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未来の自分

2020.06.18

◎未来の自分
 未来の自分とは、10年後の自分かもしれない。いやもっと先の30年後の自分かもしれない。小学生、中学生なら30年経てば40前半かな。その時に自分は何をしているのだろう、と考えたことはありますか。未来の自分は何をしているのだろう、と考えたことはありますか。
 よく今を大切に生きろと言いますが、その意味を考えたことはありますか。
 今あなたたちが努力する、勉強する、のは、なぜ大切なのでしょうか。
 もしかしたら、「将来のため」と答える人もいるかと思います。将来大きな会社にはいるためとか、なかには具体的に、看護師になりたいからとか、薬剤師になりたいからとか、医者になりたいからとか、すでに職業を考えている人もいるでしょう。漠然と考えていい仕事に就きたいとか、悪いようには考えていない人もいるかもしれません。
 何も将来のことは考えていないという人もいるでしょう。いやむしろそういう人の方が多いのかもしれません。毎日の稽古事、習い事に夢中の人もいるでしょう。
 さてそれでです。あなたたちは、例えば十年後の、つまり近未来の自分がどういう人生を歩んでいるかを考えたことがありますか。
 未来の自分は、幸せだろうか、と考えてみてください。未来の自分は何をしているでしょうか。今10歳なら20歳ですね。大学生になっているでしょうか。もしかしたら大学には行かなかったかもしれません。高卒で社会に出たとしたらどんな職業に就いているのでしょうか。専門学校もあります。もし大学に行ったとして、その大学はどのレベルの大学なのか、国立? 早慶? マーチ? 行く大学によって歩む人生が変わります。もちろん大学はだめでもさらに未来の自分をどうにかするために頑張っている人もいるでしょう。
 未来の自分がどういうことになっているか。それはみな「今」の自分が決めることです。私たちは未来の自分が幸せな人生を送れるようにと今頑張っているのです。3年先の未来だって、今の自分の処し方で決まる。もし今ゲームに明け暮れていたなら3年先の自分は今と変わらない。いや状況は今より悪化している。脳は侵されてまともな判断ができなくなっているかもしれない。
 幸せとは何か。人の幸せとはどういうことか。大過なく平穏な日常を送れることだという人がいる。しかし、そういう幸せは後から考えて「わかる」幸せである。何気ない日常を幸せと感じるのはその何気ない日常が失われたときである。
 幸せを特別な何かがある、満たされることと考える人もいる。お金があって、綺麗な人と結婚できて、快適な家を手に入れて、会社で出世して、など物欲が満たされることを幸せと考える人も多い。
 それでは、充実した人生とは、どういう人生ですか。自分の信念に忠実に生きることと言う人がいる、と思う。学園生活を楽しむ、会社で重要な仕事を任される、重要な役職に就くなど人々は充実という概念に、自分の精神的安寧が満たされると考えているかもしれない。
 この亜流として、自分が理解されること、他人から認められることを挙げる人もいるだろう。
 健康でいられることを幸せと言う人は、病気を自らが経験したか、身内を病気で失った人かもしれない。
 幸せには、存在にかかわるものと、存在を前提として価値にかかわるものがあるということである。健康というのは、まさに存在にかかわる最たるものである。物欲も精神欲も存在が満たされるのは当然としての幸せであった。
 親は子どものために無償の愛を注ぐものである。親は子によって精神を満たされるといってもいい。親は子どもの将来を案じて子のために苦労を厭わない。子は親の苦労を不幸に思うかもしれないが、親は子に尽くすことが幸せだったのである。しかし、その逆は必ずしも真ではない。むしろ子というのは子どもの頃は親のことなんか考えない。自分しか頭にないものだ。それが子どもなのだから。子は子であるが故にこそ自分の心配をしなければならない。親の心配をするできた子がいるのは知っているけれど、それは子どもらしくない、気の回る子だ。
