2023.04.24
「ふつうならの論理」
石原千秋著「未来形の読書術」ちくまプリマー新書
以下引用
実は評論を読むにもコツがある。「ふつうはこう思っているだろうが、ぼくはこう思う」と書くのが評論である。
この「ふつう」の位置が「内包された読者」の位置だ。ちょっと「おばかさん」を演じるのが、評論を読むコツなのである。そうすると、「え、そうだったのか!」という具合に評論が面白く読める。
実例
鷲田清一「ちぐはぐな身体」ちくま文庫
じぶんの身体というものは、だれもがじぶんのもっとも近くにあるものだと思っている。…ぼくとはほかならぬこのぼくの身体のことだと言いうるほどに、ぼくはまちがいなくぼくのからだに密着している。ところが、よく考えてみると、ぼくがじぶんの身体についてもっている情報は、ふつう想像しているよりもはるかに貧弱なものだ。身体の全表面のうちでじぶんで見える部分というものは、ごく限られている。さっきもふれたことだけど、だれもじぶんの身体の内部はもちろん、背中や後頭部でさえじかに見たことがない。それどころか、ましてや自分の顔は、終生見ることができない。ところがその顔に、じぶんではコントロール不可能なじぶんの感情の揺れが露出してしまう。なんとも無防備なのだ。
石原千秋評釈
「ふつう」の読者の位置が、すなわち「内包された読者」の位置が明確にしめされている。
鷲田清一は「ふつう」の人は、①「自分の身体のことなら自分が一番よくわかっていると思い込んでいる」と、考えている。それを前提として②「いや、実は自分の身体ほどわかりにくいものはないのだ」と説いている。
この文章は二項対立が利いている。〈既知の身体/未知の身体〉という図式である。「ふつう」の読者は①〈既知の身体〉の側にいて、鷲田清一は②〈未知の身体〉の側にいる。
こうして、①はいわば常識と言える部分で、②はそれに対する批判的検討(批評)だと言える。
こうして二項対立をうまく使うことが評論文を、読んだり書いたりするコツなのだ。
石原千秋「未来形の読書術」引用
この「ふつう」というのが、実はなかなかやっかいなのだ。
鷲田清一著「ふつうとはなにか」
この中で鷲田は、実は「ふつう」ほどわからないものはない、ということを実例を踏まえて論じている。
ちなみに鷲田清一は、哲学者であり、多くの著述を出しているが、彼が注目されたのは、なにしろ一時期、大学入試の現代国語に彼の文章が常連として、出ていたからだった。
たしかに「ふつう」とは、何かが、まず難しい。
ただそこを一応常識的には、こんなものだと確定すると、一応「ふつうの読者」の立場から、「ふつうでない」という分析ができる。だからここで「ふつう」の定義をいちいち厳密に確定する必要はない。いちおうの「ふつう」でいい。
以上引用
二項対立というのは、現代文を解読するのに、まずやらなければならないことである。二項対立が現代文読解の要諦であるから。語彙bookが出回っているのは、二項対立の語彙、特に、抽象語の予備知識があることが、現代文解明の鍵であることを暗に示している。
コロンボ警部の思考の論理について
コロンボ警部は、テレビドラマのシリーズ「刑事コロンボ」の中に出てく殺人課の警部である。彼は事故を装った殺人事件を彼の「ふつうなら」の論理で解明していく。ふつうの刑事がふつうに事故だと片づけるところを、「ふつうならこうなるはずなのに、ふつうではない」というところに引っかかり、完全犯罪の綻び糸口に、犯人との会話から矛盾を導き出していく。このドラマの共通した設定は、まず犯人が完全犯罪を計画し実行するところから始まり、そこにコロンボがやって来るという設定である。つまり、犯人は最初からわかっており、コロンボがその犯罪を証明していくという構成になっている。
この時、コロンボ警部が、おかしい? として発するのが、「〇〇さん、あなたは、……とおっしゃいましたよね。しかし、それだとどうも説明がつかないので、困ってるんですよ。と言いますのはね、ふつうなら……となるはずですが、ここでは……になっている。これがどうも腑におちなくてね」というセリフである。すると振ると犯人が弁解する。「それは……その時、‥…だったからなんでだよ」とその場を取り繕う。しかし、次第に無理に無理を重ね、馬脚を表す、というわけです。
コロンボ警部は、「ふつう」でないことに疑問を持ち、そこから、なぜふつうでなかったのか、と考える。
わたしたちは、読解文の読解では、「ふつう」の位置にいなければならない。ふつうはこうなのだろうと考えてふつうの位置から眺めなければならない。
そうすると「ふつうが実はふつうでない」という話しになる。ここでは、ふつうとふつうでないは、二項対立の関係ある。何と何の対立かを、私たちは、対比しなければならないのだ。
抽象化と分類
抽象化というのは、共通の性質を持っているものをさらなる上位概念で括ることである。これは見方を変えれば、対象を分類する、ということでもある。人間も猿も動物という抽象概念でまとめられる。これは、動物と植物に分類したことでもある。抽象化というのは、抽象化できたものとできないものとを分類する意味があるのである。だから分類することは、同時に抽象化をすることでもある。
私見
読解とは、抽象概念を翻訳することである。
抽象化で具体的な何を抽象化、もしくは分類したものか、を考えることである。評論文を考えるとは、抽象化された概念の翻訳、解釈をすることであり、ズバリ「要は…のこと」という言い換えである。受験国語において、抽象概念の具体的内容は、選択肢の中に示唆されることがよくあるから、選択肢で曖昧さを解消できることも多々ある。何を言っているのか、わからないという局面に立たされることも常のことで、それは抽象概念の定義の曖昧さ、二項対立による把握の視点を忘れたことに帰因するものであり、選択肢に示される出題者の常識的な見解というものは、案外と容易に探ることのできるものである。
読解文の読解とは、筆者の言いたいことを、一文に要約することを言うと思っていい。二項対立という読解文の構造、筆者の立ち位置、具体的なものを分類して抽象概念に昇華していく抽象化の過程、抽象語の定義化の過程を追いながら、抽象概念に振り回されることなく、「要は、……ということだ」と理解していく、いや要約していくのが、読解と思う。
先述の、「ふつうの読者」と「批評的読者」とに置き換えて、要約する。二項対立的要約である。ふつうならこう考えるが、批評的にはこう考える、と要約するのである。選択肢問題は、選択肢にヒントがあるが、それとは別に本文を一文で要約することが大切である。