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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

思考取扱説明書2 🔛既成概念を疑え

2024.01.13

🔛既成概念を疑え
 クロスカウンターは、相手の右ストレートを顔面に受けながら、相手の右腕の上からクロスさせながら相手の顔面に放つ、梶原一騎の「明日のジョー」では、そう説明されていた。ふーん、そんなものか、と感心したものだが、殴られながら殴るというのが何か事を為すには身を切らせて骨を断つということかと、そう簡単なことではないな、と思ったものだ。これだとどちらもダメージを受けるが、相手のダメージの方が大きい、という比較的ダメージという話しになる。
 しかし、井上チャンピオンの、引きフックカウンターは、自分はノーダメージで、相手を粉砕している。カウンターというのは、出会い頭に打つということだと心得ているが、相手の突進する力とこちらの突き出す力の合力だから、その力は爆発的である。
 既成概念で常識として語られてきたものが、だいたい十年経つと、まるで違う内容になっている、ということは、もはや常識となっている。
 勉強法の常識
 だれから何を習うでもなく、わたしは、中学一年生になると、試験に備えて、教科書をまとめるということをやっていた。これもだれから習うということもなく、ノートの真ん中に線を引き、左右に暗記事項を対応させて書き、片側を隠して言えるまで繰り返した。これが最初にとった方法だった。級友の中には、教科書に線を引いて覚えるというやり方の者もいた。ノートを真っ赤かにして、赤ペンでまとめる奴もいた。要は、人それぞれということだ。ただわたしのやり方は、中3になって、中学全範囲が試験範囲となると、使えない。そこで悩んだ挙句、学校の補習に申し込んだときに、配られた3年間のまとめテキスト(5科目5冊のテキスト)の問題(基本・標準・発展)を完全に解き、解いたら10回以上繰り返す、という方法に切り替えた。ちなみに、補習は有料でしたが、申し込みしなかった人がいたのか、考えても見なかったが,やはり貧困で進学できない者もいましたから相当数が受けていなかったのだと思います。親ガチャと申しますが,その意味ではわたしの家は決して裕福ではなかったが恵まれていたのだと思います。わたしたちの学年は、12クラスあり、一クラス50人プラスほどいたと思います。補習は、能力別にクラスが組まれていました。
 わたしはこのテキストを17回回したあたりから、テストの結果が激変したことを覚えています。返ってくるテスト、返ってくるテスト、すべてが100点でした。クラスの秀才(学年2番)が、「阿部に負けた」と周りに言い回っているのを見て、頭が真っ白になりました。えっひょっとしてオレ一番? と胸が躍ったのを覚えています。ホームルームのとき、担任が、「今回は、阿部が1番だった」とみんなに告げたとき、一斉に視線が集まり、胸が高鳴り、晴れがましかったのを覚えています。
 そうだ❗️ あの時から、わたしの勉強法は、1冊を繰り返しやる、というやり方になったのだ。
 ただ夥しい情報が、間断なく押し寄せて、時間のないわたしに判断を求めてきた。この時、取りうるのは、情報を捨てる、選ぶことであった。どれもこれも重要に思える情報、切ってはならない情報、が大群を成した。必須と思える情報はあまりにも膨大であった。わたしの概算からは、毎日十時間取り組んで、300日はかかるだろう。反復して頭に入れるにはそれだけの時間がかか。
 思考を毀さないで情報を処理すること、これがわたしに課された課題であった。情報は知識であり、その知識を脳に定着させるには、知識を紡ぐストーリーが必要だ。脳はストーリーなら受け入れる。
 脳が拒絶するのは、知識の羅列、意味のない知識の大群。ストーリーとして脳に入った知識は、思考を殺さない。ストーリーは思考に抵抗なく受け容れられる。例えば、アルキメデスの原理。水槽に錘(おもり)を沈めれば、水槽の水嵩は、錘の体積分だけ嵩が増えるのは、当然として、その体積と同じ量の水の重さだけ軽くなる,というのがアルキメデスの原理だ。
これは単なる知識の羅列とは違う。ストーリーのある知識である。例えば、リトマス試験紙は、酸性の水溶液では、青から赤に変わる。これはストーリーと言えなくもないが、何色に変化するか、などは、脳にストレスがかかることは間違いない。何色から何色に変わるかに、論理性はないからである。

