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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

🎶向上心が実力を伸ばす原動力

2023.09.01

🎶向上心が実力を伸ばす原動力
 共通校だから難しい英語はやらないとか、数学は、こんな難しい問題は出ないとか、言って、やらない生徒がいる。既に、わたしの指導を事実上拒否したも同然だが、指導に自己判断を持ち込むのは、それなりの覚悟はして置かなければならない。
 試験が終わって、落ちたとき、たちまち塾の批判に転じる親がいる。塾の言う通りにやったのに、落ちた、と不思議な論理を言う。
 ほんとに言う通りにやったのか、そこも疑わしい。しかし、そもそも受験というのは、そういうものではない。仮に言う通りにやったとしても、それで受かる保証などない。まず、基本的に試験は個人的な試みであり、個人の能力、努力の程度、家庭がそのためにかけるカネなどによって大きく左右されるものであり、塾は、そういう事情と関係なく、塾の言う通りにしたら、受かることを保証することなどない。塾は、自己責任を前提として、つまり試験は落ちるのはあたりまえのものとして,できるだけ可能性を高めるための方法・情報を提供するものに過ぎない。塾に行き、塾の言う通りにやったら「受かる」のなら、世の中の受験生は、全員受かることになる。そんなことはあり得ないのであり、多くの、塾に通う受験生たちが、限られた合格数の中に入るべく、競うのが試験である。つまり、落ちることがあるのは、いや落ちるの方が絶対に高いのは、織り込み済みの前提なのだ。だから、大手塾に通った親子は落ちてもそれを塾のせいなどと考えないのは至極同然のことなのである。ところが個人塾に通わせる親、特に公立狙いの親の中には、この点を誤解した親がよくいる。試験が選抜試験であり、8倍なら8倍の倍率として、8人中7人は落ちるのである。そういう試験を受けているのだと言う認識がなくなるのだろう。塾が8人中の1人にしてくれると誤解する。
 このブログでも再三指摘するのだが、都立中志望の家庭は、往々して、カネをかけないで、合格する、という、ある意味受検では、虫のいい考えをする親が多数いる。しかし、昨今の都立中は、開成など難関私立の併願校の一つとして、私立受験者が多数参戦しているのが実際である。私立志望者は、小4前後から、早、大手進学塾に週3ないし週4ペースで通い、小5になれば、土曜は、土曜特訓、日曜は日曜特訓とオプション講座をすべて取り、季節講習も目一杯申込む。家では、多くの場合、親が付きっきりで、勉強を見る。中には、それでも足りないと、家庭教師を雇う家庭もある。都立中高一貫校に受験参入した、私立志望の子たちとは、そういう人たちである。のんびりと、マイペースで、大手の中高一貫校対策塾に通う子たちとは、わけが違う。マイペースと言ったのは、習い事、稽古事、なかには激しいスポーツクラブに所属しながらという子もいたが、もうそういう子たちは、受からない、そういう時代に来ている。だからこれまで、つまり、素の都立だけ志望する子たちが多数を占めていた時代とは、もはや違う、ということである。
 それでは都立狙いの子はどうすればいいのか。
 はっきりしている。下手に適性対策なんかやって、中学になって落ちこぼれることになることのないように、基礎、思考力を鍛えておくことである。基本をしっかりと鍛え、その上で、思考力をつける延長として、適性問題を考えていく、ことである。もし、都立中に行けないときも、区立中学からトップ都立高校を窺えるほどの力をつけておくこと、である。基礎を等閑にして、区立に進んだとき、どうするのか。いや公立中高一貫校制度スタート前までは、受験しない子たちが塾に行くことなどほとんどなかった。だから学力は低レベルのままに区立中学に上がる子たちが犇めいていた。せっかく受検をきっかけに塾に行くことにしたのなら、受検のためということではなく、まず基本的なことから習得していくことを考えたほうがいい。しかし、多くの親子は受検という色眼鏡をかけた途端に、大手塾の煽りも相俟って、基本を飛ばして、受検のためのと称する勉強に追われる。

