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🔛竹の会算数の威力‼️

2023.11.18

🔛竹の会算数の威力‼️
 大手のみなさんが、小4あたりから、多い子で週5、普通は、3〜4回通い、びっしりと問題の詰まったテキストと取り組み、授業を受け、予習をし、復習をし、それでもわからないからと、家庭教師をつけ、あるいは大手に落ちこぼれないための補習塾に通う。季節講習、合宿、週4にプラスする形で、土曜特訓、日曜特訓なる講座を受ける人もいるでしょう。
 しかし、あなたたちの算数力は、それだけやっても思ったようには伸びていない、のではないでしょうか。あなたたちのほとんどは、第二志望、第三志望の学校に行くことになるでしょう。
 竹の会の子たちは、週2回ですね。授業はありません。分厚いテキストもありません。竹の会は、個別対応の「指導」という理念で、竹の会の指導体系を説明しています。指導には、自作のレジュメと呼ばれる指導用の教材を使います。算数の場合、このレジュメを体系的に分類し、段階的にレジュメ集をテキストとして使っています。割合習得課程は、割合概念の理解に徹したレジュメ体系が別にありますが、この課程を終えると、割合を、軸とした指導レジュメ集の訓練に入ります。レジュメの題材はすべて中学入試の過去問です。いわゆる割合五部作を終わると、芝中レベルの実力ということになります。レジュメは一問ずつ自分で考えていちいち採点を受け、合格はんこをもらうと順調に仕上がっていくという感じです。割合五部作は、「算数の魁」「思考の鍵」「思考の素 割合問題編」「新小学思考の素」「小学思考の素 その他の問題編」です。この五部作が、基本習得課程となります。さらに上位は、「割合中級課程」、「割合上級編」、さらに別に算数レジュメ指導体系があります。割合五部作については、それぞれのレジュメ集から、番外編が出ております。例えば、「算数の魁」シリーズは、「魁2」、「魁3」、「魁4」、「魁5」まで出ております。また、「算数の鍵」シリーズ「思考の硯」シリーズとさまざまなレジュメ集が出ております。
 算数中級編
 「推理の素」、「思考の源」、「1%下巻」、「算数新速解」
 算数上級編
 「2018算数」、「2010算数」、「2011算数」
 算数超上級体系シリーズ
 「推論算数」、「新推論算数」、「推論算数第2期」、「算数をクリアーにする」、「推論算数3期」、「推論算数4期」
 竹の会の算数は、一問解く→指導→不合格→もう一度、のような流れになります。
 この算数課程だけ見ても、小5からではとても間に合わないことは自明ですよね。大手から来た子たちは、例外なく、計算が未熟、割合をほとんど理解していない、というものでした。だからどうしても基本からやることになる。だから時間的に間に合わない、ことになる。これで、適性レジュメ課程に入ることを考えてください。だからわたしは小4でも間に合わない子が多いと言っているのです。
理想は、小2です。
小4に 竹の会に来て、それほど優秀ではない子の場合、小2に竹の会に来た子と、教えることは変わらない。小2で分数ができるようになる、小4で分数ができるようになる、指導経験上、全く変わらない。しかし、小2には、小4までまだ2年あるのです。その差は、とてつもなく大きい。思考訓練というのは、とてつもなく時間のかかることなのです。普通の子だと、たいてい間に合わない。小6で失速する。普通の子というのは、理解力もそこそこ、家庭学習も親に言われてやる、自主性、積極性というのは、欠けている,内申は「よくできる」が7割前後,ですね。この程度の子でも、学校では優等生として扱われるようです。それほど公立小の子どものレベルは低い。内申も、「よくできる」が8割以上あると、「いい子」で振る舞える子です。「いい子」というのは、結構欲張りなんです。習い事や稽古事を小さい時からやっていると、それは絶対やめたくない。親も、折角ここまで続けてきたのだからと、同じ態度。しかし、普通の子に、習い事、稽古事をやりながら、受検勉強を完璧にこなせる能力などありません。いずれほころび、にっちもさっちも行かない時がやってくる。ところが、この普通の子ほど、普通の子だからこそかもしれませんが、直前に、どうしても合格したい、親もさせたいという心情が募るわけです。心情で受かれば世話はない。
 とにかく小4から始めて受かるには、普通の能力では無理です。
