2023.06.10
#️⃣学校の優等生を第二志望以下に葬り去る大手塾の構造
「竹の会のことは絶対に教えない」(現在通っている塾生の親と子)、「小学校のとき竹の会に来ていればよかった」(中学になって入塾した子たち)、「もっと早く竹の会に来たかった」(小学5年や6年に来てすぐの親子)、「算数の偏差値が20も上がりました」・「算数がとてもできるようになりました」(経済的事情で途中退塾した親の最後の言葉)
こうして、竹の会には、友達の紹介で入塾する人は、ほとんどいいないことになります。もっとも何年も前に通っていた人を通じて知っていた、昔からブログを読んでいたなど、といった人が突然塾を訪ねてくることはよくありました。
竹の会は、個人塾です。決して大手ではありません。指導するのは、わたし一人です。このスタイルは、昭和60年10月開始以来変わりません。宣伝というのも今は一切やりませんね。元代々木教室時代は、DMとか、新聞のチラシなどは何度かやったことはありました。しかし、DMが効果があったのは、最初の数年だけだったように思います。新聞のチラシは効果ゼロです。渋谷教室の初期には都立の学校説明会に合わせてチラシを配ったことはありましたが、これで来た人も皆無でした。結局、宣伝は一切やらなくなりました。
大手の宣伝はカネのかけ方が半端ない。
少子化が進んでいる今、地元密着型の塾は存続が厳しいのではないか、と思います。
竹の会の今のわたしの指導
竹の会の「指導」は、いろんな意味で、今、最高水準にあるのか、と思います。
高校受験では、令和4年、つまり、去年、開成高校、筑波大附属駒場高校、渋谷幕張高校などにおそらくトップ近い順位で合格を果たしています。竹の会の高校受験指導水準が、日本最高水準にあることは、間違いないと思われます。
小学生の「指導」は、今の竹の会の指導水準は、過去最高の指導レベルにあるのか、と思います。特に、入塾試験に合格した子なら、学年が早いほど確かな伸びを見せています。竹の会は、算数のできる子を育てることに関しては、絶対の技術と自信を誇っています。そのことは、竹の会で指導を受けた子なら誰でも認めることでしょう。竹の会は、算数、特に、割合思考を基本枠組みとして、思考の型、思考の枠組み、思考フレームというものを作りあげ、まず「考える」ということを型から入ることで、気がつけば型は外され、型は不要となり、いやむしろ型の存在そのものは忘れさられ、事実に即した、事態に即応した、思考が取れるようになっているのです。
如何にして型から自由になれるのか。それは、型の有用さを知ることから、今までいくら学んでも解けることのなかった「解ける」感覚、「分かる」喜びを知り、割合から、同じ型で、縮尺、単位あたり量、速さ(速さも単位あたり量です)、を理解できるということ、その適用範囲の広さに驚き、もっといい解き方はないのか、探求していく、のです。そして鉄橋の問題、ニュートン算、天秤算などの面白さを知り、面積図という唖然とする方法を学ぶに及んでもはや型など忘れてしまう、いや正確には、思考の基本というものが脳の内部奥底にしっかりと組み込まれていること、これが中学になって、潜在する力として、働くことはもちろんです。すなわちあなたたちは、思考の何たるかを悟り、これからは、自ら考え、自ら道を切り拓いていくことができる、のです。型から入って型を忘れるほどに内面化させた、そういうことです。
竹の会では、小学生は伸びる、グングン伸びる。竹の会の小学生は、面白いようにできるようになる。これは現実だから、嘘はない。そのことは、今の塾生はもちろんわかっている。そして卒業生もわかっている。知らないのは、竹の会を知らない、無関係の人たちだけだ。大手で明らかに失敗しながら惰性で通う人。そういう人たちは、竹の会を知らない、知ろうともしない人たちだ。竹の会を知った人はみな、一人の例外もなく、ただただ驚き、竹の会とは、本当だったのだ、と、知ることになる。
竹の会とは、そんなに凄い塾なのだ、ということを、知る。これは多くの疑心暗鬼ながら入会してみたという人たちが口をそろえて言ってきたことでした。
内部の人は、決して竹の会のことを人には語らない。みな隠す。かって平成5年頃だったか、中学生が言った。「みんなバカじゃないか、近くにこんな凄い塾があるのに、僕は絶対に誰にも竹の会のことは教えません、教えたらみんな来る、それは嫌だ」と。わたしは、苦笑するしかなかった。しかし、そのことは、今も全く変わらない。現在の塾生たちに訊いてみた。「友達に竹の会のことを教えないのか」と。みな、「教えたくない」と口を揃えて言ったものだ。友達に「どこの塾に行ってるの」と聞かれることも多いそうだが、「絶対に、教えない」と決然としていた。これは親御さんも同じようで、知り合いから聞かれると「渋谷のあたり」とか、漠然と誤魔化すのだそうだ。そういうわけで、竹の会が、塾生や親の紹介で、知られることは、皆無です。