 もう少し言えば、都立中高一貫校は、それほどいいわけではない。白鷗の卒業生の大半は、精々日東駒専あたりに行くのが関の山である。小石川や武蔵を除いて、似たようなものである。遥かに、3年型都立高校(もちろん進学重点校基準)の方が、国立も早慶もMARCHも合格数が圧倒的に多い。もちろん3年型都立の卒業生は320人前後、都立中高一貫校の卒業生は160人前後という「数」の違いは、斟酌しての話しだ。
 要は、話しは簡単だ。都立中高一貫校は、私立難関受験生の受け皿化していること、したがって素の都立のみの受検生が、合格するのは、これまで以上に困難な状況にあること、だから、都立のみ受検生は、三年後の高校入試を視野に入れた勉強をしておくのが、賢い対応ということだ。わたしの体験は、大手から来た子たちが、一人の例外もなく、計算力未熟、割合の理解は初心者のそれ、思考力はない、したがって、勉強する姿勢がない、勉強にスタンスが向いていない、だから勉強習慣というものがない、ということを教えている。大手の子たちは、だらだらと時間ばかり浪費して勉強効率は低レベルのままに、どうにもならないまでに放置されている、という実感を持っている。一旦身についた締まりのない生活スタイルはもはやどうにもならないまでに、子どもに染み付いてしまっているのではないか。後から変えられない、これが現実である。
 

 鉄は熱いうちに打て❗️ 小2が勝負!

