2021.04.17
本物の力はついていなかった!
見極める!
合格するだろう、とはなぜか言えなかった。
私が、そう判断するのは、ほとんど直感である。この子は、合格すると思わせる、私の中に込み上げる何かが湧き起こる。私が、「この子は合格させなければ」と思うことがある。私が、「君を合格させてやる」と大胆な言葉を発することがある。これも、私の切なる思いが言葉になったものだと思う。この子を合格させなければならない、これは私の胸に突き刺さるような思いである。
殊勝な態度、礼儀正しい控えめな言動、熱心に指導を仰ぐ姿勢、そういうものが、私の胸を掻きむしるように私の深奥に突き刺さる。
こういうときの私は本当に冷静に対応を練っているように思う。心を研ぎ澄まして、この子を合格させるためにわたしは何をすればいいのか、と考える。そして無心に過去問題集を開く。静かに読む。一枚めくって考える。こういうときの時間はほんとうにゆるやかに流れる気がする。この子を合格させるためにわたしは何をすればいいのか。そういう静かな時間、わたしの中に何かが閃く。それは、その子の感動させるような素直さ、礼儀正しさ、揺るがないわたしへの尊敬の念、いつも一歩距離をおいて控えめな姿勢、合格する子はそういう子でなければならない。合格するのは、そういう子でなければならない。このときこのときに限って私に合格のスイッチがはいる。
親が口出しする子は、これまた不思議と受からない。親が私の指導に「物言う」のは、わたしの合格のスイッチが入らない。親の思うがままにしてください、と私は何もしない。親が口出しどころか、受験勉強を仕切っているときは、わたしの出る幕はない。その仕切りの程度にもよるが、失敗することは確定する。
この子は、なんとしてでも受からせなければならないと私が切に思うとき、私の脳は挙げて戦略的に働く。私が最も冴えているときである。
私は、桜修館は合格させる、いやさせなければならない、と決意していた。新型コロナによってわたしには長い休みがあったし、じっくりと考える時間があったことも有利に働いた。
今年の決定版レジュメ「合否判定レジュメ」はこうして生まれた。私の、合格させたい、その思いがいつも道を開いてくれた。
私の思いはいつも合格するか否か、にあった。
合格してもらいたい、というのは、合格には結びつかない。わたしの希望と私の切なる決意は違う。切なる決意でわたしは動く。
今年の稲は伸びがいい、そういう百姓の言葉は、稲の質だけのことではないことは確かである。天候に左右される稲には、むしろそちらの方が大きいのかもしれない。しかし、勉強の進捗は、やはり質に左右される。知能の質というものは否定することはできない。子どもには可愛いそうだが、もって生まれた資質というものが、子どもの伸びを規定するであろうことは否定できないのである。だからあるところで線引きをするのは仕方ない。竹の会は受検を目的とする塾である。合格するだけの力をつける、としてどんな子もそれが可能というわけではない。
竹の会の指導は、資質に恵まれない子たちにとっても、それはその子たちなりの学力の進歩に寄与するものであることはわたしもわかっている。しかし、それは竹の会の目的ではない。受かるか否か、竹の会の琴線はそこにある。たとえ子の学力が伸びようとも竹の会基準では合格レベルに達しない場合は、竹の会には、指導の対象とはならない。竹の会は、成績をとにかく伸ばすというための塾ではない。竹の会は合格を請け負う塾である。合格しないであろうことがわかる場合には、指導をお断りするのが、竹の会の塾としての矜持である。
「わかりません」と言って説明を求める。説明すると、「わかりました」と言って次に進める。それでそれなりのテキストを終える。7回解き直しもきちんとやる。それでも受かるとは言えない。本物の力がついたとは私は思っていない。
「この問題を解いたのか」とわたしを感心させたことが一度でもあったか。
「わからなかったので、家の人にヒントをもらいました」というのは、少しも私の合格の確信に寄与しない。
私がほしいもの、求めているのは、わたしの目の前で、きちんと整序ある思考を見せてくれることだ。君が本当に自分の思考で、この問題を解いたという証しが欲しいのです。
きちんとした式を立てて、丁寧な字で示してくれるなら、これほど心休まることはない。
「これが解けたのか」、わたしを納得させるのは、これだけだ。
こんな中学生になるな!