疑心暗鬼で、おずおずと清水の舞台から飛び降りたような思いで入会して、たちまち「もっも早く入会してればよかった」という人ばかりです。竹の会ではこういう風景はいつものことです。それほど竹の会を、竹の会の本当のことを知ってもらうのは難しい、ことです。大手しか頭にない人たちには「できない」=「頭が悪いから仕方ない」という諦めが親を支配します。それはそうでしょ。大手はもともと頭のいい生徒を前提に組まれた装置です。授業も、教材も、講師も、天才を集め、天才の能力を助けるために、もともとある天才の力で実績を出す構造になっているのです。まず実績を出す。そうすれば天才にあやかりたいという秀才や秀才擬きが集まる。また頭の悪いのも集まる。頭の悪い子たちは、自分が大手に通えば受かると信じている。だから頭が悪いのです。こうして天才によって作られた擬装が大手ということで権威化されて、万全の商売のしくみが完成します。あとは子どもたちの圧倒的多数を占める、今はできないが、発展途上の頭と信じる親たちがカネを貢いでくれるだけです。この勘違い層こそ落ちこぼれ予備軍です。そして先の秀才擬き集団はみな第二、第三志望に入ることになる。大手とは、天才が第一志望に入る塾です。そこを都合よく勘違いした元々鳶のDNAしかない親が自分の子を鷹と思い込む、つまり親の勘違いを巧みに操る、塾です。
きちんと指導してやれば、できるようになる子たちが,そういう構造の中に身を投じるとどうなるのか。子は親の言いなりですから、実は親が子を破壊する。落ちこぼれにする。自信喪失にする。ひいては人格を破壊する。自尊心を打ち砕かれた子たちは鬱症状を発現し人格さえ危うい。わたしは落ちこぼれた秀才擬きの子たちが無気力となり社会不信、人間不信となった姿を何人も見てきました。
竹の会は、多くの塾が集団で扱い、儲けるという悪弊を38年間目撃してきました。竹の会は一人の個人に焦点を当てて、どうすれば、この子を「わかる」世界に目覚めさせられるか、を研究・探究してまいりました。竹の会の経験では、「よくできる」が8割以上ある子でも、大半は公立中高一貫校専門大手塾でも落ちこぼれます。竹の会でもそういう学校の優等生の大半が受からない、ということは経験してきました。それにはまた別の理由もあるようです。そういう親子は習い事や稽古事、運動部に勤しむことを当たり前にするからです。要するに,受験に対して甘いわけです。わかっていないのです。学校で「できる」程度なんかたいしたことではないのに。ましてや「よくできる」が半分しかないという子たちの指導が大手でうまくいくとはとても思えません。竹の会は、「よくできる」半分までなら、低学年から地道に指導することによって、中学で困らない程度の学力をつけられるというところまで、研究が進んでいます。もちろんそういう子に受験は無理なのは前提です。大手はそういう子を飼い殺しにする。しかし、勘違いというか、能天気なのか、ただ大手というだけで何の迷いもなく子どもを預ける親が世間には溢れています。世の中というのは、こういうB層が多数派だから、回っているのです。知能の高い、真実を見抜く親は少数だから、大手は回るのです。
今の社会は、経済的弱者が、社会の底辺に集まる、というか、掃き溜め化するような構造になっています。そもそも政府が公文書を平然と捏造し、改竄し、破棄し、なかったものとする無責任を公然とやってきました。国民の多くを占めるB層さえ騙せば政権は維持できるのです。こうして、塾におカネを出せない、教育費におカネを使えない人たちが今度は社会から落ちこぼれていくのです。富裕層が教育さえも独占するようになった。富裕層しか教育を受けられないのは、明治時代からの帝大時代と変わらない。あの当時「苦学」という言葉がありましたが、カネがなくても教育が、学問が将来の立身出世を約束するということはみな知っていました。あれから100年以上経っても何も変わっていません。いやいや江戸時代の昌平黌以来、学問こそが立身の源泉だということは変わらなのに。
注 昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)は、1790年(寛政2年)、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。正式の名称は「学問所」であり「昌平黌」(しょうへいこう)とも称される。
竹の会は、ボランティアではない。世の中の、大手という学校の優等生破壊装置と対極を成す、学校の優等生に立身の基となる学問の「取り組み方」から自立した個人に生まれ変わる機会を提供してきた、有料の私塾です。だれかが勝手に竹の会のことを寺子屋などと勘違いしていましたが、竹の会は開成高校にも合格者を出しているほどに、もっとも進んだ、高い指導内容を誇る、東京の最高水準の塾です。けっして町の寺子屋なんかではない。最高水準だから、誰でも入れるわけではない。しかし、大手のように個人を蔑ろにはしない。一人一人に責任を持って指導している。昨今の捏造と改竄と廃棄で責任を曖昧にする公的機関その他とも違う。