 子は未来の自分を心配しなければならないのであり、将来を漠然と夢見るのではない。漠然とした、将来の自分ではない。十年後、二十年後に確実に「いる」であろう自分である。その時の自分が、幸せな人生を歩んでいるか、である。その自分の人生を決めるのは、今の自分である。
 勉強しない生活、その理由は問わない。ゲームに溺れる、部活に明け暮れる、だらだらと過ごす、テレビに流される、そういう生活が、未来の自分を不幸にする、のは至極当然の流れであり、未来の自分が何をしているのか、馬鹿でもわかる、結論である。
 勉強して何になるか、と言う。しかし、それは勉強しない人間の常套句であり、勉強してみなければ答えの出ない問題である。逆に、勉強しないで何になるのか。不作為、無為からは何も生まれない、ということだけは、疑いのない真理ではないか。
 つまりだ、未来の自分を不幸にすることは簡単なことなのだ。無為、不作為を決め込めばいいだけだから。
 人生は楽しめと言う人もいた。学生時代は勉強よりも部活にのめりこみ、遊びに夢中になる、これも将来の自分に為になる、というのである。
 こういう人は、未来の自分が幸せになるためには、今を楽しむことだ、と言っているわけである。今努力しない、勉強しないことで、今を楽しむことで、未来の自分の為になる? わたしには理解の外にある主張である。
 今、努力しない人間に、どんな未来が待っているというのだろうか。今を楽しむ人間の未来が、未来の自分にどのように生きる幅をもたらすというのであろうか。
 いやもちろん勉強だけが未来の自分を幸せにするわけではない。柔道に打ち込む、バスケに燃える、野球に興じる、などなど、それが未来の自分を幸せにすることに繋がらないとは決して言えない。ただわたしたち凡人には、特にスポーツの才もないし、何かの天分もない、としたらあるのは、いやできるのは勉強することしかない。
幸いなことに、世の中は、勉強する者、努力する者には、平等に門戸が開かれている。わたしたちは、概ね試験という制度を平等に利用することができ、試験がより良い人生の登龍門としてわたしたちを幸せな道へと導いてくれる。わたしたちは、未来の自分が幸せに生きている、ということを満たしてあげるために、今を生きているのである。決して今の幸せではない。未来の自分の幸せのために今を生きている、
 あなたが、未来の自分になったとき、あなたは未来の自分に「今は幸せだよ」と言ってもらえるだろうか。もしそう言ってもらえたら、あなたたちは、過去の自分が過去において、「幸せだった」とその時初めて実感することになる。つまり、今の幸せは、今ほんとうに幸せかはわからない。未来の自分に出会うまで、出会う時まで、わからない。
 未来の自分が、過去を悔いるのを見た時、あなたたちは、過去の自分が不幸なのだと悟ることになる。
 あなたたちは、なぜ生きるのか、もう一度考えて欲しい。あなたたちの今はほんとうに未熟であり、未完成である。しかし、もしあなたたちが完成された未来の自分に出会うために今を生きるならそれは決して意味のない生き方にはならない。

 あなたは、未来の自分を崩すのですか。あなたの日々の行動が未来の自分の形を決める。
 遠い未来、いや近い未来、あなたは未来の自分に会うでしょう。あなたは未来の自分の手を握り、力強く握り締め、言うでしょう。
 「よかった、あなたが、わたしが、幸せで」
  
 未来の自分は泣いているかもしれない。
 あなたに文句を言うかもしれない。 
 あなたを恨んでいるかもしれない。
 あなたを罵っているかもしれない。
 それを決めるのは今の自分です。

 考えても見てください。生きものの死に様を。生きものはみな子孫を残すために自らの命を燃えつきるまで捧げる。親は子のために自らの命を捧げる。あなたたち人間はまず未来の自分のために命を燃やす、それがひいてはあなたたちの子孫を残すということにつながっているのかもしれないが。それが隠された遺伝子的なものであったとしても。

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