2021.06.05
◎普通の論理、批判の論理
普通ならこうなる、しかし、出題者は、普通でないことを訊いてくる。
普通ならこう考えるというのは無策、よく言えば素直ということか。
試験にもよる。司法試験クラスになると、逆に、素直に考えた方がいい。こんな簡単なことを訊くはずがないと、逆に、裏があると勘繰る、だからベテラン受験生は受からない。ビギナーの方が、裏読みをしないから、出題者の意図に答えている、ということがある。
当面、問題になる高校入試、中学入試に絞って考察を進めたい。
正直、素直に「これだ!」とやったら、まんまと出題者の罠にハマる、術中にハマることになる。適性検査問題には、そういう問題が多い。適性というのは、注意力、つまり一語一語を丁寧に読み取る適性を検査している、のではないか。
「普通ならこう見る、しかし、」の論理
これは、常識とその批判、つまり二項対立という論法である。
常識は飽くまで常識でなければならない。つまり、常識が「ふつう」でないのなら、それは常識ではない。「ふつうなら」という前提が成り立たない。はっきりしない。誤解している。これでは、批判的検討にならない。
「ふつう-批判」の論理は、実は、国語読解、つまり論説文読解の際に、読み解きをクリアにする。
どういうことか、というと、筆者は、「ふつうならこうだ。しかし、」と論説するからである。
これと、文章の作法、つまり、抽象-具体 の流れとは、区別される。
私たちが、何かを訴えるとき、何かの価値を説くと思う。価値論とは、抽象的な命題となるであろう。しかし、これでは、すなわち抽象のままでは、読者にわかってもらえそうにない。そこで、抽象的な命題は、具体的なものに言い換えてわかりやすくするのが論説の流れである。また、具体的な論述が、続けば、今度は、抽象的レベルに言い換える、ということをやる。定義するというのは、価値観の表明であり、具体的なものの共通点の抽出にほかならない。
論説文の構造がこのようなものだと知っていれば、問題は解き易い。
なぜって、抽象的なものの答えは、次に述べられる具体的何かの中にあり、具体的なものの言い換えは、その具体的なものの前か後にある抽象的な部分にあるからである。
受験国語の問題の性質からは、答えは、本文をそのまま抜き出して写すのが基本である。もちろん答えの形式は、問いの形式に合わせることは当然である。
現在、私が執筆した「読解の素」、「読解の研究」は、そのような私の国語観をレジュメにしたものである。
さらに、本文筆者と出題者の設問との関係について、誤解している人が多い。
国語の問いには、客観的な正解(真理)があると考えている受験生、親が多い。だから、本文を正しく読み取れば、つまり、筆者の真意を推論して、国語の設問には答えるものだ、つまり、自分が「こうだ」と読み取ったことを書くものだと信じている親子が多い。
違うのである。本文の筆者の真意がどうであるかなど、どうでもいい。国語、いや受験国語というのは、出題者が、読み取った本文の理解を訊いているのである。出題者は、本文を出題者なりに解釈して問題を作る。その場合、出題者にとっては、作者の真意などどうでもいい。問題を作るとき、作者の所に出かけて、「ここのところはどういう意図で書かれたのですか」などと訊いて問題を作るわけではない。出題者は勝手に、書かれている文字だけを根拠に自分の解釈した理解で問題を作っているだけである。だから本文の筆者の意図を真理、正解があるものとして、考えても、意味がないのである。そんなものは最初からないからでおる。出題者は、本文の字句を手かがかりにわかることだけを問題にする。実際、作者がこう考えただなどと考えて問題を作るわけではない。だから、本文が、どのような言葉を、文章を使って「そう」考えたか、が問題なのである。私たちは、出題者の作った問題を解いているのである。決して、作者の真意を考えて答えるわけではない。わたしたちが、読解の根拠とするのは、本文に表れたフレーズだけである。だから、国語の答えは、本文をそのままに抜き書きするだけとなるのである。
注意しなければならないのは、私たちは、出題者の読んだ、読み取った内容について、考えなければならないということである。だから設問を見て、筆者ではなく、出題者の理解した内容を推測しなければならない。出題者はこう読み取ったのだな、それは本文のこの字句からだな、とこう考えるのである。
ただ問いの形式に対応した答えの形式は絶対厳守である。
「〜とは、どういうことか」という問いの形式には、「〜とは、〜ということである」と答えなければならない。
よく、答えの形式を全く考えない答案を見るが、わかっていない。
「問いに答える」とは、出題者の意図した答えを的確に示すこと、そして出題者の問いの形式に対応した答えの形式で答えることの両方を言うのである。
科学の文は、必ずしも二項対立にはない。もちろん科学的論争というのはあるから、二項対立がないわけではない。しかし、純粋に科学の論文は、仮説と検証、つまり実験で構成されるのであり、私たちは、「普通ならこうだ」の論理が使えないことを知る。
科学の論文は、いきなり「ふつうではないこと」が、書かれているのだ。私たちは、そもそも「ふつう」を知らないのだ。
実は、このような文を書いたのは、今執筆構想中の高校受験生指導のための、国語について、「ふつう-批判」の読解法によるアプローチを考えているからである。
今、執筆しているのは、「合否判定-算数編」であるが、「合否判定レジュメ 2021年」の執筆も当然予定しているから、これからまた時間に追われることになりそうである。
熱心な竹の会の皆さんが、竹の会の方法に落ちこぼれることなくついてこれることを願っております。
相変わらず、「竹の会の授業の内容について」ということを質問されてくる親御さんがいます。まず、竹の会では、「授業」というものはありません。竹の会では、「指導」と呼んでおります。指導とは、何か、ということにつきましては、このブログでもかなり説明して参りました。この一年のブログから探されて読まれることをお勧めいたします。