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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

掲示板という非情について

2019.02.16

⚫️本当に、合格したいなら、この10か月は、勉強だけに専念してもらいたい
 もちろん、竹の会の方針に、合わないと判断された方がこの機に退塾されるのは、しかたありません。
 わたしは、普通の子たちが、8倍という、難関を突破するのは、尋常なことではないと考えています。いいですか。もし都立高校入試なら、2倍というのは、大変な倍率です。2人に1人は落ちるのですから。わたしは、あなたたちが、必ず、掲示板に自分の番号を、載せる、そのためには、それだけの、覚悟と努力が、必要ということを述べているのです。
 わたしは、竹の会でわたしの指導を受ける子たちが、落ちるのを見るのはもう嫌なんです。竹の会に来た以上は、必ず受からせたい。
 わたしは、もうあなたたちが落ちるのを手を拱いて見ていることはしたくないのです。
 わたしの描いた、わたしの思いどおりの勉強をしてほしいだけなのです。わたしには、こうすれば受かるという、確かなものがあります。
 ですから、わたしを信じて、わたしの言うとおりにやっていただくしかないのです。
 竹の会を選択するということはそういうことです。
 これまで、わたしは、課題をやらない子がいても、落胆はしましたが、だからといって、そのことを咎めたりはしてこなかった。そういう子たちは、たいていは掲示板に番号が、「ない」という形で、終わるからである。それだけのことである。しかし、落ちるとわかっているのに、つまり竹の会の、わたしのプログラムから外れているのに、指導を続けるのは、やはり、竹の会の指導の本旨に反する。竹の会を、止める、ということは、普通の私的契約のありかたである。勉強しないという子には竹の会は契約の本旨を履行できない、ただそれだけのことである。中途半端に竹の会にいることは決して双方にとっていいことではない。掲示板には載らない蓋然性が高いという人が、竹の会にいる必然性はない。竹の会に通っているのは、少なくとも合格をとれるほどの域に達する、ということでなければならない。竹の会が早々に見込みはないと判断して、その旨を伝えるのは、掲示板の冷酷を知れば、そうせざるを得ない、苦渋の選択の結果である。決して、私情ではない。目当ての番号がない掲示板の前に立って、いつまでも食い入るように、何度も確かめるように、見ても「ない」という現実を受け入れるしかなかった、わたしの悲痛な叫びである。竹の会でだめでも東京にはいくらでも塾はある。だからそれでも他塾でチャレンジして成功することもあるかもしれない。ただわたしには無理というだけの話しです。

 掲示板にめざす番号がないという、どうにもならない現実に身を置いてきた、悲痛な思いを思えば、やむを得ないことと考えております、
 課題を出せない、居眠りばかりする、覇気がない、家庭学習がない、部活で勉強に明らかに影響が出ている、部活で塾を休む頻度が増えてきた、習い事、稽古事で塾に影響が出ている、勉強に支障が出ている、勉強しないという不作為は論外として、こうした諸事情は、竹の会には、堪えられない事情です。

 なぜ、親も子も、自滅行為に走るのか。
 わたしの描いたとおりになぜやらないのか。
 なぜ今の時間を犠牲にして未来を捨てるのか。わたしには、到底理解できない、選択である。
 高校受験なら、中2の夏を部活で潰してはならない、中2の冬からは、1日も無駄にしてはならない。
 小5の1日をいとも簡単に犠牲にすることの重みを合格発表の掲示板でしか悟れない人のなんと多いことか。習い事、稽古事、スポーツなんでもいい。1日を潰せば、その分未来を潰していることを知るときがくる。
 「先生、お盆は1週間家族と実家に帰省します」
 「先生、夏まで、都大会で、勉強できません」
「部活で遅れます」「部活で遅くなり、お休みします」

 部活は、結局命取りになる。部活を止めれば内申に響くことを心配して部活を続けた結果、入試失敗という実例なら事欠かない。
 本音を言えば、部活をそれなりにやるなら、竹の会には、来ないことである。
 「ゴールデンウィークは、旅行に行きます」  

 本当に合格したいのか、と思う。
 親が、こうします、ああします、というメールをしてきても、私が異を唱えることはあり得ない。わたしは、言われるままに受け入れるだけです。それしか選択肢はない。が、それだけ合格が遠のいていく、ことは、わたしにはわかっている。だから落胆はします。
 かつてある小6が、言いました。「先生、区のホームスティ募集に申し込んで、オーストラリアに2週間行ってきます。夏はあまり出れません」と。この子は、夏の終わる頃、自分の力が、他の子とあまりにもかけはなれて落ちたことを知り、すぐにやめた。それで都立中に受かると思う楽観はどこからくるのか。これほど極端ではないにしても、世の親子の受検を甘くみたとしか思えない行動には、いつも落胆してきた。その見返りは100%自分たちが、甘受するのだから、いいけれど。現実とは、楽観する者には、予期せぬ報いが待っている。

 掲示板は「ない」という黙殺をする。掲示板は黙殺という態度で、「ない」ことを告知する。掲示板は「ない」ということを告知する。
 一旦受検すると決めたなら、そして合格したいと思ったのなら、それからの生活は、すべて試験を中心に回さなければならない。合格に資することのないものは、すべて断捨離するしかない。二者択一である。二兎を追うなどあり得ない。世の中には、二兎を追って成功した体験談がもてはやされているけれど、普通の人には関係のない、むしろ迷惑な話しでしかない。

 私たちは、当たり前のことしか、信じてはいけない。特別なことはない。それが普通の人が生き抜く処世なのである、
 勉強しなければ力はつかない。これは当たり前のことである。長時間勉強しなければ勉強にならない。これも当たり前の話なのである。習い事、稽古事をやりながら、勉強などできない。これも当たり前のことです。なのに世の母親は、ここでは、平気で勉強を犠牲にする。スポーツに打ち込みながら、勉強と両立させると、言い放つ親もいる。しかし、凡人が激しいスポーツ練習とこれまた十分な勉強を両立させるなど普通ではあり得ないないでしょ。なんでこの場合は特別に勉強には支障がないのか、なんとかなるのか、わたしにはさっぱりわからない。
 わたしは、普通のやり方で普通に合格することを考えている。しかし、世の母親は、普通の論理を都合よく解釈して、楽観する。この楽観というのが、まだ試験は2年先、一年先という、なんとも大雑把な勘定なのである。大雑把なだけに楽観はしやすい。なんとかなるでしょ。これである。当面、今の現実の楽を取る。先になったらその時は、なんとかなるでしょ。
 だから素人なのだ。普通の人ではない。普通の人は、何をすればどうなるか、しなければどうなるか、わかっているから、そうならないようにする。わたしは、根拠のない楽観で、物事を判断し、選択する人をバカと呼んだに過ぎない。これはIQの問題ではない。だからB層とは限らない。ただあまりにも愚かな選択をする人たちをこう呼んだ。普通の因果関係を否定し、自分の都合で特別の因果関係を構築してしまう人たちのことである。
 場当たり的な現状肯定のために、恣意的な楽観が、支配する。まっ、いいか、である。なんとかなる、である。現状を、楽を選択する、便利に選択する、将来のしわ寄せを、なんとかなる、で片付ける人たちである。
 「特別の」に意味はない、習い事を続けても勉強には影響しないという特別の因果関係の「特別」とは、ただの修辞句だからである。こういう人たちの、自分を納得させる理屈は、事実の裏づけのない、正当化の言葉、「両立させます」、「遅れた分、頑張ります」など、並べただけ、特別というなら、ここが特別なのかもしれない。

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