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慶應女子,桜修館への道~わたしの歩んで来た道〜わたしの竹の会

2023.05.05

わたしの歩んで来た道〜わたしの竹の会
 竹の会に出逢って竹の会ととも歩んで来た38年。いつも思い出すのは、初めての竹の会の生徒たち
のことです。仲良しの女子生徒3人組、みんな中2で、同じ地域に住み、3人で、通ってくれることになりました。
 昭和60年9月、わたしは代々木中学の中2に募集のハガキを出しました。謄写版で刷った手書きのハガキでした。その時、問い合わせをくれたのが、南新宿に住む、代々木中学の女子のお母様方3人でした。早速面談したのですが、まだ備品も教材もなにもなかった、狭いマンションの一室でした。2時間ほどいろいろとお話しをされて、翌日電話があり、申し込みを、したいと言われて驚いたのを覚えております。東京で初めて塾を始めたばかりで、机も椅子もまだ揃っていなかった。教材もなく、要するに何もなかった。そんなところに申し込んでくださった3人のお母さまには、その見識に感謝しかなかった。
 週2回、1回2時間、月8回の授業でした。そうなのです。初めての竹の会は、授業をやったのです。教材は、教科書を使いました。応用力をつけるために、駿台の市販の問題集やと代ゼミの市販の問題集を買って,必要なところをコピーして使いました。それなのに、生徒や親御さんのの評判がよくて1か月もすると生徒でいっぱいになってしまいました。それでコースを分けて、3サイクルで回しました。それでも人気は人気を呼んで、土日も授業で埋まってしまい、大忙しでした。教材もなにもないのに、とにかくわたしの授業がわかりやすくて面白いと生徒がいろんなところから集まってきました。
 初めての入試は、昭和62年のことでした。12月入会のS君が青山学院高等部と市川高校に合格しました。あの3人の女子は、それぞれ都立駒場、都立目黒、国学院久我山に合格しました。駒場の子はのちに芝浦工大に指定校推薦に合格、目黒の子は東洋英和女子大に、最後の子は国学院大学へと進学しました。わたしには思い出の女子3人組です。
 竹の会が塾として曲がりなりにも成功できたのは、最初の3人のお母さまたちが、海のものとも山のものともわからない、竹の会を選んでくれたからです。
 竹の会を振り返るとき、わたしはいつも3人のお母さま方に感謝の気持ちでいっぱいでした。
 竹の会は、塾激戦の渋谷に突然舞い降りて、無我夢中で戦ってきました。地元の中学、時には、小学生、そしてたまには高校生、たくさん来てくれました。わたしは、新しい子どもたちにいつもわたしの生活のすべてを捧げて指導してまいりました。青山学院高等部に合格したい,その思いに応えようと、わたしは徹夜で参考書を読み、問題を、解いて全力を尽くしました。指導に熱が入り気がついたら時間を忘れて夜中の2時まで指導したこともありました。わたしもまだ若かった。無理が、効いた。
 大学受験、慶應大学に合格させるために、高校数学を改めて勉強し直しました。英語も勉強しました。どれだけ読んだかもう気になったらとことん勉強しました。東大教養学部の英語教科書を生徒と二人で訳してていきました。苦労の末、慶應大学に合格したときは、本当に嬉しかった。
 偏差値38の中学生を偏差値55までにして、国学院久我山に合格させたときは、お母さんに、「神様」と言われました。そういえば、青山学院高等部に一期生の男子を合格させたとき、お母様から「竹の会大明神、足を向けて寝れない」と言われたのを思い出しました。これは上原中の担任が「絶対受からない。不可能」と言ったという伏線がありました。担任は、「竹の会には足を向けて寝れないな」と言ったそうです。
 都立国際高校が初めて募集した年、竹の会から受験した生徒が合格しました。22倍の倍率でした。しかも受かったのは渋谷区て1人だけでした。