 思考取扱説明書
 脳は一度に大量の情報を認識処理することができない。
 知識は、ストーリーに変換しなければ脳に取り入れることはできない。ストーリーとは、言葉で紡がれる意味として完結したショート物語である。このストーリーが脳への定着を左右すると考えられる。理解とは、ストーリーの質で決まると思います。脳を説得、納得させるに、優れたストーリーを考えつくことです。これが、資質、才能です。
 余談になりますが、わたしは指導において、子どもたちに、理解を実現するために、ストーリーを考えて、与えています。ストーリーは、予めわたしが創作したもの、その場の状況で即興として思いついたもの、過去の先人の遺した数々の名作などです。塾の先生の仕事は,不断に子どもたちに伝えるに適した物語を考案し続けることです。つまり,塾の仕事は宿命的に進化し続けているものでなければならない。
 竹の会は子どもの思考作りを手がけて2025年10月には40年になります。わたしはどうしたら考える子どもにと成長してくれるのか,そのスキルとスピリッツを研究対象として実践の中から確かなものを積み重ねてまいりました。いつしかわたしはどのような子どもでも対応可能な指導の達人になっていたと思います。子どもの知能,個性,性格,背景としての親の諸相(真剣度・学歴・価値観=教育はカネのかかる投資)などを見ながら指導の選択をしています。いつも本人を見ながらの変化に即応しての対応です。低学年だと必ず単調な作業に飽きてきますからその場合は「遊び」が必要です。よく車のハンドルでいうあの「遊び」の意味です。子どもというのはガチガチに律して教えてはいけない。子どものやる気を徐々に呼び起こしていくには「遊び」は有用です。指導というのは,全人間をとらえての,リアルタイムに刻々と変化する子どもの状況に応じての対応です。また,思考態度というものを獲得してからの指導はもちろんまたその質を異にします。いかにして能力を引き出すか,に腐心しての細かい指示になります。人間的に弱い子どももいますから,とにかく塾の先生というのは細かく気を配って子どもを観察していなければなりません。指導の終わった日はぐったりとなるのはそれだけ気を配っているからです。つまり、塾の先生には、感受性、感性も備えての、人間性把握が求められるのです。
 見切り
 たとえ受検目的で入会したとしても、都立中学なら8倍の倍率ですから、これに並以下の小学生が、太刀打ちできるわけもないのです。
 竹の会の入会試験基準で言えば、不合格の子が、合格するほどの力をつけることはほとんど期待できないと思います。
しかし、不合格ならそれだけ基本習得に手をかけてやらなければならないのが、事の理というものなんですよね。入会試験に受からないほどの子は放っておけばどうなるか目に見えています。だから手をかけて将来中学生になっても困らない程度には仕上げておいてやる、そういうことなのです。受検は最初から無理と申し上げております。
 ここは、大手なら知らんぷりしてカリキュラムを進めることでしょう。できない子は、基礎は教えられることもなく、ある意味無責任に公立中学に送り込まれることになります。この大手の態度は、できない子は教えてもできないことを知った上での、カリキュラムを進める、ある意味故意犯です。そういう中に我が子を託した親が愚かだったというだけの話しです。
公立小の8割は、できない子と見ていいと思います。内申の「よくできる」が、8割ある子でも、その半数はできない子です。できない子は、手をかけてやらなければダメな子です。横並びの授業形式で、講師の説明がわかるほど頭のできが良くないということです。
 わたしには、多くの親が、迷わず我が子を大手に入れる、その頭の構造がわかりません。
 言葉は、嘘をつくためにある、と言ったのは、有名な脳科学者ですが、そのとおりだと思います。そんなことは、政治家の言動を見ていればわかることでした。言葉が嘘をつくのは、言葉というものが、脳の表象を必ずしも的確に表現できていないことと関係あると言えばあります。言葉が、脳の表象とは、独立して、言葉だけが暴走するということです。哲学では、言語論的転回ということが言われています。哲学は言語世界の中の問題だということです。
 この問題は、今のわたしの研究課題です。これからさらに本を読み、深めていきたいと思っています。

 子どもが思考に開眼することを願いながら指導する,している。それがわたしの今の正直な気持ちかもしれません。
 竹の会をただの、単なる受験目的の塾と考えていると、齟齬が、誤解が、生じると思います。
 竹の会に受検と言って入会される、しかし、すべての子どもが、どんなに勉強しても、受検できるほどの域に達することができるわけではない。基本の習得に苦労して、基本さえも完全になるか、わからない子もたくさんいます。
 ノーマルな指導展開というのは、基本を習得し、指導に反応する、吸収する、その吸収したものを土台に、次の指導に対応できる子です。受検が可能なのは、そういう子に限ります。指示の言葉が、理解できない、何を言っているのかわからない、そういう子は、受検どころではない。ところが、親というのは、自分の子が大手に行けばなんとかなると信じている、入れてみればすぐわかることですが、そう、大手に入れて、二年、三年と終わってみれば、計算もできない、割合もわからない、そのままです。当然落ちて、区立中に行く。そこで部活に流されて、まわりの向いている、大手塾にまた入る。気がつけば行くところもない。たいていは、単願推薦(つまり、無試験)で低偏差値私立高校に吸収される。
 
 竹の会は、こうした子の脳の壁と戦ってきました。公立小の8割が落ちこぼれる、と思われる割合について、さまざまなアプローチを研究してまいりました。学校の優等生(内申の「よくできる」が8割前後ある)と言われる子でも、割合を十分に理解していない、という現実にわたしは唖然としたものです。中学受験の子たちでも、「解き方」を暗記するとか、公式を覚えて公式を使うことにばかり気を取られて、思考そのものが機能していない場合がほとんどであることも知っています。
 わたしは、割合を思考の枠組みとして、考える契機とすることを工夫しました。割合を通して思考というものを倣う訓練としたのです。ですから、竹の会では、割合の問題を2年は解かせます。割合と言っても広義の概念です。例えば、単位あたり量は、割合と同根です。また、速さは、まさに時間あたりの道のりであり、単位あたり量そのものです。また縮尺及び単位変換も、広義では、割合の問題です。算数は、〇〇算という名前をつけて解き方を学びますが、広義の割合思考は、その外延として、いや思考の遊びとして、これらを解きます。決して、〇〇算では解きません。ただ、竹の会では、面積図の利用は、かなりの頻度で多用します。面積図でだめなときは、ダイヤグラムを使います。面積図、ダイヤグラムは、結局、「比」に収斂します。算数とは、比の匠になることです。
竹の会は割合学を研究して、その研究の成果を指導に実践している、そういう意味で特殊と申し上げております。

 

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