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抽象的視点の確立

2021.04.21

抽象的視点の確立
 地の理(ことわり)
 かつて中1の時、わたしは地理が苦手だった。最初の中間テストで、60点台だったかもしれない。そんな中で、クラスに地理90点台の奴がいることを教えられる。しかも学年2番だという。わたしは、地理の授業中ずっとそいつを観察した。目についたのは、何かと地図帳をチェックしていることだった。これだ! 私は教科書を読むときも、ノートを見るときも、こまめに地図帳で調べた。地図帳がボロボロになるまで印をつけた。何かと地図帳を開いて調べた。そしたら次のテストで90点台に乗った。わたしの勉強はいつもそんなふうだった。できる奴の真似をした。中3のときだった。学校から渡された三年間のまとめテキスト、わたしは標準問題までやればいいほう、空白のところもかなりある、それでやったつもりになっていた。ある時、それは初めての能力別補習授業のときだったと思う、わたしは一番できるAクラスだったのだが、たまたま隣り合わせになった同姓の奴がニヤニヤしながら私のテキストを見ていた。それで私は「ちょっと見せてくれ」と言ってそいつのテキストを見た。そしたら問題は実力問題まですべて終わらせていて丸つけもしていた。こいつどれだけ勉強してんだよ、と思った。そいつは、大分舞鶴高校から大分大学経済に進んだ。東大文Ⅲの一次に合格したが、浪人しないで、地元の大分大学を選んだとこ、がすごい。大学卒業は首席だったらしい。それから公認会計士試験に合格したと聞いた。
 私は最後の実力試験で、そいつと同順位だった。私が初めてクラスで1番になり、学年13クラス550人中の一桁の順位に踊り出た、その時だった。字は違うが同じ「あべ」だったのでよく覚えている。
 わたしは、自分の勉強の不十分さを思い知った。だから丁寧に基本、標準、実力問題を丹念に解いていった。完全に終わらせたら、今度は、繰り返し読み直した。十七回ほど読み直したら、例の最後の実力テストになった。
 私は、5科目すべてのテキストを同じようにやった。
 話しは変わるが、私は鶴見ヶ丘高校へ、幼なじみのF君は上野ヶ丘に進んだ。F君は幼稚園から中学まで一緒だった。かれは中学では学年1番、上野から東大理系に現役合格。学生運動してたのが災いしたのか、エリートコースとはいかなかったようだが、後年大分工大の教授をしていることを知った。しかし、なんと四十代という若さで夭折した。子どもが産まれたばかりだったとも聞いた。
 彼には伝説的なエピソードがいくらでもあった。
 理科の小冊子が一冊だけ足りなかったとき、友達に借りて、一晩で写実的に写しとってきたこと。徹夜して筆記したらしい。私も見せてもらったが、理科の図がまるで写真のようだったことを覚えている。
 かれは開校以来初めて500点満点の500点を取った人として、わたしの記憶に刻まれている。
 かれは一日7時間の勉強をした人として有名だった。彼の家はわたしの家から5分ほどのところにあったが、屋敷には蔵があり、彼はその蔵を勉強室に改造してもらって籠っていたと聞いた。
 彼は真っ直ぐ歩くことができなかった。次第に斜めに逸れていく。頭のいい人はそうなんだと噂された。
 かれは旧家の生まれだったのだ。
 
 地理はなぜ勉強しにくいか
 それは地理のコンセプトがはっきりしないからだ。
 歴史を学ぶとき、私たちは自然、時代というものを考える。公民を学ぶとき、制度というものについて学んでいるということは百も承知だ。しかし、地理には、それがない。九州地方の産物、工業地域なんて学ぶとき、何かバラバラの知識の羅列にしか思えない。何を学んでいるのか、わからないのだ。だからただの暗記科目になってしまう。入試の地理は、いつも暗記派には、不意打ちの問題となる。予想してなかった。想定してなかった、ということになる。
 よく国語の問題なんかでも、読解力のない人、というか読解を誤解している人には想定外の問題となる。読解問題を解くには、受験国語の正体を知るとともに、哲学がなければならない。よく私は作文の指導をするとき、哲学を書け、ということがある。そうなのである。国語は哲学である。
 

