2023.04.28
🟠慶應女子と青山学院
かつて慶應女子を受けた二人の女子の回想
竹の会では、過去2人の女子が、青山学院高等部に合格しています。平成3年と平成11年です。平成3年の女子は、当時渋谷にあった有名塾昴教育研究所に通っていました。彼女は3年間上原中学で学年1番でした。昴ではどうしても1番が取れず2番に甘んじていました。1番だったのは筑駒の生徒と聞きました。そこで彼女は当時数学で評判だった竹の会にやってきたというわけです。中3の何月だったか、忘れてしまいました。慶應女子志望でした。当時の竹の会は過去問合格法が隆盛でした。しかし、彼女は有名塾に通っていましたから、わたしはその頃編集したばかりの偏差値70の数学の問題ばかりを集めた手製の問題集を使ったのです。どちらかというと昴の補充という感じでした。わたしは通っている塾が何をどのようにやっているかなど一切聞くことはありませんでした。黒子に徹したわけです。彼女はわからない問題を直ぐには質問しないで、なんと大量の問題を本番1週間前に質問してきたのです。だから7回解き直しもなし。わたしが徹夜で解いた解法を与えただけでした。自分で解くという姿勢は評価できますが、わからないままに本番突入は想定外でした。慶應女子は落ちましたが、青山学院高等部には合格した、というお決まりのパターンでした。彼女はそのまま大学も青学に進み、風の便りにロシア在住と聞いたことがあります。彼女は、今から考えたら、かなり知能の高い生徒でした。わたしが、竹の会が、最初から、見ていたら、過去問合格法と7回解き直しをやれたら、受かっていたのではないか。有名塾に任せたままでよかったのか。いつまでもその思いが私の胸に去来しました。当時の竹の会では、超有名塾に通わせている親の大手信仰の鞏固なことは十分知っておりましたから、とても口は出せませんでした。
平成11年青学合格の女子は、やはりサピックスに通っていました。竹の会には、中1の4月にやってきたのですが、最初から竹の会はサピのフォローでした。彼女は中学受験で桜蔭をめざし、これも超有名塾に通っていました。中学1年の最初のサピックス全体の模試では、首都圏3位をとったほどの才女でしたが、中3の10月に落ちこぼれていました。それで竹の会に相談がありました。声の教育社の過去問を大量にコピーされたものをサピックスから渡されたといって、困り果てていました。
そこで話し合った結果、10月でサピックスを退塾することにし、竹の会が直前の受験指導を引き受けることになりました。第一志望の慶應女子は落ちましたが、青学に受かって、肩の荷を降ろしたと思っていたのですが、今度は、大学受験のために、通わせてほしいと懇願されたのです。サピックスの高校版から強い勧誘がありましたが、竹の会しかないと懇願されたのです。このとき中学3年間通った大手サピックスに見切りをつけたようです。あまりにもの懇願に仕方なく引き受けました。青学では、3年間数学3科目、英語3科目とも10段階評価のすべて10でした。大学は、竹の会が主力で指導してきた数学で受験することを勧め、念願の慶應大学に合格しました。なんと上智大学経済にも合格。青学では、河合塾などに通って同じ慶應を受験した生徒たちもいましたが、蓋を開けて見れば、受かったのは、彼女だけでした。彼女は塾には何処にも行っていないのに、どうして、しかも現役で受かったのか、と担任も学校関係者、生徒たちの間でも、話題になったそうです。実は、3年間竹の会に通っていたなんて、誰も知らなかったわけです。
竹の会というのは、どうもそういう塾らしくて、竹の会に通っている子たちもその親たちも、決して周りの人には、何処の塾に通っているか、言わない、隠すのです。理由を、聞いてみると、「竹の会に来られたら困る」とか、「自分よりできるようになったら困る」というのが、圧倒的理由でした。友人に「何処の塾に行ってるの」と聞かれても、親も子も「渋谷にある塾」とだけ言って、決して塾の名前は言わないのだ、そうです。実は、これは、昔からそうでした。だから、竹の会では、友達の紹介で、やって来ることはまずありません。そういう繋がりは一切ないのです。かつて旧教室時代は、地元の中学生ばかりだったので、その横の繋がりから生徒が訪ねてくることはよくありましたが、次第に、地元遊離型に変化し、渋谷駅近辺に移転前には、半分が渋谷区以外からの子たちになってました。移転後は東京23区からの生徒たちがほとんどとなり、渋谷区の子はほとんどいない、という不思議なことになりました。
話しは、前後しますが、彼女にも、過去問合格法と7回解き直しの指導はできないままに、終わりました。少なくとも、中3の1年間竹の会の、私の指導ができていれば、また結果は変わったのではないか、とよく思います。あの当時の竹の会は、都立青山・都立新宿・都立駒場の専門店みたいなもので、内申が取れていれば、中3からでも都立新宿には間に合わせるみたいな、今から考えればかなり土壇場の仕事をやっていたものですから、中3からでも合格させてみせるみたいな、変な勢いがありましたね。
今のように、中1入学前から前倒しで中学3年間の数学、英語を中1までに終わらせる、などという戦略もなかった時代でした。河合塾のグリーンコースが進度が速いということは知っていましたが、都立なら負けないという自負はありましたね。
難関高校に受かるには、やはり早くからやらないとダメということは、わたしもわかっていましたが、地元の親というのは、中3になったからそろそろ塾にやるか、という親ばかりでしたから、つまり都立しか頭にない経済層ばかりでしたから、カネのかかる私立難関もなしの時代でした。
たまに難関狙いがやってきても、やっぱり大手という生徒もいました。そういう中で本当にたまにですが、まあまあ難関という高校を受ける生徒もいました。
早稲田実業高校とか、青山学院高等部とか、市川高校とか、東邦高校(医学部狙い)とか、立教新座とか、桐蔭理数(東大狙い)とか、そういうところが、せいぜいでしたけど。
開成とか、筑駒とかは、いませんでしたね。慶應だって受けたのは、平成10年に早稲田実業高校に受かった生徒が、慶應の一次に合格しただけです。大学受験は、慶應大学、早稲田大学、東京理科大、千葉大学など結構受かってるんですよね。
中学受験も、頼まれて、やりました。東洋英和、吉祥女子、国学院久我山、立教池袋、慶應藤沢、昭和女子、獨協、大妻、日大二中、ほかに覚えていないけど、まだまだありましたね。
渋谷教室に移ってから、高校受験は一人いるかいないか、です。昔の竹の会とは様変わりです。
渋谷教室になって、算数だけで、算数特進枠3名の巣鴨とか、攻玉社に受かっています。東京農大第一中学にも受かりました。宝泉理数インター、普連土、とか、多数受かってますが、竹の会では載せなかっただけです。あ、あと東大附属中学は、一時期人気があって、竹の会からもよく受かってましたが、今は関心なしです。
慶應女子と青学、不思議な縁でした。
わたしが、わたしの、責任で、わたしの知力と戦略で戦った、開成、筑駒高校、渋谷幕張、城北、は、令和4年のことでした。
わたしには、竹の会38年の、あらゆる戦いに携わってきた、戦歴、小さな戦い、大きな戦い、苦難の戦い、失意、落胆、歓喜、とにかくあらゆる戦場に身を置いて、傷つき、悲しみ、喜び、励まし、感謝、時には憎悪の、悔恨の報酬を受け、それでも気を取り直して闘ってきたという戦歴があります。
戦いに傷つき、ひっそりと癒し、また再起する、長い戦いの歴史があります。