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思考の壺2

2020.11.09

 

思考の壺2
酸素と窒素等の割合は1:4
 いや、これは空気の成分割合の話しです。この1:4というのは、自然界の作った絶妙の割合なのではなかろうか。純度100%の酸素など危なくてしかたない。
思考とスペース
 わたしは、思考とスペースの比は、1:4がいいのか、と思っている。思考というものが、リラックスしたときほどよく働くというのは、スペースの大切さをよく語っている。悩み事というか、ストレスがあるときは、思考の壺が、働かないのは、壺の中が、ストレスの気で100%になるからといえる。
 とにかく思考が働くには、80%の「無」が絶対なのだ。
 試験直前に、知識を詰め込む、そしてそれを覚えていようと意識する。これは知識で、思考の壺を100%にしようとすることにほかならない。思考が働かないようにして、試験に臨む、これは最初から勝負が見えている。
 問題を読む、考える。この瞬間に全神経を、集中させなければならない。試験とは、考える、ことなのである。思考の壺に知識を入れてはならない。知識の壺にした人は、問題を読むとまず「思い出そう」とする。問題の意味、意図を考えない。鳥瞰しない。全体を見ない。森を見ない。記憶を、辿ろうとすることばかりする。
 考えるというのは、ほんとうに必要な知識のみを使い、つまり1の知識と9の思考で、対することをいうと考える。もちろんここでの「比」は比喩であるけれど、それくらい知識よりも思考が大切ということである。問題を解くとは、思考する、ということにほかならない。決して、思い出した知識を書くことではない。そもそも貴重な試験時間に思い出そうとするのに時間を使うのは、あまりにも無駄過ぎる。問題を読んで、しかもサッと一回読む、問題の意味を考えないで、早とちりして、記憶を辿る、つまり、思い出そうとする、ずっと思い出そうとする、これを考えるとは言わない。問題を見ると、すぐ「思い出そう」とするスイッチが入る、これはまずい条件付けである。
 これと区別しなければならないのは、例えば、数学の問題を見て、読む、それから考える、この時、関数とか、切片とか、傾きとか、そこから変化の割合とか、等積変形とか、いろいろを思い出す。思い出そうとするのは、問題分析の当然の流れである。とにかくまず考える、意味を何度も問い返す、閃かない、そこでもう一度読み直す。この場合の考えるとは、閃きを待つ、という類いのものである。思い出そうとするのと似ているが、創造の意思ある思い出そうとする働きと、単に知識の中から探そうとする意識の働きとは違う。
 前者は、考えるという訓練を重ねて、何時間も何時間も考えてきた結果得られた知識を思い出そうとしているのでおり、後者は、ただ暗記した知識を思い出そうとしているに過ぎないからである。
 さらには、考える訓練をしてきた者には、問題を読む精神が違う。培ってきた精神は用心深く用意周到である。考える過程で経験した様々な苦い体験、挫折、突如としての閃きが、今のあなたを造りあげている。新たな問題を考えようとするとき、それまでのあなたの考えた、考え抜いてきた経験が、あなたの読み解く精神のバックボーンに厳然と控えている。
 思考にはスペースが必要だと考えた、いや悟った。
 平成25年5人中3人合格
 この時にやったレジュメは、指導の前日までに作った、2通ないし3通のみ。夏は、「第一類」と言われたレジュメシリーズ、秋は、「算数をクリアーにする」シリーズ、「合格答案への道」シリーズ、ほかに国語関連のレジュメがあっただけ。
 26年は、25年レジュメに加えて、何を狂ったか、23年に作った「適性虎の巻」を投入してしまった。この年は、スペース作りに失敗した。心配だからと過去レジュメを大量に投入してしまった。わたしのミスであった。3人いた受検生はみな落ちた。後に、一人は日比谷と慶應志木に合格、もう一人は6年後東北大に合格した。
 27年、28年とわたしは、大量のレジュメを投入することにこだわった。スペースを考えなかったのだ。わたしが自分のミスに気がつくのは、今年の失敗を分析していて、ふと、思い当たったことからであった。
 わたしが迷ったのは、28年、31年とそれぞれの年に、4人の合格者を出したことが、わたしの判断を鈍らせた、からだと思う。
 わたしには、自信のレジュメが次から次に生まれた。だからわたしは、そうしたレジュメのすべてを子どもたちに使うことを当たり前と考えた。子どもたちに、高い能力があり、並外れた実行力があれば、それでよかった。しかし、すべての子どもが、そういう理想の受検生ではありえなかった。ありえないことであった。
 今や、竹の会には、わたしが、10年以上にわたって作り続けた、膨大なレジュメがあった。わたしは、これからは、医師が処方するように、適切なレジュメを与えて、能力の開発を図る、そういう方法が、必然となった。
 子どもたちに、1:4の割合のスペースを維持しながら、思考の育成を図る、これからの指導の青写真は実はわたしは早くから気づいていたのだと思う。思考と言うのは、スペースなしには、成り立たない。わたしは子どもたちが100%の思考を働かせるために、指導の「間」を考えなければならない。
「指導の間」
 わたしの指導には、必ず「間」がある。子どもたちに一拍置くのだ。何か言い放てば、必ず一拍置く。「間」をとる。これは指導の常道である。指導にさいして発する指示にしても、簡潔を旨とする。これも「拍子」を取りやすくするためである。次第に、わたしの説明は、一言で済ませるようになっていった。一言の次に「間」を取る。一言で済むのは、わたしの説明が、問題そのものを説明するのではなく、もっと前の、前提、より大きな思考枠組みに気付かせて、そこから自分で「考えなさい」という構図になっているからである。竹の会ではお馴染みのミクロマクロ思考もそのひとつである。巷の多くの塾が問題の解説、解き方の解説にほとんどを費やすのに対して、竹の会は思考のバックボーンを暗示して、そこからは一人で考えて結論に至りなさい、と指示する。飽くまでも自ら考えて解いたことにこだわる。わたしは、子どもたちに思考の方向を示し、一言発するだけである。「面積図かな」「ミクロマクロで行けるよ」みたいなことを言うだけである。子どもたちは、「あっ」と発して急いで席へと戻っていく。もちろん最後には降参する、白旗を揚げてくる子たちもいる。そのときは、いっしょに考える。いっしょに解いていく。丁寧に問題を読み、一字一句を図化して見たり、イメージ図にしてみたり、そういう過程を踏むうちにまた「あっ」となる。わたしの事実分析の方法、様子を見て、学習してほしいという思いもある。わたしの作った教材だから、子どもたちが間違えば、その子の学習段階、脳が何を迷っているのか、たちどころにわかる。だから「繰り返す」こともあれば、新たな教材を考案してみることもある。子どもが何に戸惑っているのがわかるからである。

 指導とは、「間」であり、「考える」とは、スペースの「間」である。子どもが、「わからない」というとき、思考の壺から何かごみを取り除くということもよくやる。これはスペースを作るということにほかならない。

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