 さて、地理とは何か、地理の哲学がわからなければ、ただ暗記科目として勉強していれば、地理ば永遠にものにできない。
 さて、それでは地理とは何か。
 これについては、「地の理(ことわり)」という本が、よくその答えを教えてくれている。
以下引用
地理を学んだり教えたりする際に人が最初に必ず思うことは,「地理とは何か」,あるいは「地理で何を学ぶのか」という問いである。多分,多くは高校までの学びを思い出し,山の名前を覚えたり川の名前を覚えたり,あるいは地域の産業や特産物を言い当てたりすることが地理と誤解して答えるかもしれない。しかし,地理学は決して地名や地域の特産物などを言い当てたり覚えたりすることではない。また,地理学には地形や気候などの自然的な事象から,文化や社会や産業などの人文的な事象までが含まれており,地理学の本質を一言で説明することが難しい。しかし,さまざまな分野に共通する本質は「地」の「理」を「学」ぶことにあることは確かである。「地」の「理」,すなわち地表で起こっているさまざまな現象や事象,例えば土地の高低や降水の多少,人口の集中分散や水土地利用の拡大縮小などの現象や事象の秩序や法則性,あるいは因果関係を考え学ぶことが地理学であり,地名や産物を覚えたりすることは決して地理学ではない。

引用ここまで

 地の「ことわり(理)」を探ぐる、考える、これが地理の哲学である。とすれば、私たちは、地理の教科書からそこに書かれている「ことわり」を推論し、その「ことわり」から知識を整理する、系統化する、分類する、ことによって、暗記としての地理から解放されることになる。
 雑多な知識は、抽象的視点で、整理する。これは、すべての勉強に共通した、王道である。
 もっと言えば、学問とは、哲学である。その意味は、抽象的に考える、ということにほかならない。

勉強のこつ
 具体的な事項の羅列は抽象的な視点で整理する、言い換える
 抽象的な視点は、具体的に言い換える
 抽象的な視点を探せ! 具体的なものを直で覚えようとするな!
 
 理解するとは、どういうことか。
 理解するとは、予め脳の中に用意された抽象的な論理と理解の対象たる論理が、抽象的に付合することといえよう。
 例えば、逆算を理解するというのは、逆算の論理を理解して、具体的な逆算の問題をその原理的論理に符合させながら、解き進めていくことである。
 逆算を理解するには、その前に、計算に熟達しておかねばならない。そこから逆算の抽象論理が理解されること、その上で、具体的な問題に、その抽象論理を適用できること、これをもって理解したという。
 もっと言えば、「逆算」というのだから、そこには、「順算」とでも言うべきものが前提されている。まず、順算だとどういう順序で計算するのか、逆というのは、順算の逆の順をたどるということである。ところが、この逆算については、壁に突き当たる子が多くて、正直指導に苦労してきた。だからいろいろ研究し、私なりにいろいろな指導法を開発してきた。今の指導法でも9割以上は問題ないのだが、5%ほど理解困難児が出る。これはどうしたものか、指導の壁に突き当たったときは、定義に戻れ! これが鉄則である。
 今、試したい方法がある。というか、指導困難児が出ると、これは指導不可だとして切って捨てるか、いやちょっと待てよ、この子の「わからない」と理解を妨げる原因は何なのか、と考える。できない跡を仔細に観察してみると、自分が何をしているのか、意味がわかっていないということがわかる。ブラックボックスの意味がわかっていないのだ。
 元を辿れば知能の問題と思う。しかし、ここでも救済の道を探る。ただ永遠にそんなことはやっておれない。いずれ判決の時は来る。だからどこまで伸ばしてやるか、どこまで伸ばして打ち切るか、だ。