よく中学生にはあったのが、課したレジュメを、たったの一枚を終わり切れずにそのまま帰る。何日かおいて次の指導日に、そのレジュメを再開する、これはもうだめだということです。
家庭学習はゼロだったということを如実に証明しています。早晩成績が落ちるところまで落ちること、そして親が騒ぐことは目に見えている。
こういう中学生にはなるな。
中学の勉強というのが、わかっていない。
中学というのは、前倒しにとにかく先へ進められるだけ進めることでしか勝つ道はない。
竹の会にいて、学校の授業と同時進行なんてありえない。ましてや学校より遅い、追いかけているでは、もう完全に落ちこぼれています。
いいですか。中学に入る2か月前から4月入学までの勉強の質で中学3年間の成績、高校入試の結果はもう出ています。これはただ塾に行けばいいという話しではない。その選んだ塾の質に関わることです。のんびり学校の補習なんかをやるのなら行く意味がない。
ただし、入学前2か月の勉強が大切としても、その前にもちろん計算、算数は、徹底して鍛え上げておかなければならない。これが基礎です。この基礎がなければ、中学の勉強はうまくいくはずがない。
中学に入ったら、とにかく前へ進めることです。竹の会の記録では、中1の終わる頃に、中3までの数学と英語を終わらせた子もいます。
理科、社会は、中1が終わるまでに、指定教材を一通り終わらせておく。中3前半までには30回は回しておく。
かつて日比谷高校に合格した女子は、理科、社会100点を、取ったということです。その女子は、竹の会の指定テキストを使っていたそうですが、50回回したそうです。そうです。50回回せば本番で満点が取れる。
国語は、いきなり公立高校の過去問教材を使うのがベストです。竹の会が選んだ教材を毎日一題問題を解きましょう。漢検は、2級まで取る。
ちなみに、英検は2級でいいですが、できたら準1級の勉強をして欲しいですね。
私が何を言いたいかと言うと、指導の琴線に触れない子はダメだ、ということです。
「ん?」「何かおかしい?」、そういうことがある。そしてその時はそれで終わる。しかし、その「ん!」は必ずブーメランのように、返ってきた。だから、私は、些細な懸念も決して見逃してはならない。
子どものちょっとした変調は、看過すべきではない。
ん? 英解が滞っている! 数ヶ月後、英語が取れないという事態に遭遇など。
ん? 指示が流されるな! ん? 渡したレジュメが流されている! これが3か月も続けば、必ず訪れる成績不振など。
事態は、まるで自動販売機のように、コインを入れれば商品が出てくる、ように、現実化した。
中1入学前にぼんやり過ごした者は、必ず落ちこぼれたし、部活を口実に勉強しなければ低偏差値私立に吸い込まれて行ったし、低偏差値私立に行けば中途退学というのも一つの流れだったし、あるいは高卒で社会の底辺に吸い込まれて消えていくというのも変わらない。
要するに、中学ほどわかりやすいものはない。勉強しない者は落ちていく。部活にはまれば十中八九落ちこぼれる。入学前に出遅れた者はたいてい落ちていく。頭の悪い者はもちろんだめである。これは仕方ない。人間は生まれながらの才能で決まる。もちろん怠惰な人間は論外である。努力する人間は救われることはある。しかし、努力だけでは勝てないのも事実だ。
中学はわかりやすい。落ちる理由が明白だからだ。
中学は親と子の態度で決まる。部活やってもなんとかなるなどという親、勉強とスポーツは両立できるという親、部活に寛容な親、そんな人間が成功したのを見たことはない。もっとも成功したという話しは聞いたことはあるが、そんなレアケースなんてなんの救いにもならない。
中学は勉強しない奴から落ちていく。それだけのことである。