 竹の会ではたまたま小2の夏頃に入会した子たちがいた。最初は辿々しい、遅々たる勉強振りであった。整数の足し算、引き算をドリルで進めたものだ。小数の四則を学び、いや訓練し、やがて分数を学び、いや訓練し、約分を学び、訓練し、やがて四則混合演算の訓練を重ね、上達したら、逆算を学び、訓練する日々だった。こうして小2の冬頃には、たいていの計算はこなせるようになった。完全に「計算マスター」になったのは、年を越した3月のことだったか。この頃には、割合の指導に入れた。小3の1年間は割合の基本修得に費やされた。竹の会の指導システムでは、いわゆる割合五部作と言われるレジュメシリーズの前段階のレジュメシリーズから始めたのだと思う。その後に続く、割合五部作は、「算数の魁」「思考の鍵」「小学思考の素 割合問題編」「新小学思考の素」「小学思考の素 その他の問題編」からなる。全くの初歩から始めて、慶應中等部レベル水準までを体系化したもの。今では、「算数の魁」シリーズは、1から5まで出ている。また「思考の鍵」シリーズも「思考の硯」「算数の鍵」シリーズへと発展している。五部作を終えると、「推理の素」「思考の源」「1%下巻」「新速解」など、いわゆる中学受験レベルの問題へと進んでいく。
 こうしたレジュメをやれるのは、小2入会組のみである。小4以降入会だと、小4から計算スタートのため、五部作まででたいていは時間切れとなる子が多い。ぬるま湯のような小学生活を送っている子には、なかなかメリハリのある勉強を軸とした生活を習慣化することは困難である。そういうぬるま湯にいる子たちが、徹底的に訓練された難関私立受験の子たちに勝てるか、という話しである。ぬるま湯の子は、時間の感覚が、のんびりとしていて、習い事、稽古事をやっている子が多く、その意味でも、正直受検には最初から負けている。中学受験の家庭、親たちとは、かなりの温度差がある。選抜試験というものの認識が根底から違うということだ。
 小4入会が間に合わなくなるのは、ぬるま湯生活のままに習い事、稽古事を続け、受検勉強も習い事の一つという意識から抜けられないからである。私立受験の親たちは、子どもの将来、大学を見据えて、先取り投資をしようとしているのだ。そのために勉強を最優先価値と認識し、行動している。
 その親たちが、都立中高一貫校に目を向けたのだ。ぬるま湯の子たち、基本「カネをかけない」受検を考えている親たちに、勝ち目はない。特に、優れた才能がなければ、そうした家庭には勝てないのだ。
 これまで竹の会が、そうした「カネをかけない」層のぬるま湯生活にあった子たちを合格させてこられたのは、入会試験で、一応の才能のある子に絞り、中でも向上心、上昇志向の強い家庭、子に出会えたからだ。入会試験にほとんど対応できない子やぬるま湯生活はそのままという家庭の子が、受かることは、過去においても、全くといってなかったが、公立志向の家庭では、カネはかけられないという切実な限界があり、竹の会は、ほんとうに最小の時間をそれなりの費用で機会提供してきたのだ。多くは子どもの才能、家庭での学習努力に期待するしかなかったのだ。わたしが直接指導する形を組めばいいのはわかっている。かつての竹の会のSシステムが合格を確実にもたらすことは知っている。しかし、「公立」中高一貫校志望の家庭は、カネをかけない家庭で占められている。しかも旧態依然とした、習い事、稽古事などをひねもすのたりのたりかなと暮らすのんびりとした長閑なぬるま湯生活に慣れ親しんできた環境から受検の中に飛び込むとどうなるのか。
 わたしは最低でも小学で身につける基本学力だけはつけてやらないと塾の責務、良心は果たせないと考えてきた。受検成功のレベルではない家庭、子たちにわたしができる誠意、良心である。そういう子たちが受検はすることになるとしても結果は見えている。当然のように落ちる、竹の会は非難されたけれど、それから時間が経ち、区立中学で、小学で、竹の会で身につけた基本学力が役に立っていることだろう、と思うと、これで良かったのだ、と思っている。
 選抜試験というのは、カネのかかることなのです。そういう覚悟がなければやたら受検などするものではない。そういう中途半端な家庭がそのための大手塾などに通っても、適性対策の勉強をしても、小学で身につけるべき基礎学力を疎かにしたつけは、区立中学で落ちこぼれというかたちで払うことになるのは目に見えている。5〜8倍とい試験に誰もが受かるわけではないのだ。才能とカネがない家庭は無理なのだ。
 わたしは、大手に行った子たち、それは親の選択であったのだが、そのほとんどが、小6の今、自分の子の才能の限界を知り、伸び悩む模試の成績を目の当たりにして、その結果を知ることになっているだろうと見ている。わたしは親たちの選択した時から、こうなるだろうことは、わかっていた。
 もう一つ、多くの私立受験の家庭も、大手進学塾で、その大半が落ちこぼれていることも知っている。大手進学塾には昔から落ちこぼれは必要悪として、あったのだ。中学入試の現実は、第一志望に受かる子は一握りで、そのほとんどが、第二、第三志望に流れていることももはや常識である。ここではカネはあるが、才能がない子たちの、また別の苦悩がある。
 かつて竹の会はそういう大手進学塾の落ちこぼれたちに光をもたらしてきた過去もあった。竹の会が中学受験から手を引いて久しい。平成20年の慶應藤沢中学の合格が最後かもしれない。もっとも最近は適性試験で、宝泉理数インター、東京農大第一中学などに合格はしている。また一般試験ではいろいろなところ、例えば、普連土中学、東洋大学京北など多数合格、算数だけで巣鴨、攻玉社などに合格した例もあるが、別に特に、対策をとったわけではない。
 竹の会は、昔から、中学受験に関わってきたのだ。東洋英和、獨協、日大二中、国学院久我山中、吉祥女子、立教池袋、大妻女子、昭和女子など多くの子たちを送り出してきたのだ。ただ、竹の会は中学受験の塾ではない。開設当初から高校入試でやってきた塾だ。それも地元の中学、主として、代々木中学、上原中学の子たちを都立青山、駒場、新宿をメインに送り出してきた塾だ。
 竹の会の指導は、過去の様々な経験を乗り越えて、積み重ねてきたノウハウから、もっとも子どもたちにいい形を追求してきた結果、自然と生成したものだ。わたしの指導は、これまでの風雪を乗り越えながら、技術を磨き、経験を積み、指導術を研ぎ澄ませて、最大の指導効果を発揮させる道は何かを知りぬいた上で「手」を「尽くす」ことにある。
 わたしは出会った仕事をできうる最大の手を尽くしてあたってきた。成功するかどうかはわからない。いつもそうだった。わからないが必死で取り組んできた。
 それはこれからも変わらない。わたしはやるべき仕事を最高の手を尽くして取り組むだけだ。

 

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