2023.04.29
🟠集中できない子たちのこと(再論)
~試験には落ちる運命
自分自身を意識するときには、意識する主体は、自分の外部にいる。壇上で上がってしまった状態は、「何で自分はこんなところにいるのだろう」などと考えているものだ。そうしてこう考えている自分はこんなところにはいない。どこでもない場所でこんなところを見ている。壇上にいる自分を、もう一人の自分が、見ている状態だと言っていい。(石原千秋「未来形の読書術」)。
意識するということはそのものの外部にあるということですね。
おしゃべりしているときの意識は、おしゃべり、つまり、対象に集中しているから、意識を意識することはできないから、消えている。無意識にしまっている、と言えそうだ。もちろん上の空で聞いている、ということもあるから、その場合の意識は、別の対象に向いている。
音楽を聴きながら勉強するという人がいる。この時の意識は、音楽に向けられている。だから音楽以外の雑音、雑念は遮断される。意識が音楽を意識しなくなったとき、雑音が遮断された状態で勉強することが可能になる。だから音楽を聴きながら勉強すると集中できるというのはあながち間違いではない。以前そういう相談を母親から受けたことがある。
ただ音楽がなければ集中できないということにならないか。また、試験会場には、音楽はない。
こういう人は、実は、集中できない人なのである。集中するとは、意識を消すことである。雑念とは、意識が外にあり、勉強している自分を見ている状態であるから生じると言えないか。もっとも意識の対象を外すから雑念が生じるということはある。外にある意識はいろいろ考えることが可能です。勉強しているのを見ながら、別の何かを思ったりするわけです。勉強している自分を見ている。勉強なんてつまらないと思う。
だから勉強しているときは、意識を外に置かないことなのです。それは「考えない」ことなんです。勉強しているとか、本を読んでいるとか、意識しないことです。それなら意識は何処に持っていくか。わたしは、シャーペンもったら、スッと数学の中に入り込みます。本を読む時、国語の試験問題を読むとき、スッと内容に入り込みます。わたしの場合は、「スッと中に入りむ」という意識を信号にしているのかもしれません。
自分で、意識を消す合図というか、信号といってもいい。そういうものを決めておくのです。例えば、机についたらスッと意識を消すのです。
よく教室で四六時中おしゃべりをしている人がいますけど、こういう人が受かるとはとても思えません。受かる人は、勉強始めたら、スッと意識を消せる人です。勉強をちょっとやったら、もう気を抜いている、周りとおしゃべりしている、チョッカイ出してる、ふざけてる、騒いでいる、こういう人が受かるとは、とても思えません。これは、学力とは関係のないことです。
竹の会の合格した先輩たちを思い出して見てください。どうですか。いつもほとんど喋らずひたすら意識を消して勉強していたでしょ。大声で笑ったり、おしゃべりして騒いでいた先輩は不思議と受かってないですよね。
もちろん最初から力のなかった人は別です。わたしが、残念に思っているのは、せっかく能力があるのに、集中できないで、潰れていく人たちのことです。