 割合の問題を理解するとは、どういうことか。
 まず、割合の抽象的論理とは何か。
 抽象的論理は、通常定義の形で与えられる。割合の場合は、100等分したものの1つを1%とする、と定義する。
 しかし、この定義だけで割合のしくみを読み解くには、多くの小学生には荷が重い。だからなんだ!ということになる。
 そこでここでも定義に戻ってわたしは指導法を研究してきた。
 今、竹の会の指導の中核となっている、ミクロマクロ法は、わたしの積年のテーマについて、苦心の結果、開発した方法である。
 私はこの方法を「魔法の算数」と呼んでいる。竹の会の子どもたちは、簡単に、割合の問題を解く、みな今では当たり前のようにミクロマクロ法を使っている。それほどまでに竹の会では当たり前の方法となってしまった。私の説明も、ミクロマクロを前提にして、「ほら、こうやれば、ミクロマクロの対応が見えてくるでしょ」みたいなことをやっている。子どもたちは、それで「あっ、自分でやります!」とさっと席へ戻る。これが竹の会の指導風景です。
 塾の先生の仕事、わたしは、理解の枠組みを子どもたちの脳の中に形成してやる、そういうことだと思っています。竹の会では、「わからない」と持ってきた問題の解き方を教えるつもりはない。まず子どもたちの中に思考の枠組みがあるのか、そこから考える。教えるときは、解き方が、重点なのではなく、思考の枠組みをまず確認して、そこから次の思考のステップを提示する。指導というのは、そういう意味合いです。子どもたちは、「先生、指導してください」と言いますが、そこには、「解き方を教えてください」という意に反して、解き方ではなく、考え方の基本となる枠組みを示すこと、そこから、「あっ! 自分でやります」という流れになっていることを子どもながらに知っているのではないか。
 
 氾濫する情報を濾過するのが、私たちに授けられた脳である。脳は質のいい濾過機能を持ってこそ健全な状態を維持できる。
 私たちの脳は、蔓延る偏見、捻じ曲げられた事実、政府の嘘、役人の建前、真実とはかけ離れた説明などを濾過するにはあまりにもお粗末である。
 私たちの脳はもっともらしい情報のもたらしかたをされるといとも簡単に洗脳されてしまう。そして洗脳の恐ろしさはいったん洗脳されると容易にはその洗脳からは解き放たれないということである。脳は如何様にも染まる。如何様にもねじ曲がる。
 濾過器としての脳がその用をなさない。
 よくテレビは観るな! と言われるけど、テレビ局やその関係者が、意図的に作為した、いわば作為情報をただ無防備に受け身で晒されることは考えてみたら怖い。ニュースだって「取捨選択」という作為を経ている。私たちが選んだわけではない。
 ゲームに何時間も脳を使うのは、脳の健全な濾過器としての機能を全くといって使わないで暮らすわけである。情報には無関心、脳を通過する、いや素通りする、これは思考というものがないわけです。社会的には死んでいます。
 新聞の情報は、新聞社という濾過器を経てのものです。
 どこまで信用していいのか。御用新聞は、政府の機関紙みたいなものだ。
 政府の資金で潤っているなら、信用できない。
 許認可という抑制ボタンがつけられていると使えない。
 さて、私たちは、濾過器を経ていない情報をなんとしてでも手に入れなければならない。時の政府やマスコミは国民に嘘をつくからです。海外の情報は、自国のことばともかく他国については事実をそのまま捉えていることが多い。
 その上で、私たちは、自己の濾過器の濾過能力を高める努力をしなければならない。
 脳の濾過力を高めるとは、どういうことか。
 偏見のない脳、バイアスのかかっていない脳が、理想です。
 素直な目で見る、ここでは、子どもの脳が理想である。
 さて、そこで見た事実の深い意味を読み解く、本質を見抜く、これが脳の濾過の意味です。
 私たちは、脳の濾過力を高めるために、脳と向き合わなければならない。
  未成熟な脳の濾過能力を高める、いやその前に濾過機能を設置する、そのために私たちは、算数、割合という濾過製造機を使う。脳というのは、ものではない。脳の考えるという習性を利用して、濾過機能、濾過能力をシステム化する。見えない、精神の糸を編み上げる、構造化する。
そういうことなのではないか、と私は思う。
 今こそ、竹の会の思考育成システムを!
 脳との付き合いというのは、時間のかかる話しです。それは、脳という見えない世界を相手にするからです。気長に付き合う。今の竹の会の方法なら、できない、無理という子もある日突然に芽が出る、できるようになる、そういうことはある、それは最近証明されつつあります。かつては諦めていた子が、今の方法なら救える。しかし、救えるといっても受検ができるほどにはたいていならない。

 

 
 
 

 

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