 竹の会には渋谷区で1人だけというのがよくありました。平成10年の早稲田実業高校普通部と商業部合格は、渋谷区で一人だけでした。
 不登校の生徒、内申オール1の生徒を都立鷺宮に合格させたときは、450点を超える高得点での合格でした。当然学年1番。彼は高校3年間竹の会に通い、千葉大工学部と東京理科大に合格しました。
 わたしの記憶では、竹の会は、都立青山、駒場、新宿を中心として合格してきたと思います。しかし、旧22グループ、すなわち松原、千歳、千歳ヶ丘…などに合格した生徒たちは夥しい数います。正直もう顔もわからない。上原中学の学区、代々木中学の学区には、多くの竹の会の卒業生がいます。
 長い間、地元密着型としたやってきました。
 平成18年初めて公立中高一貫校の世界に踏み入りました。少子化、公立中学の学習不振児の蔓延、都立高校の凋落、竹の会はさまざまな試練の中にありました。塾というのは大海に浮かぶ小舟のように思います。嵐の中でいつ沈むかわからない、そんな状況も何度かありました。晴れた凪の海だけでは決してない。竹の会が難破することなく航海できたのは、まさに奇跡としか言いようがないのです。
 私立有名小学校、中学校の生徒もたくさん指導してきました。東京女学館の小学生,光塩の小学生、頌栄の中学生、桐朋、青山学院の小学生・中学生・高校生、桐朋の高校生など尽きません。
 横浜から通ってきた高校生、埼玉から通ってきた中学生、みんなみんな思い出です。
 ドイツ在住の頃からホームページのファンで、帰国後、竹の会に入会した姉弟もいましたね。今は思い出の一つです。
 自閉症の生徒もいました。最後は受験に成功してにっこり、「世話になった」と絞り出すような声を出して走り去りました。よかった。
 中学の番長、毎日喧嘩に明け暮れた高校生、いつも喧嘩の報告、わたしは、どんな奴でも心から指導した。そんな奴の気持ちが手に取るようなわかった。自分も親に反抗ばかりして、一歩間違っていたら間違った人生を歩んでいたかもしれない。みんなわたしを慕ってくれました。喧嘩上等。柔道も空手もやった。度胸だけはあった。
 都立西に合格させた生徒を西の3年間指導しました。西原小の時から高校まで見たわけですね。慶應理工に合格しました。
 高校生の指導は、都立駒場、新宿、青山学院などかなり経験しました。今ある竹の会の数学と英語のレジュメは、その頃の授業ノートが下地になっているものが多い。
 竹の会は、都立青山、新宿、駒場の専門家でした。学校の優等生を合格に導いてきたのです。
 私立難関を目指して来る生徒はほとんどいなかったのです。
 でももし難関を受けたいとやってくれば、わたしはわたしのやり方で合格させたと思います。ただそういう人はめったにいません。みんな大手に行くからです。竹の会にいても大手に行く子はよくいました。一期生の3人のお母さまのように、わたしを信頼して丸投げしてくれる、見識のある方はほとんどいませんでした。
 竹の会から慶應大学に合格させました、いうのはホームページでもわかるわけです。でもだからと言って、竹の会を信用してくれることはありません。

 わかる人にはわかる、見識のある人にはわかる。竹の会を信頼できない、認めていないという人ならたくさんいました。いろいろもっともらしい口実を言って竹の会を去っていきました。しかし,最初から最後まで竹の会しか考えていない、という人もいたのです。竹の会はそういう希有な人たちに支えられて長い間生き永らえてきたのでした。

 竹の会と大手(たぶん)を秤にかける、計算高い人たちは結局竹の会を浅いところしか見ないで,「竹の会ではだめだ」と決めつけて,去っていきました。

 竹の会で成功した人たち,それはその見識で竹の会を信頼した人たちでした。竹の会しかないと言い切った人たちでした。すぐに批判的に鞍替えし,代わりはどこでもあるという,心に不信が棲みついている人たちでは決しててない。

 

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