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🔛無用の長物

2023.10.24

🔛無用の長物
 それがどんなに新しくても、どんなに美しくても、どんなに高価なものでも、使い道のないのなら無用の長物に違いない。
 人はそれが価値がある、高いカネを出したから、そういう理由で、使い道のない、使い勝手の悪い、無用の長物(長物に限らない)に乱される。
 よく失敗、それも取り返しのつかない、死をもって、代償を受けることもある、そういう物とは限らない、無用の長物に自分のせっかくの人生を託していいものだろうか。
 特に、高いカネを使ったから、という動機は、これは怖い。死の選択をすることになることもあるからである。
 捨てるという選択が、自分を救うことがあることは知っておかねばならない。囲碁には、捨て石という言葉があるが、捨て石とは、小を捨てて大,すなわち生きを取る方法である。
 一つには、わたしたちは、一つの道しか選べないということである。
 わたしたちは日々、時々刻々と選択を迫られ、判断を迫られている。
 
 資格試験の経験
 今、考えると、あのときは、見たことも聞いたこともない言葉が出て、それでパニックになった。つまり、判断できないので、次の分岐のどちらで進めるか、決められないのだ。
 破産の否認の登記だった。破産法は特にやったことはない。落ち着いて考えたら、たとえ知らなくても類推はできたと思う。否認とあるのだから、破産の効力を否定して、公示したということなのだから、それを前提に、つまり、民法の詐害行為取消権と同様の処理をすればよかったのだ。
 落ち着いて、つまり、普段着の判断ができればよかっただけなのだ。

 選択の失敗は、数学や算数の問題を解くとき、何度も経験した。いくら考えても、解決の糸口が見つからない。そういうとき、よく気持ちを入れ替えた。子どもたちに解かせるのだろ、めちゃくちゃに難しい解き方なんて求めるわけがない、子どもたちに解ける方法で解ける問題を作るはずだ、そう考える。そう、普通の、当たり前の方法で解けるように作られている蓮なのだ。決して無理難題を問うわけがない。あるいは、これはないだろうと打っちゃっていた解法を半信半疑でやったみた、そしたら、すんなり解けてしまった。そんな経験を何度も何度もした。かつて、竹の会では最高に難度が高いだろうという算数レジュメを制作したことがある。鞄の中に、いつも開成中学、麻布中学、灘中学の過去問を入れていた。空き時間に、いつも過去問集を取り出して、解いていた。特に、難問の難問と思われる第6問ばかり解いた。過去30年以上は解いたと思う。わたしは解いたら、わたしの解き方を忘れないうちに、レジュメにまとめた。それが、今竹の会では滅多に使いこなせる人がいないという、「推論算数 第4期」である。
 去年、開成、筑駒に合格した生徒が使ったレジュメ集がある。これを今年女子生徒たちに使っているが、やはり威力は相当なものだった。
 解き直し指導するだけで、共通問題は余裕で90点超え、独自問題でも85点超と安定している。
 竹の会の、わたしの作ったレジュメが、大手との教材を遥かに凌ぐ。そのことは、既に開成、筑駒合格者が、証明したことではあったが、改めてその威力を実感している。
 話しは、無用の長物に戻る。
 大手塾は、多くの普通の頭の子たちにとって、無用の長物なのかと思う。まず、講師一人対大人数の生徒という図式は、それ自体多くの矛盾を内蔵している。一人に説明しても理解不可能な子たちにまとめて説明することなどあり得ないではないか。中に、一人の天才がいるとすれば、その子には本来説明などいらない。テキストを用意してやれば十分、進学塾なら、能力別にクラス分けしているだろうから、その中でも理解に苦労する子から、余裕で理解できる子まで、また別の次元の落ちこぼれの問題が出てくる。
 進学塾特有の壁がある。同じ講師、同じテキスト、同じ授業、これで差がつくとしたら、個人の能力差以外にない。5番の子はこの塾にいる限り5番のままである。ごぼう抜きはない。あるとしたら落ちこぼれることだけである。同じ条件、環境なら、能力では差がつかない。つくとしたら、怠けた者から落ちていくことだけである。
 竹の会の生徒がサピックス、早稲アカ、Z会などのトップ層をごぼう抜きして、全国1位になれたのは、大手の枠の外にいたからである。それなら自由に、わたしの思い通りにやれる。わたしの選んだ教材を、わたしのやりたいように、指示できる。
 大手の天才諸君が、自らの能力を矯める、無用の長物の罠にハマっているのは、側から見ていて、滑稽な模様ではある。
 すべて大手しか信じないで、 自分の才能の枠に規定され、才能の優れた者から順位を確定されるのが大手である。それは、大手の用意する、講師、テキスト、授業がすべて均一なことから、必然的に生ずる。枠の固定である。わたしの言っていることが、よくわからない人もいるかもしれないので、もう少し具体的に述べてみる。例えば、甲という講師が、Aというテキストを使って、授業をした場合である。Aテキストを理解できるレベルは、個人の能力差で格付けされる。もし、乙、丙という天才がいて、同じ授業を受けているのに、常に乙が上位なら、それは能力差からきているのに違いない。丙が乙を抜きたいなら、努力だけではどうにもならないのだ。同じテキスト,同じ授業を受けている限り逆転はないのだ。
 竹の会は、指導者も、使う教材もすべて違う。だから、ごぼう抜きにできた。そういうことである。

 開成高校,筑駒高校,わたしはわたしの算段でわたしのやれたいようにやらせてもらった。そしたら全国1位が取れた。わたしは高校入試を指導してもうぐ40年になる。それまでに高校入試というものと前線で戦い,生身の体で受験の現実を常に目撃してきた人間である。戦い方をよく心得ていると思う。生徒がわたしの言う通りに動いてくれればである。自らの判断を持ち込む生徒にはわたしの力は及ばない。それは自己責任でやってもらうしかない。

 私たちは常になんらかの無用の長物を抱え込む危険性に満ちている。

 わたしなどなんやかやと無用の長物を意味もなく大切にして,後からその無用にきづくことばかりであった。

 

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