2018.05.18
◎家庭学習時間の認識が甘い親と子~まだまだ甘い、親たち、子たちの勉強時間の観念
長時間やったからどうのというわけでももちろんないが、長時間やれない人間は受検、受験をそもそも口にする資格などない。 ただ独学はいけない。無駄、遠回り、迂回が、多すぎるからだ。あるいは、誤解したままに住める弊害がある。独学はどうしても狭くなる、偏る。特に、作文も自己満足で終わってしまう。 塾というのは、目標に最も近い、最短経路を示す能力がある前提である。ただここで誤解してほしくはないのは、大手その他のよろずの塾が、知識を効率よく提供するかといえば、必ずしもそうではあるまい。効率のいい知識の提供はするが、それは決して最短経路ではない。いやむしろ、無駄な、いや有害でさえある、羅針盤に従わせられる懼れが強い。
わたしは、塾というのは、思考を形成することによって、自らの頭で考える、そういう力を付与することに、存在意義を見い出している。 問題は知識で解くのではなく、未知の、今まで考えたこともない、問題に対して、全く真っ白なままに、現場で、素で考えるのである。たよりになるのは、それまでに培ってきた、自分の素の考えるという脳の働き以外にはない。知識を覚えて、心当たりを探すという、脳の働きばかりをやってきたから、心当たりがなければわからない、ということになる。そもそも知識は無限にあり、そういうものを網羅的に捕捉することは不可能であるし、また人間のなしうることを考えれば、知識を増やすという勉強は間違っている、と言うしかない。そうではなく、必要最低限の知識から、論理的に推論して、正解に達するという、こと、これが勉強というものの本質的なことではないか。ここに力を注ぐべきなのである。だから、普段の勉強は、そういう訓練でなければならない。 知識を覚える、増やすのではなく、これだけはという知識を確実に理解し、その余の知識は、元に繋ぐ、つまり、基本の知識に関連づける、基本の知識から推論すれば出てくる、そういう作業をする、これが勉強の内容なのである。これが勉強のこつと言えばこつである。 大手の提供する、網羅的な、知識を頭から ひたすら覚えるの愚だけをしてはならない。 こんなことをやるのは、完全に、人間の脳に、悪い、不可能を強いるもので、脳を確実に破壊していく。 頭が悪くなるのは、当たり前だ。 そうではなく、普段、考える勉強というのは、基本のしくみ、原理というものを、理解したら、その余の知識は、いかにして、その原理、原則と結びつけるか、関連づけるかということであり、これが意味を創造する勉強である。
さて、勉強時間に対して、持っている、親たちの、子たちの、曖昧、不明瞭な、茫漠とした認識が、わたしには理解できない。平気で習い事、稽古事、スポーツに時間を惜しみなくかける、かけても間に合うという、根拠のない認識、頭の構造がわたしにはとうてい理解できないのである。
夏期の外部生募集について、先日、次のような内容のメールがありました。
🔵先生がブログで書かれている「平日5時間,休日10時間以上」の勉強について.5年生から確実にこなしてきております.隣駅図書館の自習席の一席は,週末の彼の指定席のようになっています. 特技・趣味は,彼にとっては勉強の前の軽いウォーミングアップです.思考力,集中力,記憶力を鍛えるためでもあります。ですので,前述の自学時間は軽く確保しております。6年生になってから,休日は5時起床で就寝まで勉強一色ですので,勉強時間が13~14時間を下回ることはまずありません。6年生ならば当然のことと思っております. (以上抜粋引用)
この話しを渋谷Bでしたら、「自慢?」と言ったバカがいましたが、そういう受け止め方がレジュメで不合格ばかりの裏返しになっていることがわかっていない。いいですか。我が子がそれだけ勉強しているから「言える」ことなのです。世の中には、これほど勉強している子がいる、ということです。また親御さんの認識も勉強はすべての価値の上にある、超価値ということで認識にブレがない。かつて平成23年に小石川に合格した男子も、朝5時に起きて、算数の問題を毎日解いていました。わたしがその子のために算数のパズル本を何冊も貸し出したものです。彼はほんとうに勉強一色でした。小石川から現役で東京工大へ進学しましたが、勉強第一ということで迷いのない親子でした。余談ですが、朝6時に毎日バスケの朝練に行くというバカがいましたが、それで受かれば世話はない。落ちるのは、習い事、稽古事、スポーツを勉強と同じくらいがんばる子たち、そして勉強しない子たちでした。6年生になっても習い事、稽古事、スポーツを続け、勉強一色になれない子たちが落ちるのは当然のことなのです。ましてや世の中には勉強一色でこんなにもがんばっている人たちもいるのです。そういう人たちに「勝てる」はずがないでしょ。
◎竹の会のレジュメは、わたしの、最高の、助手
わたしの書いたレジュメから、よくほとんど同じ問題が、都立中、九段などで出題されている、のに出会うことがある。わたしのレジュメは、過去の問題、それは都立中はもちろん、全国の公立中高一貫校、そして私立難関クラスの問題、そういうものを総覧して、わたしのセンサーに反応したものを拾い上げ、取り上げて、時には、改変し、時には、換骨奪胎して、創作したものである。また課題について、ふだんの指導を補うために、様々なテーマを情報誌、メディアから蒐集し、取り上げ、創作したものばかりである。作文については、都立中、九段の過去問を中心に取り上げているが、国語読解では、私立難関中の説明文に材題を求めている。朝日新聞の天声人語に材題を求めたものもある。国語については、国語読解とは何か、について、わたしが研究・分析してきた成果を取れ入れて、完成させた竹の会独自の教材である。かつて平成27年に都立戸山に合格した生徒は、わたしの「国語読解」で偏差値70に達したことがある。それまでの偏差値が50超であったことからその凄さがわかる。最近でも、本年桜修館に合格した女子が、わたしの国語指導によって、四谷大塚の偏差値で71をとったという、親御さんからの報告もあります。竹の会のレジュメは、今では、わたしの指導には欠かせない、最高、最強の助手として機能しております。竹の会には、わたしがこれまで苦労して生み出してきた、数多くの作品が、蓄積されてきました。そして、わたしは今も常に鋭敏に感覚を研ぎ澄ませて、新作の創造に意欲を燃やし、創作を続けております。入門段階の子たちが、通分に苦しめば、新たなる通分のレジュメを作り、逆算に苦しむ子たちが多いということで、数々の魔法を編み出してきました。現在の竹の会の指導体系の中で、割合指導のための数々の作品群は、子どもたちを確実に思考型の人間へと作り変えているという実感を持っております。わたしのレジュメを読めばすべてが「わかる」、そういうレジュメでした。しかし、昨今問題になっているのは、教科書を読めない子たちの存在です。そういう子がわたしのレジュメを読めることはない。竹の会が入会試験を実施して、そういうレベルの子たちを除外してきたのには理由があったのです。竹の会の入会試験はなんのことはない、教科書を読み取れるか、ということを調べているだけなのです。それでも仮合格というのは、正直情けない話しです。仮合格者については、指導困難な事情が判明すれば退塾していただく約束での仮の入会です。仮合格者でも伸びていく例はあります。今年の富士合格者の1人は小5夏以降の仮合格の子でした。また現小6には、仮合格で伸びている子たちもいます。小4早期の入会ということが、幸いして、順調に伸びてきました。小5の中にも、小4早期に仮合格だったが伸びている子たちも出てきました。しかし、小5期以降の仮合格者については、停滞することが多く、これからの指導をどうするか、苦渋の選択を迫られています。