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最低でも都立戸山/小石川、桜修館は学校の優等生でも無理/「わからない」の正体/竹の会との邂逅

2018.05.02

 ⭕️「わからない」の正体

 教科書を読解できない子供たちが実はかなりの数いる、ということに思いがいくようになった。 「わからない」のは、考える以前に、そもそもの読み取りができないからなのではないか。 「わかりません」というときに、わからないのが、算数なら算数の、数学なら数学の、問題そのものではなく、問題文を読み取れない、という意味の「わかりません」ということではなかったのか。どんなに勉強熱心だとしても、文章読み取りのレベルで、わからない子は、受検、ないし受験の前段階の、勉強の入り口のところで、すでに躓いており、こういう子については、受検どころじゃない、と思う。受検どころではない、もっと本質的な対応をしてやらないと、将来まともに生きていけないのではないか、そう思う。指導のポイントが根本的に違う。

 恐ろしいのは、昨今英語早期教育とかで、こうした子の国語教育が捨て置かれることだ。また「算数が苦手」というと、すぐに家庭教師かなにか、雇ったりするけれど、 そもそもそういう問題ではない。つまり何かを「教える」という問題ではなく、「読んで理解する」という、ある意味人生の根本のところが欠落しているのであり、そこをどうするかという視点こそが問われるのではないか。

 たとえば、牡蠣に含まれる成分が効くという信仰がある。商品を売る方はでっち上げたデータを示し、買う方には、もともと何かが足りないからという平衡を失った心理が強くはたらいている、そういうものに引かれる、というのが、現代の人々の行動基準にあるのではないか。選挙で自民党が圧勝する構造にも似たものがある。それはともかく何かそういうものを求めるという心の渇きが母親たちの行動を規定しているのではないか。 何かが足りないから、できない、という信仰に近い論理である。 これと同類なのが、 自分の部屋がないから、できない、 いい机がないから、できない。 できないのを何かのせいに転嫁する子どもたちの論理である。いい机を買ってもらった途端また別の足りないものを見つけて、できない理由は延々と続く。こういう子たちに欠けているのは、そもそもの実行する意思と行動であり、本質的に、楽をしたい、つまりは怠けたいという深層心理である。 できないのは、やらないから、 それから、できないのは、教科書を読むことができないから、である。これは、やらないというより、やれない原因である。 何かのためにできない、というのは、およそ誤解である。できないのは、教科書も読解できないほどの貧弱な能力、もしかしたら語彙のせいである。要は 実行するかしないか、である。実行とは、才能である。 人は基本的に怠惰であり、楽をする方に流れる。 これは頭の良し悪しとは関係ない。頭が良くても怠け者はいくらでもいる。頭が悪ければなおさらである。稀に頭は悪いけど実行するという子もいる。が、 ほとんどの凡才は怠けるのを常とする。 人間というのは、当面の楽をとりあえず優先する。苦は後回しにしがちである。 だから普段の勉強も後回しにする、つまりやらない。何かが効くという信仰はやらない、実行しない人間の心理にほかならない。

  勘違いした人たちがいる。 教科書が読めない子というのが、昔からいた。そういう子たちには テキストは無用の長物ということである。 そういう子に授業をする意味があるのか。 教科書の読めない子たちが塾に行くのはもともと無意味な選択だったのである。読みができない。目に入る断片的な単語以外の言葉は読んでいない。そういう読み方しかできない。考えるとは、教科書を読み理解することである。 考えるとは、教科書が読解できることである。そして「教える、説明する」、それで、「理解させる」、それが、授業ということである。 しかし、待ってほしい。そもそも教科書を読んでわからない子に、授業することなんてできないのではないか?  教科書がわかる子に授業するのが本来でしょ。

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