2020.07.28
◎自信を毀さないようにと気を使った指導の功罪
能力はないのに上昇思考の高い子が陥る、誤解と破滅
竹の会の自信をつける指導が、「できる」と錯覚させ、「ここではダメだ、大手に行かなければ」と決意させた例なら何例かあったろうか。自分の分際がわからないほどの能力だったということである。自分の身の程を知るというのは、賢い人間の証しである。賢い人間には自信家ではない。試験に失敗する人の共通点というものがあるとしたら、おそらく過信することなのではないか、という気がする。直前の模試で好成績だった者は本番で失敗することが多い、のもこの理由かと思う。模試の成績がいい子が次の模試でガタンと落ちることがあるが、過信が根っこのところにある。過信すると勉強も大雑把になり、適当になる。細部に気を配るということもなくなる。過信は思考するときも影響する。先ほどの子のように、解けないのは問題のせいにする。
こうして成功というものが、謙虚な精神に宿ることが理解されたであろうか。
合格する人間は、謙虚な人間であるのだろう。が、この謙虚さは時として勝負すべきときに勝負から逃げるという、最悪の選択をすることもある。難しいところである。
◎指導とはいちいち理解の客観的証しを取る行為にほかならない
仮合格の子たちの多くが、当然のようにある程度までいくと、壁に突き当たることが多いのは、想定されていたこととは言え、悩ましい問題である。入会試験に、合格できなかった子の指導は最初から波乱含みであった。どこまで理解を進められるのか、ある程度までは進められるとは思う。しかし、いずれ壁に突き当たる。壁というのは、自分で突き抜けるしかないのだ。壁を無視して先へ進めれば、それはその時からずっと要介護状態になる。大手や巷の塾は、それをやる。当然のようにやる。なぜならそうした塾にとって、なによりも営業利益を上げることが絶対目的であり、子どもの抱える問題を真に解決する意図など微塵もないからである。要するに、誤魔化すのだ。本質的な解決でないことはわかっていて、進める。答えを覚えさせる。公式を教えて「なぜか」などはどうでもよくとにかく「こうやれば解ける」ということを覚えさせる。大手や巷塾に元々壁など想定されていない。だから子どもたちの多くは、小6になって伸び悩む。当たり前だ。公式をすんなり使える問題などない。少なくとも偏差値のまともな学校ならそんな問題は出さないだろう。解けないのは当たり前だ。自ら壁を乗り越えてこなかった子たちには最初から予定されていたことなのだ。
壁は自分で乗り越えるしかない。それを突き抜けた、あるいは、乗り越えた者だけが、自由な思考、考えることで解決するという方法を手にすることができる。未知の事態、初見の場面に遭遇しても、冷静に状況(事実)を分析して、解決の方法を探る、見つけるという方法をとることができる。
わたしが子どもたちに手にしてもらいたいのは、畢竟その力にほかならない。それこそが主体的に生きる、主体的に考える人間ということなのではないか。わたしがもし教育らしきものをやっているとしたら、これなのかなと思う。
入会試験は、壁を自ら越えられる子を選別する試験であった。何もかも手取り足取りに教えなければ「できない」子を導くのは、竹の会の目的ではない。竹の会では、指導という竹の会独自の概念を使う。指導とは、一般的な意味に、竹の会独自の定義を与えた概念である。この指導によって子どもたちの学力が順調に伸びて行けば問題ないのだが、「進捗」捗々しからずという事態が時として起こり得る。それはたいていの場合、仮合格者に運命的につきまとうものであるが必ずしもそうとは限らない。仮の入会の真意はやがて近い将来に訪れるであろう壁の存在のわたしの直感的な畏れの担保にある。しかし、退塾というのは恨みを買う。心情的にはやりたくない。こうして実態はわたしの理想の塾から遠のいていく。
なかなか独り立ちできない、進捗が捗々しくない、いずれもわたしがもっとも懼れている例の前兆を直感するときである。
指導とはいちいち理解の客観的証しを取る行為にほかならない。
算数判定試験を始めたのも証しを取るためである。担保を取る行為である。レジュメを一枚一枚やらせていちいち検証するのも証しを取るためである。信用していない。子どもの「わかった」という言葉は特に信用することはない。わたしはそれを調べるし、証しを取る。算数判定試験は、やり慣れたレジュメを何回も解き直して思考が停滞していることを見抜いての証しのためにやる。子どもたちの言う七回解き直しがどうも信用できないことになってきた。解き方を覚えているのとどうも変わらないことになってきた。わたしが求めているのは、初見の問題、未知の問題に対する、思考姿勢である。事実を冷静に分析していくその姿勢である。