 内申の「よくできる」が、半分以下というのは、普通にも達していないわけです。本来、そういう子が、小4から始めて、受検に成功することはないのです。わたしは、そういう子は、基礎学力だけはしっかり身につけて送り出したい、という方針です。とにかく、そういう子が受検するのは、最初から無理で、こういう子にやってあげられるのは、中学に入って困らないように、計算とか、割合の基本とかをしっかりとマスターするように指導することです。あるいは、高校受験を睨んで、下地づくりをしておく、ということです。このレベルの子が、基礎も満足にできないのに、受験のための、過去問やったり、そのための、応用教材をやるのは、土台無理なのであり、落ちるべくして落ちたとき、基礎を放ったらかして、蔑ろにしていたつけを中学で払うことになります。
 怖いのは、基礎もないままに、中学生となることです。大手に通った子たちが、躓くのは、ほとんどがこれにあたります。
 母親が「うちの子は数学の文章題が苦手で」などと言っている時点で、既に小学時代をどう過ごしてきたか、わかります。勉強というのは、場当たり的にやるものではない。文章題が、苦手だから文章題を教えてもらう、といったものではない。文章題が苦手なのは、小学時代、計算を鍛え、割合概念を訓練することを通して、思考力を鍛え、勉強習慣を生活のリズムの中の軸に固定化してこなかったからです。勉強に対するスタンスが形成させなかったことが、原因なのです。
 「うちの子は」の母親は、おそらく何のためらいもなく、小学校では、大手塾に通わせ、子どもが大勢の仲間と楽しくおしゃべりするのを微笑ましく眺めながら、子どもが何を勉強しているのか、しっかり計算ができるようになったか、割合をきちんと理解したのか、子どのやっている勉強が、いったい何の役に立っているのか、何も考えないで、大手に行っている、ただそれだけで安心していたのであろう。つまり、「うちの子」の母親は、何も考えていない、そういう母親である。
 おそらく、勉強というものを「モノ」と同類にとらえているのであろう。カネ出して「モノ」を買う感覚で、勉強を買う。大手という大商店から買う。大商店だからいいモノを置いている、いいモノを買えば上手くいく、そう考えているのだろう。
 子どもの能力を全く考えない、いいモノが手に入れば上手くいく、なんとも単純な頭の構造であろうか。
 おそらく子どもは、潜在的に、心の奥底に、隠れた才能があり、今は、それが、出ていない。だから大手がそれを、引き出してくれる、そう信仰しているのだろう。よく若者が、自分探しというものをやるために、旅に出るという、あれと根は同じです。自分の才能は、こんなものではない、心奥に埋もれて今は表には見えないが、自分の才能は内の中にある、と信仰する,それと同じです。そうです。自分探しをする若者は、みな今は不遇なのです。フリーターをやったり、今は間に合わせの仕事に甘んじている。それは仮の姿なのだ、と思うのです。
 この自分探しと根は同じです。小学生からこれを母親に吹き込まれると、学校の成績は散々なのに、平気で、早稲田や慶應をを受けたい、などというのです。
 母親は、自分の子どもの本当の能力はこんなものではない。子どもの本当の能力を探してくれる、それが大手だと信仰しているのです。
 子どもも、母親も、もう早くから、子どもの自分探しの旅の手伝いをしている。それが今の大手に通う子どもたちの、母親たちの姿なのではなかろうか。
 現実をありのままに見ない、自分の子どもは、ダイヤの原石が秘められている、本当は才能がある、そう信じて、子どもも、母親も、ないものを追う。そういう姿をわたしはずっと見て来た。
 親が,弁護士,医師,大学教授という子の悲惨も見て来た。もちろん「だから」子どもが優秀というのであれば問題はない。問題なのは,「なのに」子どもが普通だという場合に生じる。特に,母親は,有名塾を物色し,子どもを入れては長続きしない。家庭教師,個人指導塾,と渡り歩くからとにかく塾の内情にはやたら詳しい。子どもはと言えば,まずどこかの塾で落ち着くことがない。子どもはすぐに不満を母親に告げるから,母親は常に塾にクレームを言うようになる。だから長続きはしない。アメリカの職人の作ったブーツはなかなか日本人の足には合わない。しかし,完全に足に,最初から合う靴なんてあるわけがない。がまんして履いているうちに革が伸縮して足の形に馴染んでくる。つまり,何事も一か月,二か月そこらで結果が出ないからとたちまちクレームを言う,こういうがまんの欠片もない教育をしていることに気づかない親の資質が子どもをスポイルし,社会では使いものにならないくずにしてしまうのだ。

 竹の会は,どうも足になかなかフィットしない,革製のブーツのようなところがある。我慢を知らない,過保護,お姫様,オレ様で育てられた「うちの子」には合わないことを請け合います。石の上にも三年という諺も頭を通過する母親には縁のない塾です。

 

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