はどうあるべきか。
こんな問題、自分には解けないと思うのか、みんな解けないはずだ、条件は同じだ、だったら、落ち着いて考えた者が勝ちだ、と心を操縦するのだ。
前者は、心の声である。弱音を吐き、プレッシャーに弱い、心の声である。しかし、後者は、心を操縦する人の意思である。
わたしたちは、心の操縦士であることを自覚しなければならない。操縦というのは、目的地に向けてするものである。私たちは心を操縦して、ともすればくじけがちな心を操縦して正しい目的地へ誘導しなければならない。
問題はみんな解かなければならないと考えるのか!いやそれは誤解であろう。心を操縦する人は、一つ一つ丁寧に考えていけばいい、それで時間が足りなくなれば、それでいい、出題者は、受検生に無理難題を押しつけるはずがない、そう考える。操縦する人は、常識的な、あるべき方向に誘導する。
ここまで述べてきて、私は、「心」を裸の心と呼べばいいのかな、と思った。
様々な困難に立ち向かうことで心は鍛えられる。そういう中から心を操縦することを学んでいけばいいのではないか。ゲーム機を買ってもらって喜ぶ心、遊園地に連れて行ってもらえることを喜ぶ心、映画に連れていってもらえると喜ぶ心、美味しものを食べられると喜ぶ心、叱られて悲しむ心、騙されて怒る心、みんな生の心を剥き出しに喜怒哀楽を無邪気に表す。そこには心の操縦士はいない。試験が近づいて緊張する心、焦る心、金縛りになった脳、私たちはもうそろそろ、喜怒哀楽で暴走する心を制御すること、操縦することを考えたらどうだろうか。
操縦する意思はバイアスに満ちた心を客観的に、落ち着いて観ることのできる智恵である。四囲の状況を客観的に観察し、常識的な論理で、心を導くことのできる智恵である。
要するに、できることとできないことを認めて、今できる、常識的に可能な道を選択しなさ、ということである。
心の中にいると周りが見えない。一旦心の外に出て、周りをよく見てみなさい、ということである。
焦るのは、心の中でできないことをやろうとするから、陥る。
一旦心の外に出て、周りを鳥瞰しながら、心を操縦してみよう、そして、今、どうすればいいのか、考えてみよう。全部を、解こうとするから時間が足りない。自分が丁寧に考えて読み解ける速度でいいじゃないか。自分の力で考えられるだけ解けばいいじゃないか。自分の力以上のことをやろうしてないか。受かるためにこれができなければならないと自分の能力の高いところを求めていないか。時間が足りない、なら、時間の許す限りで解けばいいじゃないか。
裸の心は、喜怒哀楽を赤裸々に敏感に反応する。恐怖に弱く、慌てふためく。悲しければ泣く、痛ければ悲鳴をあげる。だから裸の心を操縦する心がいるのだ。
竹の会の小6のみなさん、これまでありがとうございました。わたしはあなたたちのために心を砕きあなたたちの苦しみや悲しみを理解しようといつもともに悩んできたと思います。
去年の2月にはとうとう手術、入院という事態になり、みなさんには大変に迷惑をかけてしまいました。正直、もうだめかな、と何度もやめる覚悟をしました。新型コロナでわたしの心は折れそうでした。家族はわたしの体(年齢)を心配して、「もういいんじゃないか」と言ってくれました。わたしの竹の会、わたしの竹の会でもう一度だけ子どもたちを指導してみたい、竹の会の子たちと過ごしたい、わたしの思いは強く、倒れるまで、もう本当にだめというまで、竹の会を続けたい、と思ったのです。竹の会、私の竹の会、神様、もう少しだけ私を竹の会で過ごさせてください、何度もお願いしました。私は祈りました。竹の会の神様、わたしを助けてください。
もしかしたら少しだけできない子たちに優しくなったかもしれません。
もうすこしだけ、頑張りたいです。
竹の会の小6のみなさん、みなさんが今の自分の力を出しきって、この試験を終えられることを心より願っています。
後記
実はこのブログはいつもiphoneを使って主に電車で書いてます。教室の行きと帰りの電車の中でほとんど書いてます。この前は書いてたら、降りるはずの渋谷駅を乗り過ごしてしまいました。バスの中とか、病院で待つ間とか、隙間時間で書いていますので、ブログを書くために何時間もパソコンの前に座ってるなんてことはありません。
私の場合は、テーマさえ決まればいくらでも書くことが浮かんできます。
今日は、帰りの電車で書いてたら、苦しそうな小6の子たちの顔が次から次に浮かんできて、涙が出てきて、マスクとキャップでなんとか隠せたでしょうか。